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微睡みは、虹がかかるまで

作者: 入谷利仁

奴隷が夕暮れを恋しがるように、また労働者がその対価を求むように。

私は幾月もいたずらに過ごし、苦悩に身をよじりながら夜を過ごした。

私は寝るときに独り呟く、「いつ目が覚めるのか」と。

しかし夜は長く、夜明けまで穏やかなときは来ない。

私の肉は、蛆と土くれを纏い、私の皮は固まり、しかし崩れる。

私の日々は機の横糸が通るよりも速く、望みをもたずに消え去る。

―――『旧約聖書』「ヨブ記―7章」



子供の頃に、ロケットの打ち上げを見た。

もちろん、その場でというわけではなく液晶ディスプレイ越しにだ。

ロケットの下部から爆発したかのように煙が噴き出し、出力機器の控え目な轟音のなかを桜の花のように冷却剤がひらひらと剥がれ落ちていくさまを見て、春を感じた。

大人になってもその場面は頭から離れず、いつしかロケットに乗ってみたいと考えるようになった。

ロケットが僕をこの地上から連れ去ってくれることを願って。

遠い空の向こうに。



夢を見た。

凍えるような音のない夜の中で、トラックの運転席に僕はいた。

金属製の冷気が気温を下げていき、凍った空気を吸い込んだ臓器が体中へ冷たい血を巡らせる。

末端はとうに感覚が薄れ、まるで氷かのように冷気を発する。

なんとか寒さを紛らわせようと、足と足をすり合わせ、わきの下へ手を挟むが、心臓を押し上げるかのような冷たさはその努力をあざ笑った。

煙草が残っていたことを思い出しポケットを探ると、くしゃくしゃになった包装の中から一本だけ見付けた。

すっかり冷たくなったライターの火打ちを合わせると、か弱いながらも、ゆらゆらと火が灯ったので、口にくわえた煙草をそれに近付ける。

が、点かない。

煙草がどうも湿気っていたらしい。

馬鹿らしくなって、窓硝子へ煙草を弾き飛ばす。

ふと外の様子が気になった。

もし夢でなかったらそんなことはしないだろうが、夢の中の僕は躊躇なくドアを開けた。

意外にも、地面と木の区別がつくくらいには外は明るく、雪山にいることを僕は知った。

轍も埋まってしまったトラックを置きざりに僕は木々の間を進む。

雪ははらはらと落ちる程度だが、今までに積もった雪でくるぶしまで埋まってしまうのがまだるっこしい。

ぼすぼすと踏みつけながら進んでいたら、木々の間から漏れるようにゆらゆらと光がにじんできた。

光は段々と近付いてくるにつれ、身体に付いた雪が肉片を奪いながらはがれていくが、痛みはなかった。

僕はまた、踏みつけながら進んでいった。



目が覚めると目の前に事務机がある。

その机を挟んだ先にチョッキを着た男が座っていて、こちらを見ている。

「お目覚めのようですね」

男はそう言うと立ち上がって、部屋に備え付けられたコーヒーマシンの元へ向かう。

「どうぞ」

横のテーブルに温かいコーヒーが差し出される。

体感時間はそれほど経っていないはずなのに、鼻腔をくすぐるコーヒーの香りがやけに懐かしく感じる。

明るくはないが、暗いとも言い難い絶妙な室内灯が、寝ぼけ眼を優しく揺さぶる。

僕はベッドに座る形でテーブルのコーヒーを手に取る。

そしてそれを啜りながら改めてこのシンプルな部屋を見回す。

3時43分を指す時計、コーヒーマシン、事務机、それから僕の座るベッド。

シンプルで味気はないが、不思議と居心地のいい部屋だ。

どの家具をとっても眠る前との違和感がなく、変わったのは目の前に立つ担当者くらいだ。

それがかえって違和感をもたらす。


本当に100年も経った(・・・・・・・・)のだろうか?

