カリンの仕事
仕事が決まった、と何処か複雑な表情をしたウルから伝えられたのは、訓練場での後遺症がすっかりと癒えた、ある日の昼下がりのことだった。エルを除いた四人で昼食を終え、自室に帰ってベッドに腰かける。途中、ラウの持ってきてくれた紅茶を飲みつつ、カリンはいつも通りに本を読み進めた。
「カリン様、お時間でございます」
「...はい。それでは、二人とも行きましょうか」
部屋の時計が二時を回り、カリンはベッドから腰を上げる。エルとの約束の刻限はもうすぐだ。いつものホールではなく、二階にあるもう一つのホールに来てほしいのだそうだ。言われた通りに廊下を進み、部屋をいくつか通り過ぎる。そうして辿り着いた場所では、重厚なドアと兵士が二人、ドアを挟んで立っていた。
「中で国王がお待ちです」
「リンカ様、ラウ様もご一緒に部屋へ通すようにと仰せつかっております」
二人の兵士は話を終え、重たげなそのドアを開けた。中に入って、すぐに普段のホールとの違いを感じた。空間が明らかに広いのだ。中央に大きな長机があることに変わりはないが、その周りに広がる空間がとても大きい。代わりに、天井が少し低く、部屋全体がドアに似て華美でなく、一貫して物々しい雰囲気を漂わせている。
そんな広いホールでは、上座の椅子にエルが腰掛け、それを中心として部屋に置かれた長机のドアとは反対の一番上座に近い席にウルが腰掛けていた。そして、ホールにいるのは二人だけではなく、エルを挟んで左右に先日見た覚えのある兵士が二人立っていた。
「やあ、来たかい」
「...すみません。おまたせしてしまったようで」
エルと言葉を交わしつつ、カリンはウルの正面の席に腰掛けた。
「気にすることはない。普段のホールと比べて、このホールは会議で使用することが多くてね。少しわかり難い位置にあるんだ」
さり気なくカリンへのフォローを入れつつ、エルはカリンの後ろで立っていたラウとリンカへ席に座るように、と促した。二人はカリンの姿を目に留めた後、エルへ一礼して席へ座った。ラウがカリンの隣、そしてその奥にリンカが座る形となった。
「そうそう。わかりづらいのよね〜。私も小さい頃はよく迷子になってたわ。三階のいつものホールがご飯を食べる大広間で、二階のこっちが会議室よ」
ウルが部屋の説明をしてくれたタイミングで、チリンチリン、と高い音が鳴った。見れば、上座のエルが手に持ったベルを鳴らしていた。その音に合わせて、会議室の外にいた二人の兵士であろう気配が遠ざかっていく。
「ヒト払いをさせてもらった。今からの会話を聞く者は、この部屋にいる七人だけだ。後ろの二人、グレイスとノーリにも情報を共有しておきたい」
紹介を受けた背後の二人が、カリンへ向けて目礼する。それを視界に収めた後、カリンはエルへ視線を移し、頷きを返す。
「...はい。問題ありません」
「それじゃあ、カリンの仕事を...と言いたいところなのだが、その前に一つ君に聞いておきたいことがある。カリンが《《契約》》しているのはウォルカ様なのかい?」
「...訓練場にて、ウルと戦ったときですね」
「ああ。内に抱いていた疑念があの瞬間、確信へ変わろうとしていたんだ」
どうやら初めから読まれていたらしい。苦々しいしらを切ったところで、ただでさえ薄葉のような関係に亀裂を走らせるだけだろう。そう考え、カリンが口を開こうとしたときだった。
「はあい!私の名前を呼んだのはあなた?ずいぶん端正な顔立ちねえ」
「ウォルカちゃん。またリーに叱られますよ」
現れたのは、あどけない顔立ちの水髪とキリッとした顔立ちの黒髪の少女。エルの近くへと駆けて行こうとする陽気な水髪に対して、彼女を窘める言動を見せる黒髪。その姿を目し、会議室に集った全員が膝を折って跪く。
「...ウォルカ様、グロッタ様、お久しぶりで御座います」
