六花釣り
今日は雲波が大人しくて、釣りには絶好の日和だった。
僕は釣り竿を担ぐと、ふんわりもくりと裾を広げる雲海へ、空船をゆっくり漕ぎ出した。
雲海の真ん中辺り、銀の渦をかき分け穴を開ける。すっと吹き通る風が、首をすくめるくらい冷たくて、微かに湿っぽい。
――雪催いの匂いだ。雲の下に、もうじき雪が降る。
僕はまだ、自分で雪を釣った事がない。
雲からこぼれる種雪を育て、結晶にして釣り上げる。友達のお気に入りの遊びだった。
『透明な花みたいに綺麗なんだぞ。一緒にやろうぜ』
よく僕に自慢した友達は、一番雪の降る前、西風に乗って旅立った。
今頃海の向こうの、僕の知らない空を巡っている。次に彼が戻ったら、ふたりで雪釣りをするんだ。その為に練習を積んでおかないと。
***
雪を釣るには、まず核になる種雪を拾うところから。
空船を釣り穴の縁に繋ぎ、竿を垂れる。六つ数えて糸を引けば、砂粒より細かい種雪がくっ付いてくる。
種雪は脆くてすぐ解けるから、時間との勝負だ。一、二、三、四、五、六――上げる。
くるりと曲げた鉤針に、薄青に光る一粒。すかさず吐息で包んで固定する。
凪いで見えても、雲海の中は動きが激しい。包まず種雪を垂らすと、育つ前に流される。針に直接刺せば、種雪が傷付いて結晶が整わない。冬の寒さに凍った吐息は、友達が編み出した秘策で、旅立ちの時に教えてくれた。
『南の海じゃ釣れないからな』
置いて行かれた竿を使いたくなくて、見様見真似で作った。
僕の竿にしたら、それでお別れの気がする。勝手に願を掛けて、僕はここを動けない。世界の雲が生まれる雲海の、はじまりの岸に船を浮かべたまま――。
ほろり漏れた溜息が、吐息の霧に包まった薄青を淡くする。これ以上重ねたら、結晶が育たない。竿を振って種雪を沈める。雲波を縫いながら、糸が銀の渦を降りていく。
***
ゆらゆら泳ぐ糸を見つめ、空船に時を待つ。
種雪が育つと、吐息の霧は押されてほどけ、海面に小さな浮き雲を作る。浮き雲の動きと竿のしなりで、結晶の引きぎわを見極める。
陽のある間に育つ事もあれば、何日も掛かる事もある。雲温や波の高さ、流れの速さ、風向きによっても加減が違う。
僕は見極めも、糸を引くのも下手で、何度やっても思う様に釣れない。
ぼろぼろに崩れ、形を留めない半透明の残骸。友達に見せたら苦笑いする。無残に折れた欠片をつまんで、雲司のくせにと笑って、ひょいと釣り上げた結晶をあっさり雲海へ返す。自分で釣れよと、僕には見せてくれなかった。
――ぷくん。浮き雲が海面に顔を出し、波間を漂う。
まだ。もう少し。重さを増した竿を弾ませ、感覚を手繰る。
『六花の歌を聴くんだ』
これも友達が言っていた。閉じた種雪から蕾が膨らみ、花を開く時、雪の結晶の産声が聞こえる。六つの花びらが奏でる六つの歌。それが引き時なんだと。
今まで一度も、僕には聞こえた事がない。懸命に耳を澄ましても、雲海の波のうねりと、空を渡る風の唸りと、独りぼっちの溜息しか聞こえない。
どうして僕は、雲司に生まれたんだろう?
どうして僕は、彼と同じ風司じゃなかったんだろう?
雲海の中の六花の歌さえ聞こえない。空行く鳥の歌も、地上の草木や獣の呼吸も、雲海の遥か下に広がるという、潮海の波音も聞こえない。
来る日も来る日も、絶え間なく生まれては風に運ばれる、無数の雲達を見送るだけ。友達があれこれ話してくれる雲海の外を、自分で知る事は永久にない。僕自身は、白く霞んだはじまりの岸に、この船みたいに縛られて、どこへも行けやしないんだ。
***
ぐん、と竿先がたわむ。浮き雲が沈み、糸が持って行かれる。僕は竿を両手で握り、船縁から半身を乗り出した。
釣り穴の内に向かって風が吹く。銀の渦が激しくなる。
ひときわ濃い雪催いの匂い。上から下へ、下へ。雲海の水が、なだれて集まって固まって、一斉に落ちていく。雲の底を抜けて、更に下へ、降る――雪が降る。
浮き雲が渦にかき回され、飛び散って消えた。
雲波の勢いが強過ぎて、竿が動かない。糸が今にも切れそうだ。さらさらの粉雪じゃなくて、大きく重いぼたん雪。風はまだまだ冷たいけど、季節は春に向かっている。
これが仕舞い雪なら、次の冬まで釣りはお預け。何としても釣りたい。竿を正面に構え、腰を据える。
雪が下へ降り出したという事は、糸の先の結晶も十分育っている。六花の歌は聞こえなくても、引き上げる事さえ出来れば。糸を切らない様、結晶を壊さない様、慎重に、確実に引いていく。
雲海面まであと少し。なのに竿が止まった。
何かにつっかえた様に進まない。糸がキシキシ軋んで、氷の細く削れる音――気付いた。氷だ。釣り穴が凍って、塞がり掛けている。大きな雪が通ったせいで、雲海の内部温度が急激に下がったんだ。――キシシ、キリ――駄目だ切れる!
