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公爵令嬢は仕返しする

作者: しゅう

 


「貴女との婚約を破棄させてもらいたい」


 彼以外は声を発していないのに、ザワりと空気が揺れたのは気のせいでは無いだろう。ちらりと壁際に立つ殿下の護衛や侍女達に目をやれば、表情にこそ出してはいないものの、困惑した雰囲気は隠せていない。どうやらこの件は知らされていないらしい。


 最近流行りの恋愛小説の様な大勢の前で婚約破棄宣言をしないだけまだマシだ。けれどどうせ最後には捨てるのだから、あまり変わらないのではとも思ってしまう。きっと捨てられた女が周りからどんな目で見られるかなんて、考えた事もないだろう。


 そんなある種の死刑宣告を多少の申し訳なさを醸し出しながら告げた張本人は、こんな時でさえ私をその紫の瞳に映しはしない。確かに私を見ているはずなのに、そこに私は存在していないかのように映さない。それを悲しいとは思えど、辛いとは思えなくなったのは何時だったか。


「……畏まりました。では私は失礼しますね」


 不敬にならない程度に礼をしてさっさと部屋から出ようと立ち上がる。護衛や侍女達以外は私達しかいない応接室は気味が悪いくらい静かで、私の立ち上がる音がやけに大きく聞こえて眉を顰めた。


「待ってくれ」


 せっかく穏便に退出しようとしたのに何故呼び止めるのか。思わず零れそうになった悪態を呑み込んでひくつきそうな口元を扇子で隠した。


「まだ何かありますの?」

「……何も聞かないのか」

「聞いて欲しいのですか?婚約者の私ではなく、あの方を選んだ理由を?それともあの方と結婚出来る様に私から口添えをして欲しいと言う嘆願を?」


 努めて平静を装おうとした声には、僅かな苛立ちが滲んでしまったけれど、これは不可抗力だ。寧ろ怒鳴り散らさなかった事を褒めてもらいたい。


「どちらにせよ聞きたくはありませんわ」

「違う。私は貴女に口添えをさせるつもりは無い。私は、……私は王族籍から抜けて平民になるつもりだ。アンナと共に、静かに慎ましく暮らしていこうと思っている。アンナには悪意が蔓延る貴族社会は似合わないからな」


 握り締めた扇子からはミシッと嫌な音がなるが、それを気にしている余裕はない。


 殿下は今なんて言った?平民になる?静かに暮らす?私をその悪意蔓延る貴族社会に婚約を破棄された令嬢として晒し者にするのに自分達は幸せになると、そう言ったのか。


「…………随分勝手ですわね。まぁ、それは殿下の好きになさればよろしいでしょう。私にはもう関係の無い事です。しかし殿下を推していた貴族達が黙っているとは到底思えませんが、どうなさるおつもりで?」

「それは、」

「まさか何も考えずに私との婚約を破棄したと?それは随分おめでたい思考をお持ちですわね」

「なっ……!?」


 怒りか羞恥か顔を赤くして立ち上がり、無遠慮に近付こうとしてきた殿下を目で制す。


「私を侮辱するのか」

「侮辱?いいえ、これは忠告ですわ。問題を放置して市井に行くのも私としては別に構わないのですよ。ですがその場合殿下自身のみならず、あの方の命も危険に晒すと言う事をご理解下さいませね。殿下の仰る通り、貴族社会は悪意に満ちていますから」


 頭の良い殿下も当然理解しているはずなのだけれど、恋に浮かれて脳の機能が低下してしまったのかしら?


