一人ではないのだと
※人間や魔人が話している際は「」、魔獣が話している際は『』で表記してあります。
いつだって、俺の傍にいた。
…いや、いてくれた奴がいる。
俺はソイツの大切さに気付けなかった。
いつも一緒にいる事が当たり前過ぎて、近過ぎて。
俺はアイツの事を、よく考えようとも、見ようともしていなかったんだ———
***
「イゥ!いつまで寝てるの?早く起きなさい」
「んぁ…?あとちょっと…」
「今日もトヴァちゃんと遊ぶ約束してたんじゃないの?」
「…ん、とば… …。
…ああああああ!!」
その赤茶色の瞳を大きく見開き、ガバッと勢い良くベッドから飛び出した少年、ツンツンヘアーの少し青みがかった黒髪の男の子は、【イゥ・アクィラ】。
イゥは、大急ぎで服を着替えると、一階へ駆け下りて行った。
「母さん飯食っていいー!?」
と思ったならば、一階から聞こえてくる馬鹿でかいその問いに、肯定の返事を返すと、漸く静かになる。
「行ってくる!!」
朝食を終えたイゥは大急ぎで待ち合わせの場所へ向かった。
いつもの待ち合わせの場所へ、待ち合わせの時間を当然の如く過ぎて此方へ駆けて来るイゥ。
イゥを待っていたのは、特徴的なキャラメル色の髪を持つ美しい少女。毛先全体が自然にカールしており、つい触れたくなってしまう程に柔らかそうで。
そんな少女、【トヴァ・アウラ】は、もうイゥが遅れて来る事に慣れてしまっており、特別気にも留めていないようで、普通に「おはよう」と口にした。
「お…、怒ってるか?」
「え、何で?」
「……」
「...?あ、時間?イゥが時間通りに来ないのなんていつものこと、イゥが健康な証拠じゃん」
「バカにしてんだろー!」
「してない、してない」
ちょっとした言い合いの後、イゥはトヴァの手を掴んで駆けて行く。
川で水遊びをしたり、沢山の花の咲き誇る草むらで転げ回りながらじゃれ合ったり、木登りしたり。
同じ町に住み、小さな頃からずっと一緒の二人は兄弟のように仲が良く、雨の日でさえも、一緒にいない日はなかった。
ある双子が二人に加わるまでは―――… …
***
「イゥ兄ーっ!」
「おわっ!?エイ!いきなり飛びつくな、危ねぇだろうが」
突然イゥに抱きついてきたのは、近所に住む一つ歳下の少女。毛先が耳に掛かるくらいの長さの愛らしい短めのツインテールは、ピンク色の可愛いリボンで括られている。焦げ茶色の髪に、鮮やかな黄緑色の瞳を持つその少女は【エイ・ナウタ】。
「だってイゥ兄見つけたら抱き着きたくなるんだもん!」
「…ったく、」
「えへへぇ」
イゥは困った様な顔をしながらも、エイの頭を撫でる。気持ち良さそうに目を細め、されるがままになっているエイ。二人を知らぬ者から見れば、二人は本当の兄妹のようだった。
そして、その後方から話をしながら歩いてくる二人の人物。
「それでさ!僕はその小鳥を助けてあげたんだ!」
「そっか、レイは偉いよ」
エイと同じ色の髪と瞳を持った少年【レイ・ナウタ】は、これまた同じくトヴァに頭を撫でられてとても嬉しそうにしている。心なしか、ブンブンと左右に揺れる尻尾が見えるような気がした。
「トヴァ!レイ!遅ぇぞ!」
「昨日寝たのが遅かったから、ごめんね」
「トヴァ!イゥ兄なんかに謝る必要ないよ!」
「おい何だと!」
「それより遅く寝るなんてどうしたの?トヴァ何してたの?」
「ん、本読んでたんだ」
「何の本??」
「簡単に言えば、色んな国の商いの方法かな」
「すごいトヴァ!僕にも何か教えてよ!」
「あっ、レイずるい!トヴァ姉、エイにも!」
「エイうるさい!邪魔すんなよ!」
「お前ら人の話聞けよ!!」
物心ついた時にはトヴァはもう隣にいて、母さんによれば俺達は三歳の頃から一緒にいるらしい。
トヴァの両親はいくつもの会社を持つ大企業の社長で、トヴァが二歳になるかならないかくらいの時に、自然豊かで穏やかな場所で育って欲しいと、この海の近い田舎町【ピリザ】に、田舎にそぐわないそれはもう凄い豪邸を建てた。とは言っても、トヴァの両親は仕事が忙しいので、殆ど此方にはおらず、トヴァはほぼ使用人?の人達と暮らしているらしい。その辺はよく分からない。