「ええ、お客様が眠りについてから、100年と1時間12分が経過しました」

声に出ていたらしい。

「ご要望であればこの100年の間の簡単な資料をお渡しいたしますが、いかがされます?」

頭がまだしゃっきりとしていないせいか、返答にはすこし間が空いたが、貰わないという手はないため受け取ることにしよう。

「せっかくだし貰おうかな」

「ではこちらをどうぞ」

そう言うと男は事務机の上に置いてあった本を手に取るとこちらへ持ってくる。

渡されたのは、教科書のようにどこかポップな雰囲気のある表紙に『100年史』と日本語で銘打たれた本だ。

下の方に「アーク社出版部」と書いてある。

要するに、この長期睡眠サービスを行うアーク社の一部門が発行したものということらしい。

「それは弊社の編纂室がお客様に合わせて編集したものなので、一般で販売している本よりは手っ取り早く情報を得られるはずです」

表紙のセンスはイマイチですがね、とにこやかに言う。

「アフターサービスまでしてくれるとは聞いていたけど、まさかここまでしてくれるとはね」

本の後ろから開いてみると、丁寧にも著者来歴まで載せている。

「お客様には相応の代金を頂いておりますから」

「では暫く席を外しますので、お客様のタイミングで、そちらのベルを使ってお呼び下さい」

テーブルを見ると銀色のベルがちょこんと座っている。

男が静かに出ていくと、本を読むだけの時間が来てしまった。

大きく息を吸い込むと印刷されたばかりの紙とインクの香りがした。



「お待たせしました。どうですか、100年後の世界は?」

「衝撃的な内容ではあったけど、どうも現実感がないね。ディザスターものの映画を見せられたみたいな感じだ」

第三次大戦に新冷戦、疫病に金融恐慌、アンドロイドに軌道エレベータときた。

寝て覚めたら100年後の世界だなんて、分かってはいたけど、ぴんとこない話だ。

「ゆっくりこの世界に慣れて頂ければと思います。その為の弊社ですので」

男からコーヒーのおかわりを勧められたので、それを貰う。

さっきよりビターの効いた味だ。

「改めまして。お客様を担当させていただきます、ジムと申します」

新たな担当者となったジムは、そう言いながら手を差し出して来たので、それを握り返した。

ひやっとした手が心臓を驚かせるが、悪い心地ではない。

「よろしく、ジム」

「ええ、よろしくお願いします」

ジムはにっこりと微笑んだ。


「では早速ですが、契約オプションの1について報告させていただきます」

僕のテーブルを挟んでジムが資料を持って座っている。

ジムはその資料のうちの一部を机の上に置いた。

「お客様がご要望された『月世界旅行』についての調査ですが、現在に至るも『月世界旅行』は実現されておりません」

これはその報告書だろう。

『100年史』に載せきれないような事細かな宇宙開発の沿革、月面基地の建設と、旅行計画の失敗とその顛末、月の開発は宇宙空間を主軸として実行していくということが書かれている。

そこへ更に報告書が追加された。

「代替として『地球軌道無重力体験ツアー』が行われておりまして、高額ではありますが、弊社の調査部門からも安全性は保たれているという評価が出ていますが、いかがいたしましょう」

そういうジムは、心の底から申し訳ないという表情を見せるので、相当調査したのだろうかと考える。

あまりにもその申し訳なさを前面に出してくるので、逆にイマイチ真剣になれない。

テレビでよく見た記者会見での“遺憾ながら”という発表を聞いてるような気分だ。

「そうか…」

とだけ相槌をうつが、どうやら不満げに見えてしまったらしく、ジムが眉を寄せるので、僕は慌ててこう付け加える。

「いや、気にしないでくれ。でも、そうだな…。ツアーは必要ないな」

「はぁ、そうなのですか?」

どうにも腑に落ちない様子だ。

「いや、なんというかね。肩透かしを食らったくらいにしか感じなくて。呆気ないというか」

「ああ、なるほど。そういうことでしたか」

ようやく合点がいったようで、コミカルにも手の皿を打っている。

「まぁ強いて言うなら、その場で当たるクジに外れてしまったような感覚、かな」

それにしては高くはついたけど、と苦笑する。

しかし僕のこうした態度はどうやらジムの予想していたものではないらしく、ハトが豆鉄砲を喰らったような顔をしている。

そして一瞬、迷うようなそぶりを見せた後、こう切り出した。

「悔しくはないのですか?」

予想外の言葉に僕の頭が停止していると、慌ててジムは弁明する。

「いえ、私があなたの立場なら悔しい思いをするだろうなぁと思いまして」

僕は驚いた。

こんなにジムが踏み込んでくる人間だと思ってなかったからだ。

確かに話しやすい雰囲気ではあったが、それは例えるなら、顧客との関係をスムーズにする保険屋のような気安さのようなもので、顧客に深入りするような質問は普通避けるはずだ。

少なくとも僕の時代なら会社のガイドラインで禁じているはずだ。

つまりジムは個人の興味を満たすために聞いているのだろう。

なぜジムが、たかだか数日の付き合いに過ぎない相手に興味を示すのか?