「カリーン!逢いたかったわあ。相も変わらず、シケた顔しちゃってえ」
「ウォルカちゃん。他の者もいるのだから、そのくらいにしなさい。......皆さん、直っていいですよ。光の国王殿。貴方も気にせず、席にお座りなさい」
グロッタの合図で七人は元の位置へとかえる。しかし、彼らの心が平静さを取り戻すことはない。二人の出現により生まれた異様なまでの威圧感。それがこの部屋を一瞬のうちに掌握してしまったのだ。
「カリン、こちらの方々は...?」
少し震えた調子で問いを投げかけるウル。彼女もまた、この場に呑まれた一人だ。
「あっ、自己紹介ね。私そういうのって、チョーとくいなの。それじゃあ...はじめまして。我らと契約せしむる者達よ。我は、神が一柱、水ノ神ウォルカ。えっと、好きなことは楽しいことで、特技はみんなを笑顔にすること!よろしくねえ。はい、次!グロッタ!!」
「フリが雑です......そうですね。ウォルカちゃんと同じく、神の一柱、創造神グロッタです。今日は下界に散歩に来ただけなので、そう固くならなくてもいいですよ」
そんなことを言われたところで、この空気の中で肩の力が抜ける者がどのくらいいるのだろうか。それは、グロッタも承知だったのだろう。体を強張らせたままの彼らへ、気にした様子もなく微笑みかけた。
「今代の水ノ神に創造神...」
「ええ、その通りよお。光の麗人さん」
半ば放心状態のエルに優しく頷き返すウォルカ。崩れるように彼が腰掛けた椅子へ近寄り、何事かを呟いた。すると、彼女の手の中に水球が一つ作り出される。その水球は見る間に形を変え、水の花を形どった。本物としか思えないほど精巧だったが、向こうの情景が鮮明に捉えられるくらいの透明度に息を呑む。
差し出されたその花を興味深げに眺め、エルはウォルカの手から柔らかな笑みとともに受け取る。彼に笑みを返し、ウォルカは指を鳴らした。すると、エルの手にあった花がポンッと可愛らしい音を奏で、一瞬のうちに真白な花へと姿を変えた。今度は水で作られたものではない。瑞々しさを残した一輪の花だ。
「これは...鬼灯?いや、花びらの形が少し違うな。それに見たことのない色だ」
一連の光景にカリンは目を細める。今の魔法は、まずウォルカが水魔法を操り、花の形を模した。そして、彼女が指を鳴らした瞬間、その魔法にグロッタが干渉したのだ。この場でその原理に気がついたのは、二神の魔法を行使したことがある彼女だけだろう。
「ええ。これは鬼灯ではなく龍葵と言います。綺麗な”白い”花でしょう?」
グロッタの発した”白”という単語は、静まり返った会議室に波紋を呼んだ。普段と変わらぬ様子を貫くのは、”白”を知るカリンと”白”であるラウのみ。傍に控えるリンカですら、ウルと同じように目を輝かせて、龍葵の花へと魅入っていた。
「”白”...っ!?文献でその名を目にしたことはあったが、まさか現物を拝める日が来るとは...」
「わぁ〜、すごいすごい!お兄様、私にも見せてください」
手渡された花を持ち、楽しそうに笑みを溢すウル。彼女の笑顔に段々と室内の雰囲気が和らいでいくのを感じた。最初から、神たちの狙いはこれだったのだろう。
「それで、麗人さんには何か質問があったんじゃなあい?」
彼らの様子を頃合いと見たのか、ウォルカが話に割り込んだ。
「_...では、水ノ神よ。あなたはカリンと契約されているのでしょうか?」
エルの視線が一瞬だけ此方を向いた。ウォルカは少しだけ考えるような仕草をした後、ポンと手をうって言った。
「契約、なんてそんな生易しい言葉じゃダメよ。私とカリンの間には切っても切れない絆があるんだからあ」
「キズナ...なんて、とっても素敵だわ。カリンはウォルカ様に愛されているのね」