何回か会った事のあるトヴァの両親は金持ちなのを鼻にかけない優しい人で、同い年の子を持つ母さんとはすぐに打ち解けたらしい。そんな縁があって俺達はずっと一緒にいる。まぁ時々、トヴァ自身も、会社の交流パーティー?などに出席する為に、あちらへ戻ってしまう事もあるが、その辺もよく知らない。というか、大抵すぐに帰ってくるので、あまり気にした事はない。
基本、常に俺とトヴァの二人だけで行動していたわけだが、そのうちレイとエイとも遊ぶようになり、いつの間にか二人だけだったのが、四人になった。
俺には五つ歳下の妹がいたから...、だからレイとエイは俺にとって、友達っつぅよりも弟と妹が増えたって感じだった。トヴァも同じようなこと言ってたような気がする。エイは何故か物凄く俺に懐いた。反対にレイはトヴァに。
何をするにも俺とトヴァの後ろを付いてくるもんだから、俺はトヴァと二人だけで遊んでいた頃に戻りたかった。だってレイもエイも何でも俺達の真似すっから、危ない事は出来ない。俺とトヴァは昔みたいに自由に遊べなくなった。だからって二人を嫌いになったわけじゃなかったが、それをトヴァに言えば、トヴァは全く気にしていないようでケラケラ笑ってた。
エイは女の子で、尚更怪我なんかさせられないから、俺は懐いてくれているエイを時折鬱陶しく感じる事すらあったんだ。
あの日までは―――…
***
「…っ、畜生…っ!!」
それは、レイとエイとも遊ぶようになってから数カ月後、イゥの両親が留守の間の出来事だった。
イゥの妹が、"白怒の日"の犠牲者になってしまったのだ。
このドラッヘ大陸には、神話がある。
千年前、銀色と金色の二頭の竜が存在した。銀の竜は兄、金の竜は妹。竜という【神獣】である彼らは、兄妹でありながら互いが互いにとって、子孫を残す為の大切な存在であった。二頭はとても仲が良く、人里離れた場所でひっそりと暮らしていた。
しかし、金色の竜は人間と恋に落ち、その青年との間に身籠ってしまう。青年は人間の王子だった。それに憤怒した銀色の竜は、人間達を滅ぼそうと牙を剥くが、戦に特化したあらゆる平気や軍勢、更に妹竜によって殺されてしまう。
その日、冬の24日は、銀色の竜の命日であり、兄竜の怨念が強く渦巻く日でもある。
強過ぎるが余り、世界に残ってしまったとされる銀色の竜の怨念が空から降ってくるのだ。
一見、普通の雪に見えるそれは、触れると火のように熱い。しかし、物珍しがって触れてはいけない。少しでも触れれば、まるで別人のように人が変わり、狂暴化してしまう。過去には、その白い光に触れた者が殺人鬼になってしまった事件もあり、当日は誰も外出しないのが、ドラッヘ大陸の慣例なのだ。
大昔の文献にも、雪だと勘違いした者達が触れてしまい、数多くの悲惨な事件が相次いだ、と残っている程に。
積もる事のない、物体に触れるとパッと消えて失くなるそれは様々な呼び名があり、見た目そのまま【白い光】と呼ぶ者たちもいれば、【怨雪】と呼ぶ者、【白怒の粒子】と呼ぶ者など様々である。
しかし、何故かその怨雪は、子供や魔獣には無害であった。触れてもそこまで熱くはないし、温かい程度、気も狂わない。子供たちにとっては、「触れると温かな変わった雪」程度の認識なのである。それは、実際に怨雪によって奇行に走るような殺人鬼を目にした事がない所為でもあるが、それを言うなら現在の大人達も同様、実際に見た事がある者の方が少数派だろう。念の為、影響を受けない子供達も外出禁止とされているのが、この日なのだ。
...なのだが、イゥの妹は、イゥが少し目を離した隙に家の外へ出てしまった。
仕事が終わり、隣町のロドルゲからピリザに到着したばかりの男、恐らくは白怒の日までには戻れると思ったのだろう。
彼は近所に住む者で、イゥ達にとって、よくお菓子をくれる優しいおじさんだったのだ。
信じていた者に、妹は殺されてしまう。