「それは脅しか?学園でアンナを脅した時と同じ様に私も脅すのか」

「あら、脅すだなんて人聞きの悪い事を仰らないで下さいませ。私はただあの方に常識を教えて差し上げただけですわ」


 婚約者のいる男性に理由なく近付いてはいけない。


 身分が上の者に気安く話しかけてはいけない。


 異性に無闇に触れてはいけない。


 貴族が多く通う学園に在籍しているのなら守るべきルール。それを無視していたのはあちらだ。


「言い方があるだろう。あの様な高圧的な態度をとる必要はなかったはずだ」

「えぇそうですわね。ですがあの方、何度注意しても全く態度を改めなかったのです。同じ事を繰り返すあの方に苛立ちを覚えるのは仕方がありませんわ。それに先程あの方を私が脅したと仰いましたが、これ以上学園の規律を乱せばこの学園に居られなくなりますわよ、と忠告しただけです。学園側から最終警告が出される前にわざわざ。逆にお礼を言って頂きたいくらいですわ」


 そこに多少の私情が挟まれていようが、事実は事実だ。学園側もあんな問題児は置いておきたくはないだろう。


「その事に関しては分かった。他にもアンナを授業で辱めたと聞いたが、それはどうなんだ?」

「……それは模擬戦闘の授業の事でしょうか。ですが殿下、真剣勝負なのですから本気でやるのは当然でしょう?確かに実力差はかなりありましたが、私は誰であろうと手を抜くつもりはありませんわ。殿下の婚約者として恥ずかしくない様に振る舞うのは当然の事でしたもの」


 そこに多少の八つ当たりが混ざっていようと全力は全力だ。えぇ。えぇ。それはもう日頃のストレスを叩き付けて差し上げましたとも。それくらいは許されるでしょう?


「アンナの事を卑しい平民だと罵ったり、物を壊したりした事は」

「有り得ませんわ。殿下もご存知の通り、私は平民の友人が沢山いますの。あの方を平民だからと罵る行為は友人を罵る事も同義。私は友人や身内は大切にする主義ですから、そんな事は例え死んでも言いません。それに物を壊すだなんて卑怯な事も私の矜恃が許しませんの。お分かり頂けたかしら?」


 これに関しては本当に知らないし身に覚えもない。一体何処の誰がこんな噂を流したのか。後で見つけ出して絞めてやろうかしら。なんて物騒な事を考えていたら殿下が静かに頭を下げた。


「……そうだな。貴女はそんな事は言わないし、卑怯な事はしないだろう。変な事を聞いて済まなかった」


 そう言って貰えた事に少しだけホッとする。最初のもの以外は一応殿下も疑っていらしたのだろう。恋愛対象として私は見られていなかったけれど、人としてはある程度の信頼はされていたらしい。……それはそれで嬉しい様な悲しい様な複雑な気持ちではあるのだけど。


「お話は以上ですか?」

「…………いや、最後に1つだけ良いだろうか」

「何でしょう」

「アンナの事をどう思っている?」


 真っ直ぐに私を見つめる紫の瞳には、からかいの色は見えない。ただただ真剣に私に問うているのが痛い程伝わってきて、それがどうしようもなく腹だたしい。


 だって私相手(元婚約者)あの方(浮気相手)をどう思っているかなんて普通聞かないでしょう?例え真面目に答えたとしても恨んでいると言えば軽蔑され、かと言って気にしていないなんて言っても信じて貰えやしない。本当に、殿下は何を思ってそんな質問をするのだろうか。そんな質問に意味があるかと逆にこちらが問うてみたい。


「…………あぁ、腹が立つわ」

「え?」


 ぽつりと零れた独り言に目を見開いて固まった殿下を見つめる。……そうよ。この婚約が破棄されれば顔を合わせる機会など無くなるのだから、どう思われようが関係ないじゃない。それなら最後に嫌がらせの1つや2つ位しても心優しい殿下なら許して下さるでしょう。だって浮気したのは殿下(自業自得)ですもの。