手に持った花をクルクルと回転させながら、カリンへ笑顔を向けるウル。彼女の笑みに何処か違和感を覚えつつも、カリンは静かに頷いた。
「......ええ。とても有り難い限りです」
「でしょ!この私に愛されているんだから、もっと胸を張ればいいのに」
「ですが、それができないところが何よりカリン様らしい」
ラウがそう言って、生き生きとした表情で尻尾を振る。そんな彼の姿に、ウォルカとグロッタの視線がカリンの傍らで控える二人へ向く。
「二人とも久しぶりねえ」
その親しげな様子に、カリンは小さく首を傾げた。
「...久しぶり、ですか。ラウくんもウォルカ様と面識が...?」
ウォルカに続いて、言葉を紡ごうとしたグロッタが僅かに目を見開いたのがわかった。
「くん...?」
「はい。昔、色々ありまして」
間髪いれず、静かな声でラウが釈明する。昔、色々...。随分、濁された気もするが、彼にも話したくないことはあるのだろう。そう考え、カリンが静観の姿勢を取ったときだった。
「昔?昔って何の話?」
ウォルカが疑念の声を上げたのだ。その場にいた者たちの視線が一斉に彼女の方へ向いた。こめかみに手を当てて唸り声を上げるウォルカだったが、暫しの後、グロッタがそちらへと歩みを向けた。ウォルカのすぐ隣で足を止め、何事かを耳打ちすれば、彼女の瞳がはっきりと見開かれる。
そうして、ウォルカから僅かに距離を取り、グロッタは朗らかに微笑んだ。
「ウォルカちゃん。少し前のことをもう忘れたのですか?」
「残念だけど、まあったく覚えてないわね。ホント、時の流れには辟易よ」
見開かれた御空色の瞳でぱちりと大きく瞬きをし、ウォルカは首を横に振った。その時、カリンと目が合ったが、何もなかったように逸らされてしまった。
(.........)
「そろそろ話を戻してもいいかい?会議の続きだけど」
視線の置き所を見失い、何となく右隣の彼の姿を盗み見ていれば、エルがパンパンッと二回手を叩いた。カリン含む皆の注意がエルの方へ向き、彼は顔を此方へ向けた。何であろうか、と思考するカリンであったが、彼の目が自分ではなく、更に後ろへと向けられていることに気がついた。
「では、ウォルカちゃん。私たちは帰りますよ」
しかし、カリンの視線が追いつくより前に、影が彼女の横を通り過ぎた。何かを言う間もなく、グロッタはウォルカの隣に寄り添うように並び立った。
「じゃあねえ。あっ、最後に一つだけ!カリン、何かあったらすぐに私たちを呼ぶこと。いつも一人で突っ走ってっちゃうでしょ」
「......わかりました。その時は御力添えをお願いします。お二人とも、お気をつけて」
カリンに合わせて、皆は最敬礼の形を取った。二柱の神は手を振ることでそれに応え、段々とその姿は消えていった。
席に座り直し、エルが肩の力を抜いたのが見える。カリンの視線に気づいた彼は気恥ずかしそうに笑みを浮かべ、その後打って変わって真剣な表情で、会議を再開させた。
「じゃあ、カリンの仕事についてだけど、君にはウルの教育係を任せたい」
「......教育係、ですか。ウルには必要ないのではありませんか?少々、破天荒かもしれませんが、愛嬌の範疇かと思います」
段々と息を潜めていたウルが、カリンの意見に同調するように首を縦に大きく動かした。叱られる、とでも考えていたのだろうか。
「確かに一般的な礼節、マナーに関しては及第点といったところだろう。おまけに、医術の知識もある。しかし、仮にそれを差し引いたとしても、お釣りが束で貰えるくらいには困ったことがあってね」
「...困ったこと、とは何でしょうか?」
「ウルは極度の勉強嫌いなんだ」
叱られる気配を察知したのか、ウルが静かに顔を背けた。しかし、ウルの表情を追いかけるでもなく、カリンの視線はエルを見つめて静止していた。
(はい?エルさんは今何と...)
