36 聖女の居場所5
初夏の夜風が、涼やかにシャルロットの肌をなでる。
暗がりの中に、足元を照らす灯りがふわりと点在しており、その先には石造りの湯舟。その縁に腰かけているジェラートが、シャルロットの気配に気がつき振り返った。
「お待たせいたしましたわ……、ジェラート様」
「気持ちが良い温泉だ。そなたも早く、入ると良い」
(わぁ……。ジェラート様も同じ湯浴み着だわ)
アンが「宿屋の湯浴み着は一種類しかない」と言っていたのを思い出しながら、シャルロットの心からは一瞬にして『嫌だ』という気持ちが消え去った。
可愛げのない湯浴み着でも、夫とお揃いなのが嬉しい。
自分自身の単純さに苦笑しながらも、夫が差し出してくれた手を取りながら、シャルロットは湯舟へと浸かった。
「わぁ……。本当に、気持ちが良いですわ」
「風の涼しさもあって、外の温泉は心地よいな」
「はい!」
国外訪問の途中などで、何度か温泉地を訪れた経験はあるが、ジェラートと一緒に入るのは初めてだ。
徐々にではあるが夫婦らしい経験ができていることに、嬉しさがこみ上げてくる。
夫はどう感じているのだろうと思いながら、ジェラートに視線を向けてみると、夫の顔が赤いような気がしてシャルロットは焦った。
「ジェラート様、のぼせておりませんか? 顔が赤いですわ」
「いや……大丈夫だ。ずっと風に当たって涼んでいたので、温泉の温かさを感じていたところだ」
「それなら良いのですが……。遅くなってしまい、申し訳ありませんでしたわ。実は、ジェラート様と一緒に入るのが恥ずかしかったもので……」
しかし暗いおかげか、その恥ずかしさも少し和らいでいる。
正直に理由を話すと、ジェラートは意外そうな表情で眉をあげた。
「いつもそなたが積極的なので、俺だけかと思っていたが……」
「え? それはどういう……?」
シャルロットの悪女的誘惑に対して、怒っているような態度は見せていたが、それ以外は実に堂々としたものだったが。
これではまるで、ジェラートも恥ずかしさを感じていたように聞き取れるではないかと、シャルロットは首を傾げる。が、ふとジェラートが初めて、ハット家に泊った日のことを思い出す。
(ジェラート様は、私の悪女行動を可愛いと思っていたのよね……)
それならば、『怒っている』と思っていたジェラートの行動は、全て違う感情によるものだということになる。
「……俺を恐れないそなたは、俺にとって特別な存在だ。そなたと一緒にいる間は……、心臓が常に忙しない」
(私が、特別……?)
貴族には恐れられている夫だが、シャルロット自身は夫を恐ろしいと思ったことは一度もない。
狼のような銀髪も黄色い瞳も、綺麗で見惚れてしまうし、険しい表情も凛々しくて素敵だと思っている。寝顔は子犬のようで可愛いし、最近見せるようになってきた柔らかい表情も、特別な感じがして幸せな気持ちになれる。
それにジェラートの見た目は恐れられがちだが、心は優しいことをシャルロットは知っている。
「ジェラート様はお優しいですわ。聖女様を故郷へ帰そうと努力を続けられたり、国民のために率先して魔獣討伐へも出かけられます。皆、ジェラート様の威厳あるお姿に、気圧されているだけですわ」
シャルロットだけが特別なわけではない。フランやマドレーヌも、ジェラートとは良好な関係だし、もうすぐ出会うヒロインも、ジェラートを慕うことになる。
ジェラートが自分を特別視してくれていたことは嬉しいが、それは束の間に過ぎない。と、シャルロットは寂しい気持ちになる。
「だが、そなたは……、初対面から俺に微笑んでくれた。あのような経験は初めてだった……」
その理由は、シャルロットが育った環境が影響したからだ。広大な狩猟場がある領地にて、幼い頃から魔獣や獣を見て育ったシャルロットは、そこらの貴族令嬢よりもよほど肝が据わっている。
本物の狼にも何度も出会ったことがあるので、狼に似ているというだけでジェラートを恐れたりはしない。
恐怖心さえ湧かなければ、ジェラートは魅力的な男性だ。
「ジェラート様だって、初対面から私に優しくしてくださいましたわ。馬車まで運んでくださるジェラート様があまりに素敵でしたので、私は一目惚れしてしまいましたもの……」
悪女が常習化してきたせいか、こんな大胆な告白も躊躇なく言えてしまう。
ヒロインが現れても、この告白を忘れないでほしい。
さらに印象づけておこうかと思い、シャルロットは夫に抱きつこうとしたが――、それを実行したのはジェラートのほうだった。
「シャル……! そなたの気持ちにも気がつかず、俺は長い間そなたを遠ざけてきた。どう償えば、別居を止めてくれるだろうか……」
「……え? 別居……、止めたかったのですか?」
シャルロットの首に顔を埋めるようにして、こくりとうなずく動作をする夫。別居は夫が了承したからこそ始められたことだが、まさかそこまで思い悩んでいたとは思いも寄らなかった。