何度呼んでも返事をしない妹が家の中にいない事に気付いた時には、その日が白怒の日だという事も頭の片隅に追いやられ、咄嗟に外へ駆け出す。
名前を呼べば、微かに聞こえた助けを求めるような「お兄ちゃん...!」という悲鳴。声のした家の裏手へ慌てて向かう。
そこには、焦点が定まっていないものの、斧を片手にユラユラと妹へ近付く男。口は半開きで、何かブツブツと言っているようだがよく聞こえない。幼い妹は恐怖のあまり、逃げようともせずただ地面に座り込んだまま、ガタガタと震えていた。
すぐさま妹に駆け寄り、その腕を強く引く。
「何やってんだ!!逃げるぞ!」
「お兄ちゃ...、」
今でも鮮明に覚えている。
何が起こったか分からない刹那の一瞬。
噴水のように真っ赤に染まる自分の視界の中で、発狂にも似た男の笑い声が響く。
目の前にあった筈の妹の恐怖に怯えきった顔はそこにはなかった。
なくてはならない場所に、"何も"なかったのだ。
次はお前だと言わんばかりに、斧を振り上げる男が、まるでスローモーションのように見えた。
———...ああ、俺も死ぬのか
「イゥ!!」
視界がフェードアウトする寸前、俺の一番安心する声と、もう一人の誰かが男を横から蹴り飛ばす瞬間を見て、意識を手放した。
…そして目を覚ませば、全ての事は最悪の結果で終わっていた。両親は何度も俺に謝った。母さんは泣き叫んでいた。
自分の弱さが憎い。
怨雪なんてものを生み出した竜が憎い。
妹を殺し、両親を泣かせた、あの隣人が憎い。
でも一番は、何も出来なかった自分が心の底から本当に憎いっ!!
...後に聞けば、あの時俺を救ったのは、トヴァとトヴァの家に偶々遊びに来ていた親戚の一人だったという。
***
イゥが湖の畔で膝を抱えて座っている。その額を膝につけて。いつも頼もしいその小さな背中は、今だけはとても儚く、弱く見えた。拳を強く握り締め、肩を震わせ、何度も小さな声で「ちくしょう」と呟き、自分を責め続けるその痛々しく悲しい姿に、一人、近づく者がいた。
「イゥ兄…?」
「…エイか、… …今ちょっと気分悪いからまた後でな。あっち行ってろ」
「やだ」
「…頼むから」
「やだ」
「一人になりてえんだよ…」
「…やだ」
「っ!!いい加減にしろよ!!!
… …っ!?エイ…?」
エイはイゥを優しく抱き締めた。
その行為に、イゥは目を見開く。
「イゥ兄はいつもいつも、頑張り屋さん。でもね...、えっと、人は一人じゃ何もできないんだって!だから、エイがずっと傍にいて、イゥ兄を助けるの!」
エイは、幼いながらにも理解していると言うのだろうか。これから自分が何をしようとしているのかを。白怒の日を無くすべく、生きていこうとする自分を。
そうでなければ、"助ける"なんて言葉は出てこないのではないだろうか…、そんな訳はない。
けど、エイの言葉が俺の心を温かくしてくれたのは事実で。
「…は、お前には無理だよ。エイは女の子だし、弱いから駄目だ」
「エイ強くなるよ!女の子とか男の子とか関係ないよ!」
そう言ってくるエイの瞳は真剣そのもので、イゥは初めて見るそのエイの表情に釘付けになった。
「…お前が、助けてくれんの?」
「うん!」
「俺の傍にいて、ずっと?」
「そうだよ!」
「…っ!!」
そう言って、まるで向日葵の様に笑ったエイを、イゥは強く抱きしめ返した。そんなイゥの頭を優しく撫でるエイ。今だけはいつもの立場が逆転しているようだった。
そんな微笑ましい光景を遠くから見守る人物がいた。
「…本当に、よかったの?トヴァ」
「いいんだよ」
「だってトヴァ、イゥ兄の事…」
「私にはやらなきゃいけない事ができた。私はもうイゥの傍にはいてあげられない」
「……やらなきゃいけない事?」
「レイは気にしなくていいんだよ」
そう言ってふわりと笑って優しくレイの頭を撫でるトヴァ。
いつもなら、その行為に大喜びするレイなのだが、今回は違った。
「…っ、トヴァはいっつもそうだ…。いつもトヴァは損してる!」
" エイ、イゥを励ましてきてくれる?"