そんなカリンの心中が汲まれることはなく、エルは神妙な面持ちで話を続ける。
「近年では、勉強という単語を聞いただけで、逃げ出してしまう傾向にあってね。ああ、ほら今も」
エルの示した先で、ウルが席を立ち、足早に部屋から出ていこうとするのが見えた。しかし、それは為されることなく、他ならぬエルの手によって遮られた。一瞬のうちに、ウルとの距離を詰めたエルが彼女の行く手を阻む。短い悲鳴と共に、見る間に席へと戻されてしまったウルは不満げに頬を膨らませた。
「もー、お兄様のずる。今のは卑怯よ」
「こんなふうになってしまうんだ。前の者達も手を焼いていたようでね...」
帰りは先程の高速移動を使うことなく、相変わらず羽織られた白衣を翻して席へ座り直した。そんな兄妹の姿をぼんやりと眺めた後、カリンは小さく手を挙げる。気がついたエルに断りを入れ、話を戻すように口を開く。
「......あの純粋な疑問なのですが、どのくらいできないんですか?」
エルは短い思考の後に、苦々しい表情を浮かべた。
「過去、ウルには他にも教育係をつけたことがあるんだ。しかし、その全員が彼女を見て、自分には無理だ、と仕事を辞めてしまってね」
「...そうですか。では、お力になるかどうかはわかりませんが、その仕事承らせていただきます」
カリンからの承諾を受け、安堵したように光の王はようやく笑みを浮かべた。
「ああ、助かるよ。_...ほら、ウルもいつまでも拗ねていないで、何か言うことがあるだろう」
「はぁ〜い。カリン、よろしくお願いします。ところで、お友達なのだから小難しい話はやめてちょうだいね。眠たくなっちゃうから」
難しい話となると、国政についてや催事に関することだろうか。そもそも、知らないわけではないが、島の東側は光の国が統治しているのだから、西側とは全く様式が違う。その当たりに関しては、よっぽどウルの方が詳しいだろう。エルが求めているものも、きっと別にある。
「...なるほど、わかりました。では、カシェ島の成り立ちから文化圏についてなど___ 」
「その話は全力で拒否させていただくわ!!」
「......わ、わかりました」
カリンにとっては妙案のつもりだったのだが、ウルにとってはそうでなかったらしい。二人の間を阻む長机へ、身を乗り出して声を上げた彼女を複雑な面持ちで見つめる。
「さて、無事に仕事も決まったことだし、次は此方の要求を呑んでもらうよ。カリン、式典の日の情報の開示及び君の考える復讐についての過程が知りたい。我が国も停戦関係にある以上、他人事ではすまないからね」
無理もないことではあるが、事務的にエルは闇の国との関係を口にした。停戦からは少なくない年月が経過している。しかし、あの約何万年にも及ぶ戦争は両国の間に暗い影を落としたままだ。
「...はい。では、まず、あの次期国主披露式典で何があったのかお話いたします」
方針を固めるためにも、この辺りで情報をすり合わせておかなければならない。時間の経過に伴って、あの日のことを忘れるわけにはいかない。
(これ以上、欠けてしまう前に...)
