31 夫の好感度が知りたい7
ジェラートが帰ってきた。そう察したシャルロットは、心を弾ませながら部屋を飛び出し、廊下を走った。
一階への階段に差し掛かり一階を見下ろすと、下から階段を上ってくる人の姿が。
「――ジェラート様! お帰りなさいませ!」
「今、戻った。二週間も留守にして、すまなかった」
「とんでもございませんわ。聖女探しのほうは、いかがでしたの?」
「残念ながら、手がかり無しだった……」
階段を上り切ったジェラートは、曇った表情でため息をついた。
二週間も休みなく聖女を探していたのか、疲れの色が濃く見える。シャルロットは、夫の体調が心配になった。
小説どおりなら、聖女が見つかるのはまだまだ先。これから夫は、さらに苦労を重ねることになる。
(そんなの、嫌だわ……)
夫の疲れた様子を目の当たりにして、不意にそんな感情が湧き起こった。
(私さえ気をつけていれば、断罪はされないもの。ジェラート様に、ヒロインの居場所を伝えようかしら……)
そうは思っても、口にするには決心が必要だ。シャルロットがぎゅっと目を閉じると、ジェラートの手がシャルロットの肩に触れる。
「明日から再び、聖女探しを再開するので心配するな」
「一日も、お休みされないのですか……?」
「父様の許可が出ている間に、聖女を見つけてしまいたいんだ」
「そうですか……」
いくらジェラートが頑張ろうとも、小説の開始時期ではないので、ヒロインとは出会えないはずだ。
やっぱり伝えよう。そう決意して「あの……」と言いかけたところで、ジェラートが。
「今日は、こちらへ泊めてもらえるだろうか」
「えぇ、もちろんですわ。ごゆっくりと、お休みくださいませ。今、お部屋を用意いたしますわね」
今はジェラートが疲れている。聖女の居場所を知らせるよりも、休んでもらうほうが先だ。
シャルロットは使用人を呼びに行こうとしたが、ジェラートに手を掴まれそれを阻止される。
「今日は……、夫婦で寝室をともにする日だ」
「……そうでしたわね。では、私の部屋でお休みくださいませ」
「そうさせてもらおう……」
(もしかしてジェラート様は、そのために……?)
夫婦の義務を果たしに、夫はわざわざ戻ってきたのかもしれない。
この夫婦の間に何か起こるはずもないが、手を繋いで寝室へ行くという行為だけでも、シャルロットにとっては心臓が大騒ぎになる事態だった。
「ジェラート様。湯浴みやお食事は、いかがなさいますか?」
部屋に到着してからそう尋ねると、ジェラートは自分の身体を見回して眉間にシワを寄せる。ジェラートにしては珍しく、服装が乱れ気味だ。見た目を構う余裕もなく、聖女探しに熱中していたことが伺える。
「湯浴みは……、必要だな。それからワインがあると、ありがたい」
「ご用意しておきますわ」
厨房でカナッペを用意し、ワインと一緒に部屋へと運ぶと、ちょうどジェラートも湯浴みを終えて寝室へと戻ったところだった。
「お待たせいたしましたわ」
「酒の肴まで用意してくれたのか。料理人を起こしてしまい、申し訳ないな」
ワイングラスに注いだワインを、一気に飲み干したジェラートは、カナッペもぱくぱくと食べ始めた。
遠慮していただけで実は、お腹が空いていたのかもしれない。用意して良かったと思いながら、シャルロットは微笑んだ。
「料理人に頼むと時間がかかりますので、私がご用意させていただきました」
「この料理を、そなたが……?」
「料理と言えるほどのものではありませんが……」
クラッカーに、チーズとトマトを切って乗せて、味付けしただけだ。
狩猟場での、ワイルドな料理の心得はあるシャルロットだが、王族に出せるような食事はこの程度が限界だ。
「あの……、お口に合いませんでしたか?」
シャルロットの話を聞いたジェラートは、最後のひとつを残し、急に食べる手が止まってしまった。
心配になったシャルロットが夫の顔を覗き込むと、ジェラートは困ったように視線をそらす。
「そうではない……。今日はもう疲れてしまったので、手が動かないようだ。だが、最後のひとつも食べたい……」
今まで普通に手を動かしていたのに、急にどうしたのだろうとシャルロットは首をかしげた。
すると、ジェラートはワインを注ぎ、再び一気に飲み干した。
(手……、動かせているけれど?)
言葉と行動が伴っていない夫をじっと見つめると、ジェラートは苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
「ワイングラスは持てるが、カナッペは繊細な手さばきが必要だ……」
どうやら夫は、どうしてもカナッペを食べるために、自らの手は使いたくないらしい。
そうなると、シャルロットが食べさせるしかないが――。
(もしかして、甘えているの……?)
ワインの影響なのか、それともおねだりが恥ずかしいのか、ジェラートの頬は微かに赤みを帯びているように見える。
つまりジェラートは、妻が作った料理を、妻に食べさせてもらいたいようだ。この前の、悪女行為のように。
(どうしよう……。ジェラート様が可愛いわ!)
こんなことなら、カナッペを出す前に自分で作ったと告げておくべきだった。
残り一つしかないカナッペに悔しさを感じながらも、シャルロットは夫に向けて微笑んだ。
「お疲れでしたら、私が食べさせて差し上げますわ」
「うむ。助かる……」
カナッペを手に取り、ジェラートの口元に差し出すと、ぱくりと夫はひとくちで頬張る。
「……いかがですか?」
「最後の一つは、特に極上の味わいだ」
夫は、心もお腹も満たされたように顔が緩む。
確かに最後のひとつは、味に変化があっただろうと思いながら、シャルロットは顔の熱を感じつつ、自分の指を見つめた。
短時間で夫にドキドキさせられっぱなしのシャルロットは、落ち着かない気持ちのままベッドへと入った。
先ほどの食べさせる行為もそうだが、夫はわざわざ夫婦の義務の日に合わせて戻ってきたらしい。そして、夫婦の義務だけ済ませ、また聖女探しに出かけるのだという。
どうして疲れながらも、ハット家を訪れたのだろうか。
その理由が知りたくて、シャルロットは隣で寝ているジェラートに視線を向けた。
「ジェラート様……」
声をかけてみるも、ジェラートはよほど疲れているのか、すでに寝息を立てている。
「ジェラート様はなぜそんなにも、夫婦の義務を重視するのですか……?」
素っ気なくとも、無視されつつも、辛うじて夫婦としての体裁を保っていられたのは『夫婦の義務』のおかげだ。
それを重視していた理由が知りたい。ジェラートにはきっと、理由があるはずだ。
しかし、返ってくるのは規則正しい寝息だけ。
シャルロットは諦めて目を閉じた。
しかし、身体を掴まれる感覚があり、シャルロットは驚いて目を開けた。
(どっ、どうして……?)
なぜかジェラートに抱き寄せられて、夫の腕の中にすっぽりと収まっている。
未だ、夫は眠ったままであり、どうやらこれは無意識の行動。
すぐに理解はしたが、一度活発化した心臓はすぐには元に戻らない。
「ジェラート様……」
そう呟くと、返事をするように夫が返事をする。
「シャル……、会いたかった……」
「…………っ!」
初めて夫の口から紡がれる、愛称での呼び方と、妻を求める言葉。
これも無意識の反応だろうが、無意識だからこそ素が出るのではなかろうか。
『妻に慣れた』という感情だけでは、この言葉は聞けないはずだ。
(未来は、本当に変えられるかしら……)
シャルロットの心に、わずかな希望の光が差し込んだ。