" わかった!でもなんて言うの??"
" 人は一人じゃ何もできない。だから… "
" ?? "
" …エイ、イゥとずっと一緒にいてやってくれる?イゥが困った時、悲しんでる時、傍にいてイゥを助けてあげてくれない?"
" うん!わかった!エイ、イゥ兄大好きだもんっ!"
" ありがとう、エイ。じゃあ最後にそのエイの気持ちをイゥに伝えてやって欲しいな "
" うん!!"
" イゥはいつも遊ぶ湖の畔にいるはずだからお願いね、気を付けて "
" はーい!"
眉を八の字にして、今にも泣きそうにトヴァを見つめるレイに、トヴァは困った様に笑う。
「何でそんな顔するの。私はレイの笑った顔が一番好きなんだけどな」
屈み、レイの目線に合わせてそう言うと、レイはトヴァの首に両腕を回した。
「…僕っ、エイが嫌い!トヴァのこと何にも考えないエイが大嫌い!!」
「私にとって、レイもエイも可愛い大切な弟妹だよ」
「……僕はトヴァと一緒にいるからね!」
「あはは!ありがとう」
「嘘じゃないよ!本当だよ!」
フッと笑って再び僕の頭を撫でるトヴァの笑顔がとても儚く見えた。確かにそこにいるのに、何処か遠くへ行ってしまいそうな、そんな感じがした。だから僕は聞いたんだ。「どこにも行かないよね?」って。トヴァは何も言わず優しい顔で僕を見つめた後、空を見上げた。
「帰ろうか、レイ」
「……うん」
それ以来、イゥ兄とエイの仲は以前より何倍も良くなった。
それまでイゥ兄の隣にいたのはトヴァだったのに、その位置がエイになった様な感じだった。そんな二人を嬉しそうに優しく見つめるトヴァが、理解出来なかった。
***
そして、イゥ兄の誕生日がやって来た。イゥ兄の家で誕生日パーティーをするんだ。
僕の家でも、僕とエイの誕生日は毎年パーティーをする。勿論、トヴァやイゥ兄を招待して。
...でも、トヴァの誕生日パーティーに、トヴァの家へ招待された事は一度もない。トヴァのお父さんとお母さんは忙しくて、パーティーどころじゃないのだと笑うトヴァに、寂しさは感じられなかった。
「私は、イゥとレイとエイに "おめでとう" って毎年言ってもらえているから、それだけで十分過ぎるんだよ」
いつもそう言って笑うトヴァ。それが本心で言っているなんてよく分かってるけど、それでもやっぱり、トヴァに申し訳なくなる自分がいる事も、トヴァは気付いていて、その度に頭を撫でてくれた。そして今回、エイはずっとイゥ兄に何をプレゼントするか悩んでいた。
「ねえ、何もらったら、イゥ兄は喜ぶかな!?」
「知らない」
「えー、レイ冷たい!そうだっ!トヴァ姉に聞こうっ!」
誕生日パーティーの前日。
閃いた!と無邪気に笑うエイ。エイはただ純粋なだけだ。だってエイはトヴァのことも大好きだから。…でも、僕は本当にこいつが大嫌いだ。
「トヴァ姉!イゥ兄にあげるプレゼント何がいいかな?」
「プレゼント…。あ、ちょっと待ってて?」
そう言って持って来たのは赤いマフラーだった。レイはそれに見覚えがあったため、目を見開いた。
「これイゥにあげていいよ」
「わー!あったかそう!でもこれどうしたの?」
「親戚にもらったんだ。でも私、今使ってるやつが気に入ってるからね。イゥは赤い色好きだし、喜ぶと思うよ」
「いいの?…でも、じゃあトヴァ姉があげた方がいいよ!」
「私は他にあげるものあるんだよ」
「そうなの?うん、わかった!ありがとう!」
エイはマフラーを持って駆けて行く。
レイはその後を追わず、トヴァへ詰め寄った。
「何で…、何でなの?あれはトヴァが前からイゥ兄のためにっ!」
レイは知っていた。一人でトヴァの家へ遊びに来た時、トヴァがあのマフラーを編んでいたことを。イゥの為に。