会議室にいる者はリンカを含め、あの焔の日に行動を共にした者はいない。エル達にしてみれば、城で起こったことすら知らぬままとなってしまっている。カリンは焔の日に起こったことを自身の身分を偽り、国王フェルドとの関係性を伏せながら語っていく。全ての話を終えたときには情報量の多さに皆難しげな表情をしていた。
「つまり、この一連の原因は現国王フェルドにあるということだね。それにしても、禁呪を使用することによって、封印された闇を起こすことができる書物_...禁書といったかな。残念ながら、禁呪はカシェ全域で禁止されているからね。禁書というモノは聞いたこともない」
エルは憂いげにため息をついて、椅子に背を預けた。他の者も禁書に心当たりはないようで、口を閉ざしたままだった。
「ねえ、カリン。キンショってどんなものなのかしら?金色でカッコイイ感じ?」
重く静かな空気に耐えかねたようにウルが話しかけてくる。
「...金色でかっこいい、のはよくわかりませんが、ご覧になりますか?」
禁書の装丁を思い浮かべ、カリンは何も無い空間へと手を伸ばした。重厚な手触りを感じて、それを此方側へと引き寄せれば彼女の手の中にはいつの間にか禁書が出現していた。決して、正面のウルが想像したであろう豪奢な装丁ではない茶の革表紙には保存状態でも悪かったのか、長年の劣化で擦り切れた何らかの言葉のようなものが刻まれている。
興味深げに禁書を眺める一同を見回し、カリンは立ち上がって上座のエルへと本を差し出した。
「手に取っても?」
「...はい。構いません」
受け取って、暫しの間その装丁を物珍しげに見つめていたが、少しして禁書のページに手をかけた。
「...駄目です。禁書の閲覧には対価が」
カリンが制止の言葉をかけるよりも早く、エルの手は容易く禁書の中身を開いてみせた。そして、彼の耳に遅れて届いた言葉が、ようやく彼の顔を此方へ向けた。
「カリン。この書には何を...っ__!?」
戸惑ったような声音と表情が向けられ、しかし、次の瞬間にはエルの触れた場所から禁書の間を鋭く黒い光が拒むように貫いた。後手に控えるグレイスとノーリが得物に手をかけ、禁書を破壊しようと動く。だが、それより早く危険を感じたエルの手から禁書は離され、二人の従者は得物を仕舞い、主へと声を掛ける。けれども、当の本人は右手を顎のあたりにおき、長机の上に落下の衝撃か閉じられたまま佇む禁書を見据えていた。
「【裏切者に禁書を開く資格はない】...?」
「お兄様...、お兄様!おケガはありませんか?」
エルは何かを考え込む仕草をして暫く禁書に見入っていたが、幾度目かの妹の声にようやく意識を浮上させる。
「あ、ああ。大丈夫だ。どうやら、嫌われているだけらしい。本にさえも気分があるだなんて、愉快なことだよ」
未だ警戒態勢を解いていない部下にも、大丈夫だ、と手を上げて応え、正面を向いたエルは全く楽しげには見えない表情を覗かせた。
「カリン殿。陛下の手前、言わせていただくが、これはどのような歓迎の仕方ですか?」
「......申し訳ありません」
何やら物思いに耽り始めたエルを慮るように、後ろに控えたグレイスが細い目を更に細くする。謝罪の言葉が口をついて出たが、それきり話を続けることはなかった。カリンでさえも、何が起こっていたのかわからなかったのだ。自分が禁書を閲覧したときとは、まるで違う。
「でも、全部カリンに非があるわけじゃないわ。お兄様が禁書を開かれる直前に、静止してくれようとしていたもの」
同意を求めるように、ウルは面々の顔を見つめた。グレイスにも、真にカリンを責めるつもりはなかったのだろう。ウルの意見の前にやけにあっさりと引き下がった。すると、グレイスの隣でずっと無言を貫いていたノーリが手を上げる。
「それよりも問題は、何故禁書を開くことができなかったのか。より厳密に言えば、何故禁書に拒絶されたのか、でしょう」