僕にはそこが気になる。

だからそれを知るために僕は真剣に答えてみることにした。

「んぅ、そりゃ期待してなかったって言ったら嘘になるし、残念だなとは思うよ。でも、やっぱり悔しいとは思わないな」

自分の感情というものは意外にも正直だ。

言葉にしてみるとなんてことのない機微を、あまりにも表現しすぎる。

「でしたら、どうしてあなたはソリッドスリープなんかしようと思ったのですか?弊社のシステムは簡単なものですが、安くはないはずです。こう言ってはなんですが、あなたの時代からすれば不確実なシステムに何もかも身を委ねるわけですよ?」

随分と自社の批判にも大っぴらなことだが、彼の言ってることは正しく、長期睡眠サービスが生まれた原因となるタールが発見されるまで、このアフリカの奥地は未開の地の一つであったし、「100年先の未来を知ることが出来る」という魅力的な文句とは裏腹に、ソリッドスリープ中は全資産の管理をアーク社に委ねることになる、僕の時代では何の信頼性もないシステムに全てを賭けたわけだ。

そう言われてみると、自分が『月世界旅行』という一つの目的のために持っているものを全てなげうった人間のように思えてくる。

だが、僕自身はそんなロマンチストではないし、実際、『月世界旅行』に行けないと知った今でも、そこまで心を動かされていない。

ならばなぜ?

「それしかやりたいことが無かったから…かな?」

そうだ、他にやりたいことが無かったからだ。

言葉が思考より前を歩く。

しかしこの返答も、問題という獲物を、ジムと追い詰めるための呼び子にしかなっていない。

「それしかない、とおっしゃるのに、まるで執着されてない。それが私にはとても不思議なのです」

ふつうなら、依頼人(クライアント)提供者(サーバー)はこんな話をするものではないと思うが、このジムという男はどこまでも踏み込んでくる。

ジムが身を乗り出してきたことで、事務机の照明がちらつく。

ふと、夢に見たことを思い出した。


「夜はあまりにも寒い」

「だから気が紛れるように最後の一本の煙草を吸おうと思った…からかな」

「そしたら湿気ってて吸えないなんて、というわけですか」

浮かれない顔だ。

「そうそう、まさにそういうことだね」

「笑ってないで下さいよ…」

出来る限り和ませようと思ったがそれにも失敗したらしく、ジムはため息をついていた。

「悪い悪い。でも、これが僕に出来る、精一杯の善いことなんだ」

コーヒーはもうほとんど飲み終わっていたが、手持無沙汰に手元のカップをゆらす。

どうしてか、色々な過去が脳裏をよぎっていく。

「…僕の故郷の偉い人がこういうことを言ったらしい。『「なわ」は、善い空間をひきよせるために、人類が発明した、最初の友達だった』ってね」

何を言うつもりなのだろうか、僕は。

「だから首をかければ(・・・・)善いものとして天の神様が引き上げてくれるかもしれんね」

こんなことを言って同情を引くつもりなのだろうか?

それとも自分に酔っているのだろうか?