「私があげるより、エイがあげた方がイゥは喜ぶよ」
「そんなことないっ!!だってトヴァがせっかく…!!」
「ほら、レイも家に帰りな。パーティーの準備しなくちゃでしょ?」
「っ、」
何でなのか、レイには分からなかった。
何でそんなに、柔らかく笑えるんだろう。
トヴァは、あの日から、何か違う事を考え、何処か遠くを見ている様な気がする。
当日は、折角の誕生日パーティーだというのに大雨だった。お昼くらいから降り出した小雨は、今は雷を伴う大雨に変わっている。そんな事は気にせず、レイとエイ、イゥとイゥの両親と、イゥの家のパーティーの飾り付けが施されたリビングでケーキを囲み大賑わい。
だがそこに、トヴァの姿はなかった。
「はい!これイゥ兄にプレゼント!」
「おっ!マフラーじゃん!しかも赤!さすがエイ!俺の事分かってんなぁ!」
そう言ってエイの頭を撫でるイゥ。
「...僕はこれ」
「ん?おお!これ!ドラッヘ三騎士のフィギュアか!ありがとよ!」
そしてレイの頭も撫でる。
イゥはとても嬉しそうにしていたが、たまに見せる曇った表情をレイは見逃していなかった。
そして誕生日パーティーも終わる頃、あんなに降っていた雨も止んでいた。
「トヴァちゃん来なかったわねぇ…」
そう言ったイゥの母親。イゥは小さく「…知らねぇよ、あんな奴」と、呟いていた。
その時、来訪者を知らせるチャイムの音がイゥの家に響いた。レイとエイは、真っ先に玄関へ駆けて行ったイゥの後を追う。イゥが開けたドアの前にいたのはびしょ濡れのトヴァだった。
「ごめん…、イゥ。遅れちゃって…」
「…どうしたんだよ」
「ん?ああ、色々あって…」
「… …色々?色々ってなんだよ!!今日じゃなきゃ駄目なことか!?そんなに大切なことかよ!?」
「…ごめん、」
「もういいっ!!帰れよ!パーティーは終わった!そんなずぶ濡れで家ん中入れるわけねえだろ!」
「ん、分かった。本当にごめんね、イゥ」
家の中へ駆け戻って行くイゥ。
そしてイゥの怒鳴り声を聞きつけたイゥの両親が玄関へやって来ると、トヴァの姿を見て大慌てで言った。
「どうしたのトヴァちゃん!そんなに濡れちゃって!おいで!早くお風呂に入って服を着替えないと風邪引いちゃうわ!」
「いえ、大丈夫です。誕生日パーティー、参加出来ずにすみませんでした」
「そんな事はいいのよ!それより早く中にっ」
「いえ、帰って着替えるので本当に大丈夫です。…それより、イゥに謝っておいて下さい…」
「トヴァちゃん…」
「それでは…」
ぺこりとお辞儀をして去って行くトヴァを、レイは追った。
「レイ、どこ行くの!?」
「エイはイゥ兄といてやってよ。約束したんだろ」
エイの制止を振り切るようにしてトヴァの後を追って駆ける。
「トヴァ!待って!」
「!...レイ、どうしたの?」
「何かあったの?」
「…レイは気にしなくていいんだよ」
そう言って、いつものよつに頭を撫でる。しかし、今回レイはその手を払い除けた。その初めてのレイの行動に、トヴァは驚いた様子だったが、すぐに困った様に笑う。
「ごまかさないで。何があったの、トヴァ!」
「レイ、早く戻りな。もう暗くなるよ」
トヴァはそのまま歩いて行ってしまう。
「ねえっ!待ってよトヴァ!!」
そして掴んだ腕。その時、レイは見逃さなかった。
青痣を。
よく見れば首の横にも同じ様に酷い痣があり、きっとそれは項にまで達しているであろうと予想がつく程のもの。
「トヴァ、痣、どうしたの…?」
そのレイの問いに、トヴァはピクリと反応した後、思いきりレイの手を振り払った。
「レイ、今見た事、絶対誰にも言わないで」
「で、でもっ!!」
「絶対に、言わないで」
「…っ、」
「言ったら絶交だよ」
「…わっ、わかった…!」
「ん。ありがとう」