「その通りだ。カリンには何かわかるかい?」
考え事は終わったらしく、禁書の表紙に手を触れながら、普段と何ら変わりない柔らかな口調で尋ねてきた。反対に、禁書を眺めて、カリンは彼女に代償を与えたモノとのやり取りを回想する。
「...禁書を開くためには相応の対価が必要です。しかし、拒絶された前例を知らないので、何とも言えませんが...そうですね。エルさんのおっしゃったことは、あながち間違いではないかもしれません」
あの不明瞭な存在には見合わないほどの恣意の塊。明確な自我は確認できていないが、強烈なまでの私怨が寄り集まって出来上がった意識や思念に似たものを感じた。これは、カリンの主観に過ぎないことだが、あのヒトはきっと迷っている。
考えが全て伝わったとは思わない。しかし、エルの中でも思い当たる節があったのだろう。彼は口を閉ざしたまま悲しげに目を伏せるばかりだった。
「...話を前に進めさせていただきますが、先程も言った通り私には禁書を閲覧することが可能です。無論、使うことも。ですが、今はフェルド国王陛下を呑み込んだ闇によって、全てのページが白紙に返っています」
カリンは立ち上がって禁書を受け取り、するりとページを開いた。もう一枚、ページをめくって見せるが、やはりそこには何の記述もされていない。
「...復讐の概要についてですが、まずは解き放たれた闇を封じ直すこと及び禁書自体の再封印です。これが、始まりの段階であり終わりでもあります。闇を禁書の中に収めることさえできれば、同時に私の復讐も遂げられるでしょう」
置いた手で禁書の空白を撫でつけながら、独り言のように呟いた。復習という言葉に正面のウルが体を強張らせたのがわかった。
「君の復讐だ。手を貸す、といっても、なまじ労働力となる気はさらさらない。私達は薄氷の上で成り立っているに過ぎないのだからね」
東西、両大国が結んだ停戦条約は表面上の見掛け倒しである。双方ともに戦争の続行が困難であると判断したために、このように不本意な形で収束を迎えざるを得なかったのだ。
「...それは重々承知しています。私はたとえ手を貸す者が誰もいなくとも、立ち上がることはできますから」
国同士の軋轢から生じた歴史の重みを感じながら、カリンは首肯した。そんな彼女の緊張を感じ取ったのか、ウルが不満げにツインテールを揺らし、上座の兄へと顔を向けた。
「もうっ、お兄様ったら!また、そんなイジワルを言って...いい、カリン?私はいつだってあなたの手助けをしてあげるわ!だから、この私にドーンと任せなさい!!」
勝ち気な笑みでカリンへ向き直ったウルの圧に飲まれるように笑みを貼り付けて応じる。
「ああ、案ずることはない。勿論最低限のことはさせてもらうよ。それで、先程の君の言葉だが、復讐に倒れた君の支えとなるものは一体何だい?協力関係になるならば、知っておいて損はない」
「...エルさんも知っておられるでしょうが、私にはあの剣がありますから」
剣のことは何れ話さなければならなかった。あまり、他者に見せびらかせるような代物ではないことは確かだったが、隠しておいてもどうせ無駄である。それに、式典に訪れていたのなら、エル達が知らないこともないだろう。
「剣、というと、あの黒い魔力を持った大剣のことだね」
案の定、エルはすぐさまその存在に思い至ったようだった。黒い魔力が具体的に何であるのかはわからなかったが、それ以上にカリンにとっては手放しがたいものである。
「...はい。あれは私の願いを叶える全てです。願失石から生み出された意識の集合体」
そもそも、カリンの願いから生まれたのだから、それが消えないうちは全ての先を共にする。彼の石への認識を再確認し、自身に揺らぎがないことに安堵する。カリンの話にエルは一瞬顔を輝かせ、興味深げに身を乗り出す。