 そうと決まれば後は突き進むのみ。最上級の微笑みで武装して、優雅に華麗に今までの鬱憤を晴らしていきましょう。


「私があの方をどう思っているか、なんて。言われなくてもご存知でしょう?……ふふふっ」


 呆気に取られている殿下との距離を1歩縮めれば、無意識だろうか。殿下も同じ様に1歩下がった。それに笑顔を保ったまま、悪意を滲ませて言葉を紡ぐ。


「私あの方の事、心の底から憎んでおりますの」

「何故、」

「何故って、そんなの決まっているじゃありませんか」


 声のトーンを戻し、笑みを深くしてまた1歩殿下に近付く。また殿下は1歩下がろうとして、今度は踏みとどまった。


「私は幼少の時に殿下の婚約者になり、それ以降休む事無く王妃教育を受けてまいりました。いずれ王になる殿下を支える為に必要になりそうな知識や技術は全て頭と身体に叩き込みましたし、有能な人材を見つけては交流を持ち、こちらに引き入れたりも致しました。……まぁ、交流は途中から楽しくなって自ら進んでやった事ですのでそこは置いておきますが。つまり私は殿下の為に全てを捧げる覚悟をしていたのですよ」


 殿下との距離はもう3歩分もないけれど、護衛は動かない。


「それに比べてあの方はどうです?確かに可愛らしい容姿をしていますし、希少な光属性を持ち、尚且つ類まれなる魔力保有量を誇っておりますね。ですが、それだけです。それだけなのですよ殿下。成績は並以下なのに勉強しようとはしない。せっかく希少な光属性を持つ上に圧倒的な魔力保有量と言うアドバンテージがあるにも関わらず、使える魔法はちょっとした回復魔法だけ。何故か?それはろくに鍛錬をしないからです。向上心も無く、努力をしようともせず、ただ婚約者のいる男性方に媚びを売るだけ」


 あと1歩距離を詰めたら流石に護衛も動くかしら。なんて考えながら遠慮無く最後の1歩を踏み出した。


「分かりますか殿下。どれだけ殿下を慕っても、どれだけ殿下の為に励もうとも、見向きもされなかった私の痛みが。私ではない他の人を愛おしげに見つめる殿下に気付いてしまった時の私の悲しみが。しかもそれが男に媚びを売る事しか能がない、私が何一つ劣るものなどない女だと知ってしまった時の虚無感が。……分かりますか、殿下。努力も想いも存在すらも踏みにじられた私の絶望が」


 息を呑んだのは、目の前で目を見開いて口を無意味に開閉している殿下か。それとも殿下を守ろうと動きもしない殿下の護衛達か。


「ねぇ、殿下。私、本当に貴方様の事を愛しておりましたの」


 1粒流してみせた涙は、殿下にどんな印象を与えただろう。内心でほくそ笑みながら、殿下の言葉を待つ。


「…………あ、」

「クリス様っ!お話は終わりましたかぁ?」


 何か口にしようとした殿下を遮る様にドアが勢い良く開け放たれた。……これから面白くなりそうだったのに。私の迫真の演技を台無しにしてくれたあの方(非常識女)にため息を吐く。


「入室を許可した覚えはありませんわよ」

「あたしはクリス様の恋人だからそんなのいらないの!て言うか、アナタなんでクリス様の近くにいるのよ!?離れてっ!」


 無遠慮に肩を掴まれ力任せに引っ張られる。それに一切抵抗せず、小さな悲鳴をあげてそのまま後ろに倒れてみせた。


「お嬢様っ!!」


 でもほら。私の護衛兼侍従は優秀だから、床に倒れる前にちゃんと支えてくれるの。ちらりと後ろを見遣れば、殿下の護衛達があの方の無礼極まりない言動に眉を顰めているし、私の護衛達なんか殺気がダダ漏れだ。


 …………これは殿下に憂さ晴らしするよりも楽しいかもしれない。勝手に煽られて勝手にやらかしてくれるのだもの。私の演技を台無しにした事は腹立たしいけれど、楽しませてくれそうだから今回は特別に許してあげる。


