24 聖女誕生祭5
(あら……、怒りの限界かしら?)
曲が流れ始めても、動く気配のない夫。
ダンスの夢が叶うかもしれないと思っていたが、ここまでのようだ。無理やりやらせているのだから仕方ない。シャルロットは小さくため息をついた。
目的は夫を怒らせることだ。ジェラートの顔を見上げてると、夫は険しい表情で遠くを睨んでいる。
(怒っていると、思って良いのかしら?)
やっと成果が実ったのかもしれないと、シャルロットが思っている一方。
ジェラートの目線の先にたまたまいた男性貴族たちは、完全に凍り付いていた。
「なっなんだ? 王太子殿下が俺たちに対して、お怒りのご様子だぞ……」
「おっ……俺は何も、失敗などしていないぞ」
「まさか……、『王太子妃殿下はお美しい』と噂していたのが、殿下の耳に入ったんじゃ……」
「どうしよう……。俺たち、殺されるんじゃないか?」
完全にとばっちりである彼らの怯え声など、遠すぎて聞こえるはずもない。
シャルロットはひたすらジェラートを見つめ、ジェラートはじっと一点を見つめたまま、ダンスは終了した。
「ありがとうございました、ジェラート様。少し、夜風に当たってきますわね……」
ずっとジェラートを怒らせるために、悪女らしい振る舞いをしてきたというのに。ジェラートの怒った顔をみたシャルロットは、どうしようもなくこの場から逃げたくなった。
人をかき分けるようにして、急いでバルコニーへ出たシャルロットは、柵に項垂れながら大きくため息をつく。
「やっと、状況が進展したのに……」
ジェラートのことは諦めて、離婚すると割り切ったはずなのに。このモヤモヤはなんだろう。
それを考える間もなく、誰かがバルコニーへ出てきた。
「姉様! 今のはなんですか!」
シャルロットを見つけるなり、弟のクラフティは物凄い剣幕で、シャルロットの両肩に掴みかかった。
「何って、ジェラート様とダンスを踊ろうとしただけよ……」
「あいつの性格は知っているでしょう! なぜわざわざ、姉様が傷つくようなことをするんですか!」
「離婚する前に、一度で良いからジェラート様と踊ってみたかったの……」
悪女として嫌がらせをしていることは、弟には話していない。もう一つの本音である『夫への望み』を伝えると、クラフティはため息を付きながら、シャルロットを抱きしめてきた。
「……そんなに好きなら、離婚しなければ良いじゃないですか」
「離婚はどうしても、しなければならないのよ」
「好きな相手なのに、どうしてそこまで……」
それは『本物の悪女』となって、断罪されたくないから。この弟も、両親も、使用人たちも皆、断罪されてほしくないからだ。
しかし未来に起こることなど、話せるはずがない。
「私を心配してくれているのね。ありがとう、クラフティ」
ぽんぽんと弟の背中をなでると、クラフティは少し恥ずかしそうに微笑む。
「姉様に抱きつくのは、久しぶりです。もう少し、こうしていても良いですか?」
「あら、急に甘えん坊になるのね」
「甘えているのではありません! 姉様を慰めているのです」
「ふふ。そういうことにしておくわ」
その少し前。
「殿下。ダンスは終了いたしましたよ。殿下?」
ジェラートは、フランの呼び声で我に返った。
「フランか……」
どうやら倒れることなく、ダンスをやりすごしたようだ。ジェラートは安心したように息を吐く。
今日はシャルロットが積極的過ぎるので、正気を保つのに忙しい。しかし、妻が好意的だということがわかったせいか、少しだけジェラート自身も積極的に動くことができている。
それでも、真正面から妻に見つめられながら、抱き合うような姿勢となるダンスは、まだまだジェラートにはハードルが高すぎた。
情けなくまた倒れないよう、前方に集中していたおかげで、無事にやり過ごすことができた。
「なぜ、王太子妃殿下と踊られなかったのですか?」
「……シャルが、可愛すぎるからだ」
フランの問いに答えながら、ジェラートはきょろきょろと辺りを見回した。しかし、どこにもシャルロットの姿が見えない。
「シャルはどこだ?」
「王太子妃殿下でしたら、バルコニーへ出ていかれましたよ。その後を、令息が追ったようですね――」
それを聞いたジェラートは、カッと頭に血が上る。
貴族に恐れられている王太子。その妻を、これまで奪い取ろうとする者などいなかった。
そういった懸念については完全に安心をしていたが、ついにライバルが現れたのか。
焦ったジェラートは、急いでバルコニーへと向かった。
フランが後から付け足した「ハット家の」という言葉を聞かずに。
バルコニーへと出たジェラートは、妻が男に抱きしめられている場面を目にして、我を忘れて男の肩に掴みかかった。
「貴様! シャル――」
シャルに触れるな! と、怒鳴るつもりだったジェラートだが、振り向いた男の顔を見てぎょっとした。
「――ロット王太子妃の、弟だな……」
「はい。それがなにか?」
甘えタイムを邪魔されて、ものすごく不機嫌なクラフティに睨まれ、ジェラートはたじろいだ。
「いや……そなたに、用事はない」
完全に勘違いをしたらしい。居心地の悪さを感じながらもジェラートは、シャルロットのほうへ視線を移動させた。正確にいうと、シャルロットの後ろに見える庭園の木々に。
視線を向けかけられたシャルロットは、どきりとして身構えた。
「帰る際には、ひと声かけてくれ」
「……はい」
どうやらジェラートは、帰りも一緒の馬車に乗るつもりのようだ。しかしシャルロットは、そのことよりも今、目の前で起きたことで頭がいっぱいだった。
ジェラートが去ったのを確認したクラフティは、姉の様子がおかしいので顔を覗き込む。
「どうしたのですか姉様? 顔が真っ赤ですけど……」
「だっ……だって、初めて名前を呼ばれたのよ。驚いて当たり前でしょう……」
「はい? 今の他人行儀な呼び方が、初めてだというのですか?」
「そうよ……。ついにジェラート様に、名前を呼ばれたのよ……。どうしましょう。今夜は、眠れないかもしれないわ」
あの呼び方で満足している姉に対して、クラフティは呆れながらため息をついた。
日頃から、『姉への対応についての苦情』を訴えに、ジェラートの元へ通っているクラフティは知っている。普段のジェラートが、姉をどう呼んでいるかを。
「姉様は知らないのですか? 愚兄はいつも、姉様のことを愛しょ――」
クラフティは言いかけて、言葉を失った。なぜなら自分の顔すれすれに、疾風のごとくワイングラスが飛んできたから。
暗い中で一瞬のことだったので、気がつかなかったシャルロットは首を傾げた。
「ジェラート様がどうかしたの?」
「いえ……、なんでもないです。姉様の願いが叶ったみたいで、良かったですね……」
獣にでも狙われているかのような殺気を感じながらも、クラフティがそう述べると、今までクラフティが見たことがないほど嬉しそうな顔で、シャルロットが微笑む。
「そうね。良い思い出になったわ」
……そんなに好きなら、離婚しなければ良いじゃないですか。
クラフティの心には、同じ疑問が繰り返された。