「...っ!願失石......そうかい。じゃあ、不躾だけどカリンが何を失ったか教えてもらってもいいかい?」
「......それは、私にもわかりません」
話がややこしくならないよう、カリンは代償に関する記憶がないとは明言しなかった。カリンの返答に、エルは力が抜けたように背を椅子へ預け、深いため息をこぼした。
「そうかい。それは一番辛いことだ」
何故、彼は自身の信用のおけない者に対しても、こうして心を砕くことができるのだろうか。それが理解できずカリンは首を傾げた。
「...はい。そうかもしれませんね」
曖昧なまま頷きを返せば、彼がそれ以上に話を続けようとすることはなかった。
「...では、復讐の過程をできるだけ簡潔に答えさせていただきます」
願失石の話も入ってこないほど、頭を捻って考え込んでしまったウルを見つめながらカリンは話し出す。
「...まず一つ目は、禁書に封じ込められていた闇に呑み込まれた者たちを見つけ出すこと。私の部下も式典にはいましたので、ひとまず優先するのはこちらですね。リンカの証言を踏まえて考えるとしても、部下の造形がフェルド国王陛下ほど変わらないのであれば見つけやすいのもこちらでしょう」
口には出さないが、付け加えてフェルドを呑み込んだ闇の言いかたからするに、見つけ出そうとしなくとも、カリンの元へ何かしらの、誰かしらの接触があるはずだ。その総てはカリンを成長させるため___そして、自分と戦わせるために。
「...次に二つ目は、この剣を使い、闇を弱らせることです。現在、闇に呑まれた者たちの状態は、いわば闇に意識や体の主導権等の全てを乗っ取られているといって差し支えないでしょう。なので、その者たちへ直接攻撃を当てれば、闇を弱体化させることが可能です」
この情報は禁書から聞き出したものだ。因みに、わざわざ弱体化させなくとも、禁書への封印自体は行えるようなのだが、その場合、闇に呑み込まれた者の安全が保証されないのだそうだ。だから、カリンの中には初めからこの手段を取る気はない。
「...そして三つ目は、弱らせた闇を禁書へと封印し直すことです。具体的な手順等は、その時に教えると言われておりますので、私も詳しくは知りません。ともかく、この工程を繰り返して、禁書のページを埋めること、それが復讐の過程です。...いかがでしょうか?不明な点等ありましたら、おっしゃって下さい」
カリンはそう話を締めくくり、会議室の一同を順に見つめた。リンカとラウには事前に説明していたため、カリンの視線に頷きを返してくれた。エルと後ろに控えた二人も、説明に不足はなかったようで、声を発することはない。そうして、最後に唸り声を上げるウルへと視線を向ければ、彼女は申し訳無さそうに此方を見上げた。
「ごめんなさい、カリン。たくさんお話させてしまったけど、実際に見てみないと私にはよくわからなかったわ」
「...いえ。それも当然の感想かと思います」
見たこともない芸当に関する説明ではなく、その芸当で何をするかという話なのだ。それが理解しがたい内容であったことは、火を見るより明らかだろう。
「そうだな。私と其処にいるノーリとグレイスも同意見だろう。しかし、そうなると君は我々に手の内を晒すも同然だ。平民ならばいざ知らず、私達には相応の立場がある。そこで提案なのだが、カリンの言う二つ目の過程、それを私達で手伝わせてもらおうと思う」
「...よろしいのですか?」
エルの提案にカリンは僅かに目を見開く。協定を結ぶ国がこのような状態にあっても手を貸さないということは、次の火種へと繋がる危険性がある。しかし、カリンの正体すらもろくに明かせない中で、大っぴらに復讐へ協力してくれる意図が読めない。
(そもそも、私は説明の中でフェルド国王陛下に対する扱いを明確にはしていません。ただ抜けているだけなのか、それとも気づいて敢えて言及されなかったのでしょうか?)