***
イゥの誕生日パーティー以降、イゥとトヴァは全く口をきかなくなった。それだけならまだいいのかもしれないが、トヴァに会える回数が減っていった。いつも四人で遊んでいた湖の畔にも、草原にも、森にも、トヴァはいない。トヴァの家へ行っても、メイドが「お嬢様は出掛けましたよ」と言うばかりで、本当に出掛けているのかは分からない。只、こうも会えないと、トヴァは家へ籠りきりなのではないかとメイドを疑ってしまう。
トヴァに会えない日が三週間程続いた。
その日、レイはいつものようにトヴァを捜していた。エイはイゥと一緒に遊んでいただろう。辺りは薄暗くなっていた。
今日もトヴァを見つける事が出来ず、レイは家まで帰る途中だった。…だったのだが、隣町であるロドルゲへ続く道から此方へ歩いてくる人物に、レイはピタリと足を止めた。
「…トヴァ!!」
「レイ?」
レイは駆け出すと、トヴァへ思いきり抱きついた。
「トヴァ!トヴァ!!捜したんだよ!毎日捜したんだ!けど、トヴァ見つけられなくて…っ!」
レイは泣いていた。
「ごめんレイ、心配掛けたんだね」
「うっ…、ううぁ!」
「ありがとう、レイ。ほら、家まで送ってやるから、今日はもう帰りな」
トヴァに手を引かれ、レイは家まで帰った。
しかし、なんとタイミングの悪い事か、トヴァとレイと全く同じ状況のイゥとエイに、家の前で出くわしてしまったのだ。イゥは此方を見て一瞬目を見開いたかと思えば、すぐにそっぽを向いてしまった。一方トヴァは、そんなイゥを暫く見つめた後、またレイの頭を撫で、いつもの笑顔で言った。
「じゃあね、レイ、エイ」
「トヴァ…」
「…う、うん!」
行ってしまったトヴァを、イゥは食い入る様に見つめていた。
俺が無視した。でも、それでも話し掛けて欲しかった。
そんな感じだろうな、とレイは思った。
そしてある夜、レイは知ってしまう。
トヴァの痣の理由を…。
***
それはレイが久しぶりにイゥとエイと三人で、森で遊んだ後の帰り道の事だった。夕方、辺りが薄暗くなり始めている頃、三人は家路を急いでいたのだが、レイは自分の誕生日にトヴァから貰ったキーホルダーをなくした事に気付いた。
いつも何処へ行くにも、レイはそのキーホルダーを自分の身近にある物に付けかえ、肌身離さず持ち歩いていた。今回はそのキーホルダーを首にかけるタイプの虫かごの取っ手の部分に付けていたのだが、そこにぶら下がっている筈の大切なキーホルダーは、忽然と姿を消していた。
「…イゥ兄、ちょっと忘れ物したみたい!取ってくるから先に帰ってて」
「はぁ?何忘れたんだよ」
「キーホルダー」
「キーホルダー?んなもん、明日探せばいいだろ」
「そうだよレイ。もう暗いし、お母さん達心配するよ!」
「だめ。あのキーホルダーだけは、あれだけは…どうしてもなくしたままにしておけない」
すると、そんなレイにため息をつき、頭をがしがしと掻いた後、イゥは言った。
「俺も一緒に探しに行ってやる」
「いいよ。エイもいるし、イゥ兄はエイと一緒に先に帰ってて」
「は?手伝うって言ってんだろ?」
「うん、でもエイ暗いとこ苦手だし。な、エイ?」
「ううん、イゥ兄もレイもいるなら大丈夫っ!」
強がっているが、少し震えているエイを横目に見た後、イゥは再び頭を掻いた。
「分かった。じゃあエイを送り届けた後、お前のキーホルダー探しのために戻って来てやる。これならいいだろ」
イゥがそう言って、レイの方を見ながらエイの頭にポンッと手を乗せると、エイは安堵した様な表情に変わった。
「いいって言ってるのに」
「あ?俺はお前達の兄貴分だぞ?危ない目に合わせられっかっての」
…またこれだ。イゥ兄の中では、イゥ兄が俺達の兄ちゃんで、トヴァが姉ちゃんだという考えが昔から強く根付いている。