 そんな事を考えていれば、皆に睨まれて怯えるでもなく顔を怒りに歪ませたあの方が私にその矛先を向けてきた。


「何よっ!自分の恋人の近くに他の女がいたら引き離すのは当たり前でしょう!何か文句あるわけっ!!?」


 嫌悪の眼差しを集めても気にする事なく喚く姿は、酷く滑稽で見苦しい。……私からしたらこれもとても面白いものだけれど。


 扇子の奥で無意識に上がってしまった口角を整えて、首をわざとらしく傾げる。


「……ふふっ!貴方もそうお思いになります?では、私が貴女に苦言を呈していた事も当然と言う事、いくら成績が芳しくない貴女にもお分かり頂けたかしら?」

「は?」

「だってそうでしょう?殿下の婚約者は私ですもの。近くに他の女性がいらしたら引き離そうとするのは当たり前ですわ」

「だ、だからって人の物壊すのはおかしいでしょ!?文句あるなら手を出すんじゃなくて直接口で言えばいいじゃないっ」

「あら、私何度も()()()()忠告しましたよ?それを散々無視したのは貴女でしょう?それにたった今、貴女は私に手を出したではありませんか。説得力の欠片もありませんわね」


 ほほほ、とこれまたわざとらしく笑って見せると今度は掴みかかってきた。勿論私の護衛兼侍従がそんな事を許すはずも無く、あの方は無様に床に押さえ付けられた。


「ちょっと!!離してっっ!」

「……お黙りになって?貴女の甲高い声は聞いていて不快になるの」

「はぁっ!?私に命令しないで!!クリス様に愛されずに捨てられた女のくせにっ!」


 あの方の言葉に部屋の空気が凍り付いた。比喩では無く、物理的に凍り付いたのだ。その元凶はゾッとする程表情が抜け落ちた顔で、あの方の首の横にナイフを突き立てている。


「ひ、っ!」

「……お嬢様、この無礼な輩をどう処理致しましょう?」

「ま、待ってくれ!アンナの非礼は私が謝る。だからアンナを許してやってくれないか」


 さっきまで黙って事の成り行きを見ていた殿下がやっと口を開いたかと思えば、まさかそんな事を言うとは。これが殿下達の"愛のカタチ"と言うモノなら、私は永遠に殿下達の事を理解出来る気がしない。


「お断りします」

「何故!」


 何故かなんて貴族社会で生きている殿下に分からないはずがありませんのに。ため息を呑み込んで口を開こうとすれば、ふっとなんの気配もなく私の隣に1人の男が立った。


「お困りなら手を貸しましょうか?」


 そこら辺の令嬢が見たら卒倒するレベルの微笑みを携えた、今1番会いたくなかった人物の登場に一瞬止まりかけた思考を高速で回しながら微笑む。


「……クレイル殿下。何時からこちらへ?」

「貴女との婚約を〜の所からですね」


 つまりこの第2王子は最初から部屋の前で話を盗み聞きしていたと。……流石、脱走用の魔法を日々研究、実践しているだけの事はある。姿を消すのもお手の物らしい。


「あまり褒められた行為ではありませんわよクレイル殿下」

「それはこちらの台詞ですよメイデルリーナ嬢。あの様な事を仰ったりして」


 楽しげに細められた目を真っ直ぐに見つめ返して小首を傾げる。


「あら?何の事でしょう」

「しらばっくれるのですか?……まぁ私としても大変楽しく拝見させて頂きましたし、構いませんがね。ですが失敗しました。もう少し遅く出ていれば愚兄がメイデルリーナ嬢にどんな言葉を吐いたのか聞く事が出来ましたね?」


 大袈裟に肩を竦めて嘆いてみせたクレイル殿下に苦笑する。


「名残惜しいですがそろそろ野次馬が集まりそうですし、メイデルリーナ嬢、ここは私が引き受けますのでどうぞご帰宅の用意を」

「ふふっ。クレイル殿下でなければ有難く退出させて頂きましたけれど、貴方様に借りを作りたくはありませんの」

「それは残念。借りを返せと婚約承諾書へ貴女の名前を記入させるつもりだったのですが」


 本気とも冗談とも取れる笑みを浮かべたクレイル殿下に口元が引き攣る。


 ……幼い頃から徹底的に王妃教育をされてきた私ですら、クレイル殿下が本気で表情を取り繕えば何を考えているのかが全く読めない。流石、王位に興味さえあれば、王太子の座を手に入れていた王子と言われているだけの事はある。