寄り掛かった船縁から目一杯腕を伸ばす。追い風が空船を揺すり、雲波が突き上げる。不意にがくんと膝が抜け、つんのめった僕は、頭から渦巻く雲海へ――
「踏ん張れ!」
向かい風が顔を叩き、傾いた船を押し戻す。腕ごと波に取られ掛けた竿を、別の手が支えている。
「放すな、しっかり!」
釣り穴を塞いだ氷が解ける。竿が上がる。糸が引ける。上へ、上へ――空へ。
『**・*・***』
それが六花の歌だったかは分からない。
宙に跳ねた針に咲く、凛と透き通る六片。
まるで花びらの様に。まるで翅の様に。光りながら囁きながら笑いながら、僕らの頭上を高々と舞う。幾つも幾つも、まるで流星雨の様に。
雲の上に、満天の雪が降る。
「危ないなぁ雲居。無茶するなよ」
久しぶりに聞いた。雲居――僕の名前だ。独りだと誰も呼ばないから、僕は僕が『雲居』だという事さえ忘れていた。
「風早。……どうして?」
僕のただひとりの友達。雲海で生まれた雲を連れ、風に乗って世界を巡る風司。
釣竿を置いて南へ旅立ったきり、冬中顔を出さなかった。戻って来ないのかも知れないと、実は半分諦めていた。
「近所まで前線を引っ張って来たんだ。しばらく南にかまけてる間に、すっかり空気が変わっちまったなぁ」
慣れた手で竿をさばき、風早は針に残った最後の結晶を、僕の掌に乗せた。僕が育てた最初の結晶は、じわりと掌で滲み、雫を結んで雲海へ還った。名残の声が『*』と歌った。
「忙しいなら、無理に顔を出さなくていい」
髪に積もった雪をわしわし払い、僕の眼を覗き込んだ風早は、おかしくて仕方ない様に肩を震わせた。
「来月には、春一番も運ぶから。当面こっちにいるつもりだ。……雲居が俺の顔も見たくないって言うなら、また旅に出るけど?」
「別に、そんな事は言ってない」
にかっと笑った風早に腕を引っ張られ、空船がまた揺れた。足が船底を離れ、風に乗る。
「雲居、下!」
僕を抱えて飛んだ風早が、雲海を指す。
僕らの降らせた雪が、船を基点に雲海を縁取り、太陽を反射して虹色に煌めく。ぼんやり円い虹は知っているけど、辺り一面が虹色なんて初めてだ。
「……すごい。綺麗だ」
まるで六花の花畑。実物は知らないけど、きっとこんな風だろうと思った。地上を白く染める雪も、晴れた日は虹色なんだろうか。
「花畑みたいだな。俺も初めて見た」
風早が同じ事を思ったのが、素直に嬉しかった。
世界を自由に巡り、何でも知っている風早にも、知らない事があると分かって嬉しかった。いつも突然来て、突然いなくなる。置いてきぼりを食った様で淋しかった。
「これで仕舞い雪かな」
「春一番が吹いたら、返し雪が降るかもな。そこは雲行き次第だから、雲居の領分だろ」
「返し雪が降ったら、一緒に雪釣りしよう。今度は競争だ」
ちゃんと言えた。ほっと息を吐くと、心に溜まったもやもやの霧が、口から全部逃げて行った。
「言ったな。じゃあ今度は手伝わないから、自分で釣れよ」
いつも通りの風早の声だった。
僕は笑って『おかえり』を言った。
風早はもっと笑って『ただいま』を言った。
友達になって、長い長い時間が過ぎて、お互いようやく言った。
傾きだした太陽を浴びて、雲海の雪は、もう紅色に染まっていた。