十四話
セオドアが視察から帰ってきたのは二週間後のことだった。道中の魔の森には魔物が跋扈しているため、いつものようにできる限り討伐してきたからだ。
ここで数を減らしておくことでラングレー国内への魔物流入をある程度抑えることができる。二月に一度の大切な業務だった。
「ご無事のお戻り何よりです」
騎士団とともに凱旋したセオドアに礼をするアーノルド。
セオドアは溜まった執務を片付けるべく、すたすたと城内へ入っていく。
「アーノルド。国内に変わりないか?」
「中央はうるさく、民は生活の向上を求めています」
「いつも通りだな」
砦の視察は定期業務であり今に始まったことではないのだが、セオドアはいつもより疲れを感じていた。
砦は冥府に近く瘴気が濃い。病み上がりだったからこたえているのだろうか。
この二週間、頭の中の大半を占めていたのはルビー王女が作ったという料理のことだった。なぜだかわからないが、あの味が恋しくてたまらなかった。
「急ぎの仕事を片付けたら離宮へ行くぞ。ルビー王女の偵察だ」
「ずいぶん余裕を失っていますね? 陛下にも春が来たなら臣下としてこれ以上の喜びはありませんが」
「違うと言ってるだろう。俺が気になっているのはあの料理だ。王女自身は今のところ我が国のお荷物でしかない」
「陛下のために言っておきますけど、本人の前でもその調子だと、料理など絶対に作っていただけませんからね」
「……わかっている」
セオドアとアーノルドは協力して取り急ぎの仕事を終わらせた。
昼食を済ませ、ルビーが滞在している離宮へ出発する。馬車に揺られて敷地を進んでいくが、セオドアにはその時間がとても長く感じられた。
「……北の離宮はこんなに遠かったか」
「城からもっとも遠いですからね。我々はまだ馬車だからすぐですよ。歩いたら三十分近くかかるんじゃないですか?」
「王女も馬車で来たのだろうか」
「いえ、歩きのはずです。王女殿下に何も与えるなと命じたのは陛下ですよ。身元の確認が取れたあとも『そのままでいい。放っておけ』とおっしゃっていたではありませんか。円満に離縁するためだとか言って」
セオドアは無言で頭を抱えた。聞けば聞くほど自分は王女に対してろくでもないことばかりしている。
いくら離縁するためとはいえ、こうして王女に用事ができてしまった今はそのことが悔やまれる。
(彼女は俺の顔など見たくもないだろうな。回りくどいことをせず、最初から話し合えばよかったかもしれない……。ああ、これだから女性関係は面倒なんだ)
苦悩している間に馬車は離宮に到着した。
「おいアーノルド。先に行って様子を見てきてくれ」
「ほんとうにチキン野郎ですねえ。ご自分の奥様なんですよ……」
アーノルドはしぶしぶ離宮の入り口に向かっていく。
セオドアは馬車の中で待っていたが、戻ってきたアーノルドは困惑していた。
「誰も出てきませんでした。王女殿下はともかく、メイドも出てこないというのは不思議なことです」
「俺だとバレて閉じこもってしまったんだろうか」
「いえ、それはないと思います。馬車も皇族用ではない普通の物にしておりますし、訪問のことは伝わっていないはずなので」
「見に行ってみるか……」
身を屈めて馬車を降り、古ぼけた離宮の様子をうかがう。
さして大きくない建物の周りを一周したセオドアは、二つの違和感に気がついた。
(人の気配がないな。中には誰もいないのかもしれない。外出中か? それより問題はこっちだ)
「おいアーノルド! こちらに来てくれ!」
セオドアのもとに駆け寄ったアーノルドは、彼の言わんとすることを瞬時に理解した。驚きで紫色の目が大きく見開かれる。
「これは……。立派な畑ですね。しかも野菜と果実が育っている」
「ああ。芋以外の野菜がここまでしっかりと育つというのはあり得ないことだ。ただでさえ城は魔の森に近く瘴気が強いというのに」