 だけど、私だって長年厳しい王妃教育に耐えてきたのだ。簡単に遊ばれてなんてやらないわ。


 自分でもよく分からない闘争心に駆られるまま、クレイル殿下の紫の瞳を見つめて細部まで気を引き締めて笑みを作った。


「……ご冗談を。クレイル殿下ほどのお方ならば、婚約者に捨てられた女など相手にせずとも、数え切れない程の美しい蝶達がいらっしゃるではありませんか」

「冗談なんかではありませんよ。私が手に入れたいのはただの美しい蝶ではなく、傷だらけでも強く気高く美しい特別な蝶ですから。それにメイデルリーナ嬢もご存知の通り私は飽き性ですので。見向きもしない相手を追いかけ回す美しいだけの蝶など半日も経たずに飽きてしまうでしょう。寧ろ嫌気が差しているかもしれませんね」

「ふふっ!他の殿方が耳にしたら嫉妬してしまいそうなお言葉ですわね」

「代われるものなら代わりたいものです」


 一瞬遠い目をしたクレイル殿下に、燃え上がっていた闘争心が消え、思わず同情の視線を向けてしまう。好いてもいない相手に追いかけ回されるのは思ったよりも疲れるのだ。


「ですからメイデルリーナ嬢、どうか私の手を取って頂きたい。虫除けが欲しいと言うのも少なからずあります。けれど王として民の上に立たねばならぬのなら、その隣にいるのは貴女がいいと思う気持ちも本当です。他の誰でもない貴女と共にこの先の道を歩んで行きたいのです。勿論、愚兄の様な馬鹿げた事はしませんよ。生涯貴女だけを愛し続けます」


 清々しい程の本音を混ぜ込んだプロポーズと表情はいつも通り飄々としているのに、耳が僅かに赤らんでいる事に笑ってしまう。クレイル殿下らしくない。まぁ、らしくないからこそ、クレイル殿下の言葉が嘘では無い事が理解出来たのだけれど。


 いつの間にか静まり返っていた室内で、私が言葉を発するより先に声をあげたのはやはりあの方だった。


「ちょっと待って!次の王様はクリス様でしょっ!?」

「はは、兄上が次期王?笑わせないで下さい。メイデルリーナ嬢ではなく貴女を選んだ時点で兄上は王になる事を放棄せざるを得ないんですよ。まさか貴女、自分が王妃になれるとでも思ったんですか?」

「私はクリス様の恋人よ!?なれるに決まってるじゃない!!」

「……くくっ!ここまで酷いといっそ笑えますねぇ兄上?この女性の何処に惚れる要素があるのか後で教えて下さいよ」


 明らかな侮蔑を含む声音に殿下は困った様に微笑んで、今にもクレイル殿下に掴みかかりそうなあの方の腰を抱き寄せた。


「それでも好きになってしまったんだ。気が付いた時にはもう引き返せない位に、アンナを愛してしまったんだ」

「…………へえ。最近流行っている恋愛小説のヒーローみたいな台詞ですねぇ。ですが、ここは現実ですよ兄上。恋愛小説みたいに2人は幸せに暮らしました、なんて簡単な言葉で終わらせられるものではありません」

「分かっている」


 分かっていない。殿下は全く分かっていない。


「クレイルには苦労をかける」


 だからこんな無責任な言葉を吐けるのだ。王になるべく教育を受けた殿下と言い方は悪いがスペアとして教育を受けたクレイル殿下では、知識の量も方向性も違うと知っているはずなのに。理想を追い求めるのはかまわないし、正義を重んじるのも愛を貫くのもかまわない。けれど相手の事を自分の物差しで考えるのは、相手にとって害悪だと理解して欲しかった。


 殿下に対する鬱憤はさっき殆ど晴らせたし、あの方にはちょっとキツめの仕返しが出来た。だから最後は笑って、殿下の貫き通したそれらの裏で、身を削るはめになった人間がいる事を突きつけてあげましょう。