言う必要なんてどこにもないし、消えるなら独りで消えればいいだろうに。

「それは…」

こんな必要のない世迷言にすらジムが真面目に取り合ってくれるだけに、ますますミジメになっていく。

だが止めることはできず、口元が歪むのを感じる。

「人生の意味を失った人間に、最後に意味を与えてくれる。それは素敵なことだとは思わないかい?」

返答はない。

天井がやけに遠く感じる。


「…むかし、ロケットの打ち上げを見たんだ」

ぽつり、と言葉がこぼれ出る。

「テレビ越しにみるアレは美しかったなぁ。こんな美しいモノに乗って、あんなにも輝く月へ行けたらどれだけ素敵だろうね」

目を瞑って描かれた月は美しく、しかし僕を突き放すかのように、その輝きを増していく。

「地球からでさえこんなに眩しいのなら、月に行ったらサングラスが必要じゃないだろうか?とか考えたりしたっけ」

昔の記憶が次々と溢れてくる。

遠い空の向こうを夢見た少年時代、勉学に励み成功を得た青年期、妻との出会い、息子…。

しかし、それらは味わう暇もなく、彼方へと消えてしまった。

コップにしがみ付いていた残滓すらを飲み込む。

「でもこの夢も失ってしまった」

そう、もう空っぽなのだ。

出せるものは何もない。

「だから、僕のとるに足らない無駄な人生に、最後に意味を与えてやるんだ」

コップを置くと、陶器の音が思っていたよりも耳に残る。

なわ(・・)なんてものは、たやすく手に入るだろう。

それこそ人類の最初の友達というくらいのものだ、作ろうと思えば僕でも作れるはずだ。

何もかもを過去に置いてきた今、あとに残す人のことを考える必要もない。

空虚な時間のなかで、そんなとりとめのないことを考えていると、ジムは口を開いた。

「…それも悪くはないのかもしれません」

そうだろう、と僕はその瞬間、厭な嗤いかたをしたと思う。

しかし、ジムはこう続けた。

「かもしれませんが、こうしませんか?」

迷いをはらんだ言葉は、ジムの口からこぼれるにつれ、一本の流れとなっていく。

それが少しずつ勢いを増しながら僕に迫る。

「あなたは一週間出かけてみる」

「どこでもいい」

「もし、その一週間で本当に…」

「本当に面白いというものを見付けたら、私にそれを教えてほしいのです」

真っ直ぐな瞳が僕を貫いた。

ジムはいきなり立ち上がると、僕の両手を握る。

「あなたが私のなわ(・・)になるんです」

一瞬、何を言われたか理解できなかった。

しかし理解が及ぶと、僕は心底ジムに驚いた。

ジムは頭のいい人間だ。

確証はないが、気安さがありつつもジムはどこかで一線を引いていたように感じていたからだ。

興味本位で踏み込んできたとはいえ、ジムはそこで踏み荒らすようなことはせず、どこか冷静な自分を維持していたはずだ。

そんなジムから今は、手の震えを介して興奮と、いくばくかの怯えを感じる。

ずるいな、とぼくは思った。

どこまでも承知の上で、彼は踏み込んできたんだ。

でも分からない。

いったいなぜ、こうなったのだろうか?

「それって僕に何かメリットあるのかな?」

ジムを落ち着けるように座らせながら、わざと突き放すような言い方をしてみる。

離された手に温かさが戻る。

「…ありません」

ああ、そうか。

なぜこうなったかを、やっとわかることが出来た。

「でもそっちの方が、きっと素敵です!」

彼のあまりにも堂々とした回答に、僕は苦笑する。

会ってまだ半日の人間の、あまりにも明快な答えに、今までずっと悩んでいた自分が馬鹿らしく感じる。

だが、仮に同じ言葉を他の人間からかけられていたとしても、僕はきっと変わらなかっただろう。

彼は人生を楽しむために必要なことを知ってる。

だから彼自体こそが、僕を納得させてくれるのだ。

「…そうだな」

と僕は頷く。

「どうせ時間はたっぷりある。この時代にはアンドロイドだか軌道エレベータだかを見れるんだろう?いったいどんな世界になったのか、拝みに行くというのも悪くないかもね」

「でしたらサングラスをどうぞ。きっと眩しいですよ」

私物なのか、事務机の引き出しが開かれ、そこから出てきたサングラスを渡される。

それを受け取り、ドアの方へ歩いていく。

「ところで、これは伝えそびれてたことなんですが」

振り返ると、朗らかな笑顔で彼がこう言った。

「実は私、アンドロイドなんです」

その言葉にどうも堪え切れなくなって噴き出し、ついには腹を抱えて笑ってしまう。

「それではお客様、次の土曜日にでも」

「ありがとう」

開けたドアからは刺激の強い、真昼の光が漏れ出す。

彼は面白いとは思わないかもしれないが、僕にはこれで充分だ。

『「なわ」は、善い空間をひきよせるために、人類が発明した、最初の友達だった』

―――安部公房『なわ』

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