離宮の裏手に広がるルビーの家庭菜園は、この国の状況を誰よりも理解している二人にとって驚き以外の何物でもなかった。国中でこのような畑が作れたなら国民の生活は飛躍的に向上する。高額な対価と引きかえに輸入するのではなく、自給自足していくことができる。
「信じられない光景ですね。いったいなぜこのようなことが……」
しゃがみこんで土に触れるアーノルド。見た目や手触りはそのあたりにある土と何ら変わりはない。
「この青菜はあの粥に入っていたものと同じだ。ルビー王女がなにか事情を知っている可能性がある」
呟くようにこぼしたセオドア。
けれども、その本人の姿が見えない。
再び周辺を歩き回っていると、離宮の裏にある森が、一部獣道のように踏み倒されているのを発見した。
「見ろアーノルド。獣道だ」
「こんなところに? まさか王女殿下は魔物に攫われたとか……!?」
離宮の裏手に広がる森は魔の森とつながっていて、魔物が出る可能性がある。
通常はここまで到達する前に騎士団の定期討伐によって倒されるし、仮に城まで迫ってきても警備や見張りの者が気がつく仕組みになっている。
しかし、物事には例外というものがある。史実をさかのぼれば、数百年前には冥府の王たる魔王が襲撃してきたこともあった。
「……離宮に傷はないが、建物外で襲われたということは考えられるな」
セオドアは厳しい表情で唸る。
「アーノルド、剣は持ってきているな?」
「もちろんです。わたくしは文官ですが、外に出るときは常に帯剣しています」
「よし。ではこの獣道をたどっていこう。調査範囲はひとまず我が国の国境まで。魔の森に変わるところまでだ」
「承知しました。賢明なご判断です」
セオドアが前を進み、アーノルドは背後を警戒しながら進んでいく。
獣道は人が二人ほど通れるような幅で、昨日今日でできたものではないように感じられた。
(これは魔物の通り道というより、人間によってできたもののように感じるが……)
経験豊富なセオドアはそう直感していたが、油断は禁物。じりじりと獣道を進み、小一時間ほどで国境周辺に到達した。
一メートルほど先からは森の様子がガラッと変わっている。瘴気にあふれたこの『魔の森』には猛毒の木々しか生えず、住んでいる動物や虫も人間に害のあるものばかり。
決して入ってはいけないし、なにも口にしてはいけないというのがラングレー皇国に住まう者の常識だった。
「……魔物には出くわしませんでしたね」
「ああ。だが獣道はこの先の魔の森にまで続いている。妙だ」
獣道を作ったのが人間であれば、魔の森に続いているのはおかしい。
そうなるとやはり獣の類か魔物の仕業なのか……?
もう少し進むかどうか考え込んでいると、なにやら小さく女性の声が聞こえるような気がした。
「アーノルド、女の声がするぞ」
「え? ……言われてみれば確かに聞こえますね。魔の森側からです」
声質から女性は二人だと思われた。
そう遠くはないところにいて、なにかに襲われているというのではなく明るい調子である。話の内容まではわからなかった。
「おそらく百メートルもないから行ってみよう。危険を感じたらすぐに退避する」
セオドアが腰に佩いた剣を抜いて構えると、アーノルドもそれに倣う。
一歩魔の森に踏み込んだ瞬間から命の保証はない。木のトゲに触れただけで毒をもらう可能性がある。二人は最大級の警戒を払って獣道の先――声のする方へ足を進めた。
二人の前に現れた光景は、まるで非現実的なものだった。
魔の森とは思えぬ澄んだ水をたたえる大きな泉。そこだけは瘴気に覆われた雲から光の筋が差し込み、小脇にたたずむ可愛らしいログハウスを含めた一帯に降り注いでいる。
「わっ! やったわねエマ! お返しよっ!!」
「あっ、冷たい! やりますねルビー様! わたくしも負けませんっ!」
弾ける水の音。泉の中で水をかけあって戯れる二人の女性。
ルビーとエマだった。