 美しい紫の瞳で私を見つめるクレイル殿下の手をそっと握る。


「大丈夫ですわクレイル殿下。私がついていますもの」

「……メイデルリーナ嬢?」

「殿下と同じく私も幼い頃から国のトップになる為の教育は受けております。それに私には元々は殿下の為に築いてきた交友関係がありますわ。彼等は優秀なのできっとクレイル殿下のお役にたちましょう。だから大丈夫ですわ。この先どんな苦難が待ち構えていようと、私もクレイル殿下と共に乗り越えてみせます。だからクレイル殿下は何も心配せずに堂々と構えていて下さいませ」

「……ありがとうございますメイデルリーナ嬢」

「お礼を言うのは私の方ですわ。もしクレイル殿下に救って頂けなければ、私は社交界で王太子に捨てられた女として笑いものにされて良縁は疎か、貴族社会で生きていく事すら難しくなっていたでしょうから」


 これみよがしに悲しげな顔をしてみせれば、今気付いたとでも言いたげな殿下の強ばった顔が視界の端に映った。それに自然と口角が上がればクレイル殿下は私の意を汲んで下さった様で、そっと私の手を持ち上げ指先に口付ける。近くで見なければ分からないけれど、クレイル殿下の目が楽しそうに僅かに細められた。


「貴族社会は魔窟ですからね。心無き者達が垂れ流す悪意で貴女が悲しむ所を想像するだけで胸が痛む。ですがメイデルリーナ嬢、私は同情から貴女に求婚したわけではありませんよ。……兄の婚約者であった時から、何事にも一生懸命に取り組んで、兄の為に奔走する貴女をお慕いしていました。兄の婚約者だからと、貴女が幸せになれるのならと、この想いに蓋をしていましたが、もうそんな事をする必要も無い」


 とろけそうな程甘い笑みを浮かべ、今度は掌に口付けた。


「貴女を愛している」


 そのクレイル殿下の言葉に殿下は顔を背けた。一瞬見えた顔には苦悶の表情がありありと浮かんでいて、あの方が不安そうに殿下の袖を引く。それに安心させる様に、殿下は取り繕った微笑みを浮かべてあの方の頭を優しく撫でた。それを見ても、もう悲しみすら感じない。それどころか夢に溺れた殿下に現実を見させられて万々歳だ。


 そんな事を考えてしまうのだから、ついこの間まで確かに殿下を愛していた心は、今はクレイル殿下に傾いているのだろう。私が大事にしてきた愛はこんなにも軽いものだったのかと悲しくなる一方で、こうなる運命だったのだとも思う。


 一方通行の愛は苦しくなるだけ。だからきっとこれでいいのだ。殿下に捨てられた無様な私も、それに仕返しを企む醜い私も。その全てを認めてくれる人が今ここにいるのだから。


 さっきまでは何ともなかったのに、じわじわと顔を赤らめるクレイル殿下の手を握り返す。


「クレイル殿下、私も貴方様を愛したい。こんな私でも愛してくれると言って下さった貴方様の隣で生きていたい。それを許して頂けますか?」

「勿論です。メイデルリーナ嬢」





 その後正式に殿下との婚約は破棄され、クレイル殿下との婚約が結ばれた。殿下は王族籍を剥奪され、あの方と共に国外に追放された。


「……父上は最後の最後で甘い。国外に追放などしないで市井に放り込めば良かったんだ。そうしたら貴女を慕っている民達にそれはそれは素晴らしい洗礼をプレゼントされていたでしょうし、第1王子派の貴族に付け狙われるはずだったんですが」

「まぁ、クレイル殿下は過激ですわね。しかし外国に殿下、……クリス様に手を差し伸べて下さる方はいらっしゃらないでしょう?その方がクリス様にとって罰になるのでは?」

「だといいんですがね」


 深くため息を吐いたクレイル殿下は、ちらりと窓の外を見遣って焼き菓子を1つ摘んだ。私も少し胸に上る苦々しいモノを流すべく、紅茶を飲み込む。自分で言っておいて何だが、クリス様にとって国外追放は大した罰にはなっていないだろう。2人が城を出た時の様子を思い出して、吐きそうになる悪態を甘い甘いケーキを口に含んで留めた。