「私達ってことは、私も手伝っていいのですか?」
その提案にウルは声を弾ませ、随分と乗り気な様子でエルを見上げる。上座の彼は、嬉しそうなウルの姿に目を細めて微笑んだ。
「なんだ?ウルは私の許可などなくとも、カリンに手を貸すだろう?」
「っええ!その通りですわ、お兄様!」
パッと顔を輝かせて、特徴的なツインテールを揺らす彼女に、エルの後手に控えるグレイスが笑みを零したのが遠目からでも伺えた。
「陛下、一つ宜しいでしょうか?」
「ああ。どうした?グレイス」
一歩前に歩み出た彼の視線が、一度だけカリンの方を捉えた。かち合った視線の先で、グレイスは確かに笑みを浮かべた。
「では、僕個人からもお客人…いえ、カリン殿に力を貸したいと存じます」
「ははっ、そうか。お前もか。カリンは随分皆から愛されているようだけど、して君はどうする?」
問いかけに席を立ち、エルの下へ歩み寄る。彼の目線の少し下で、カリンは跪く。
「…そのお話、有り難く受けさせて頂きます」
「ああ、よろしく頼むよ。お仲間さん」
顔を上げたカリンへ、麗人は妖艶な笑みを浮かべた。それに一礼を返し、席へと座り直す。話が一段落したと見るや、今まで一度も口を挟むことのなかったノーリが何事かをエルに耳打ちする。
「なに?それは___ 」
「陛下、緊急事態です!」
転がり込むように兵士が一人、会議室の扉を開いた。ノーリは庇うようにエルの前に立ち、グレイスは彼の者へ厳しい目を向けた。
「陛下の命はお前達にも届いていたはずだ。それを分かった上での行動だろうな?」
「無論です。陛下、先刻壁が向こう側から開けられました。侵入者は一人」
兵士からの報告に一同が動揺する中、ラウの耳が揺れ動き、彼は一人窓の外へと目を向ける。
(ふん、嫌な気配だ)
「直ぐに近辺の警備をしていた兵士が対処に当たりましたが、返り討ちに合い......」
「そうか。侵入者の目的はわかるかい?」
「確かなことは言えませんが、現在、壁から真っ直ぐに島の東を目指しています」
その時、遠方から飛来する者の気配を察知し、会議室に集った面々の視線は部屋唯一の窓へと向けられる。気にあてられることがないよう、自然と彼らの魔力は研ぎ澄まされていく。
「ふむ、強い殺気だ。目的はこの城のようだね」
拮抗した力を肌で感じ、兵士が身を縮こまらせる。その様子を横目で眺めて、エルは肩を竦める。途端に彼の周りだけ空気が和らぎ、濃度が下がる。顔を上げた兵士と赤い甲冑越しに目が合い、同時に正面からガタンッと大きな音が聞こえた。
「…っこの反応は......すみませんが、私はこれで失礼します」
「あっ、カリン!どこ行くのよ!」
皆の視線がそちらに移り、ワンテンポ遅れて、ウルが声を上げた。しかし、その声も届かぬであろう速度で、カリンは部屋を飛び出していった。後を追うように、ラウも白い尾を揺らして外へ消える。
「ちょっと!置いて行かないでよ!」
膝丈のスカートを翻し、二人を追ってウルの姿も遠ざかる。咄嗟の出来事に、エルさえもかける言葉を見失い、息をつく。
「このような状況で冷静な判断を下すのは、年長者の特権だな。グレイス、君は何があってもいいように首都に居てくれ。壁にいる負傷者や被害の確認も頼んだよ。ノーリは一足先にあの子達の元へ向かってくれ」
「承知致しました」
「では、私達は失礼いたします」
胸の前に手を置いて敬礼し、また会議室の気配は少なくなる。二人が出ていく様を横目で眺め、一拍置いてから正面に立つリンカは言葉を発した。
「王女様の後を追いかけなくても宜しいのですか?」
「なに、簡単な話だ。君がカリンの後を追えば、私も後ろからついて行く」
柔らかな笑みと裏腹に、厳しい目がリンカの表情を射た。彼女はその視線の先で、何を考えているかもわからぬ表情を浮かべ、首を縦に振った。
「そうですか。では、私はカリン様を追いかけることにします」
去っていくリンカの足取りを目で追いつつ、エルも席を立つ。甲冑姿の兵士を通り過ぎ、会議室の外へと急ぐ。
「部屋の施錠を頼むよ。その後は、自分の持ち場に戻ってくれて構わない」
「はっ!了解いたしました。陛下もお気をつけて」
手を上げて応えるも、彼はその歩みを不自然に静止させた。
「ああ。……そうだ、一つだけ。全てを放って迎えに行った先で、本当にあの子は笑ってくれるだろうか?」
後ろを振り返ることもなく淡々と零れ落ちた問いに、兵士が戸惑うのがわかった。
「はい?それは、どのような__ 」
「いや、すまない。忘れておくれ」
兵士が振り返った視線の先で、一つに結われた金髪が静かに揺れる。城内の気配を探り、エルは白の外衣を羽織りなおした。