 クリス様とあの方が城から出たのは今よりほんの少し前。安っぽい馬車に乗せられた時のあの方の泣きじゃくりっぷりは凄まじかった。小さい子供の様なそれに、数少ない見送りに出ていた者達が一様に眉を顰めて嫌悪の眼差しを向けていたほどに。


 ……クリス様の言う通り、あの方に社交界は似合わない。と言うより、向いていない。子供の様に無邪気で直情的で破天荒なあの方は腹に何を抱えているのか分からない魔窟の如き社交界で生きていけるとは思えなかった。


 そんな子供じみたあの方を仕方がないな、とでも言う様な顔で宥めるクリス様は、本当にあの方を愛しているのだろう。思わず乾いた笑いが出てしまったのはしょうがない。クリス様に現実を突きつけたつもりが、私がどんなに頑張ろうとクリス様の目に映る事はなかったのだと逆に突きつけられる形になったのだから、笑いくらい出てくる。


「……大丈夫ですかメイデルリーナ嬢」

「えぇ。大丈夫ですわ」


 大丈夫。少し虚しくはなったけど、傷付いてはいない。クリス様には愛されなかったが、結果として私を愛してくれる人と巡り会えたのだから。


 クリス様の合図で進み出した馬車を見えなくなるまで見送って、私達は踵を返した。




「……仕返しは失敗かしら」


 クリス様達の事を思い出して口からぽろりと言葉が零れた。罪悪感を植え付ける様な言い方をしたし、その場ではダメージを与えられたとは思う。だけど、それは刹那的なものであって、長くは持たなそうだ。だってクリス様にとってあの方と共にいる事こそが幸せなのだから。


「そうでもないと思いますよ。兄上は無駄に正義感が強くて色々気にするタイプですから。例えあの女と幸せに生きたとしても、メイデルリーナ嬢への負い目は忘れないですよ。自分が悪いのは理解しているでしょうし。なのでメイデルリーナ嬢がした事は兄にとって最も有効な手段と言っても良いでしょう」


 私の心を読んだかの様な物言いに苦笑して、クレイル殿下がさっき食べていた物と同じ焼き菓子に手を伸ばす。


「それなら良かったですわ。ありがとうございます」

「お礼を言われる事はしていませんよ。……それよりもこれからの事を話しませんか?」

「えぇ。これから忙しくなりそうですものね」


 そう。やる事は山ほどある。クレイル殿下の地盤固めや、元第1王子派の貴族達の処遇、諸外国と民への説明、王族のイメージ回復、……イメージ回復はまぁ、何とかなるだろう。幸い私もクレイル殿下も民に慕われている。だからといってこうしてのんびりお茶をしていられるのも今だけだろうけれど。


 でもきっと、その忙しさに私は幸せを感じるんだろう。


「ふふっ」


 満ち足りている。ずっと長い事感じていた虚しさが跡形もなく消えて、今、私はこれ以上ないくらいに満ち足りていた。


「メイデルリーナ嬢?どうしました?」


 美しい紫の瞳がハッキリと私を映す。それが嬉しくて、口元が緩んだ。


「愛は偉大だと思っただけですわ」


 そう、愛してもらえていると言うだけで、こんなにも気持ちが軽い。今ならどんなことだって出来る気がするのだ。





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[一言] 廃太子が決まってる人の謝罪に何の価値があるのか・・・王子の恋人というだけで庶民でしかない女が目上の者につかみかかったり暴言を吐いたり、その場で殺されても仕方無い状況。 国外に追放=表沙汰にな…
[良い点] 面白かったです 短いのに起承転結がきちんとできていて、すっきりした内容 [気になる点] ・・・・主人公のクレイルへの気持ちがわかりにくかった なんか、「嫌ってるけど仕返しの為にとりあえず…
[一言] 短編ならではの間延びしないスッキリとした復讐劇。 読んでてすごく良かったです。 拙い感想ですが有り難う御座いましたー!
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