別になんだっていいさ、イゥ兄が俺を弟だと思ってようが、友達と思ってようがどう思ってても。だけど、トヴァにだけは嫌だった。弟と思われる事も、トヴァが俺の姉だと思ってしまう事も嫌だった。二歳歳下なんだから、そう思われて当然なのかもしれない。だけど、何故か本当に嫌だったんだ。だからトヴァの事はエイみたいに "トヴァ姉" と呼んでいない。
「まぁ、何でもいいけど。じゃあ俺行くから」
「あっ、オイ!ったく!俺が見つけ易い所にいろよ!」
レイは返事もせずに駆けていく。三人で遊んでいた場所へ着き、四つん這いになって地面に目を凝らしてキーホルダーを探す。懐中電灯など持っていない為、夜空に瞬く星の僅かな光と月明かりだけが頼りだったが、意外と早くにそれは見つかった。
「あった、良かったぁ」
しゃがみ込んでそのキーホルダーをじっと見つめる。このキーホルダーを付けていれば、何日トヴァに会えなかったとしても、トヴァを傍に感じられる気がする。だから毎日持ち歩いていたのだが、流石にそろそろトヴァ本人に会いたい。
レイは、来た道を右に曲がった。そのまま真っ直ぐ行けば、トヴァの家がある。辺りは暗いけれど、時間的には遅いわけではない。イゥが戻って来るまでまだ時間があると考えたレイは、トヴァの家へ向かった。
何度見ても圧巻されるその豪邸。トヴァの部屋の電気は点いている。レイはチャイムを鳴らすのではなく、そこからトヴァを呼んで驚かせようと考えた。
そして、息を吸い込もうとしたその時… …
ガシャンッ!!
何かが割れるような音と、女性の怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。
「何なのよあの人っ!!それなら私はどうなるの!?この子を私に押し付けて、あの人だけが自由になろうっていうの!!?」
「奥様落ち着いて下さいっ!」
「もう我慢の限界よっ!!あの人とはやっていけないわ!あの人に似ているこの子とも!!」
すると、突然ドアが開かれ、中から出てくる二人の人影。レイは咄嗟に身を隠した。しかし、その人影が誰なのかを理解した瞬間、レイは飛び出しそうになってしまった。
「この顔!あの憎たらしい男を思い出させるわ!!何よその目!貴方まで私を馬鹿にするの!?トヴァ!!!」
その細い腕を掴まれ、思い切り地面に転がされたのはトヴァだったのだ。
「……」
「何か言ったらどうなのよ!!」
「奥様っ!もうこれ以上は!お嬢様に罪はないのですから…」
「罪がない?この子の罪はその憎たらしい顔と、気味の悪い力を持って生まれてきた事よ!!」
「奥様っ!」
トヴァが憎たらしい顔をしてる?
そんな事ない、絶対にない。
トヴァはすっごく綺麗な顔をしてる。僕だって初めてトヴァを見た時、ガン見し過ぎてイゥ兄に頭を小突かれるまで言葉が出なかったんだ。でも、トヴァが美人っていう理由だけで、トヴァが好きなんじゃない。トヴァの優しさや強さを良く知ってるから、僕はトヴァが大好きなんだ。
…でも、気味の悪い力ってなんだ?
レイはトヴァの元へ行こうか迷ったが、すぐに男性の使用人達にトヴァの母親が抑えられているのを見て、ぐっと堪えた。所詮レイのような子供が出て行ったところで、なのだ。
けれど、どうしても我慢出来ないレイが足を踏み出そうとした時、トヴァの言葉がそれを止めた。
「…母さん、私の歳、覚えていますか?」
「...なあに、突然」
「もうすぐ十六歳になります」
「......あぁ、学園のこと」
「はい」
魔人や魔獣は魔力を有する。人間の中にも、多からず少なからず、魔力持ちは存在するが、基本人間という種族は魔力を扱う事に長けておらず、魔力を持っていたとしても、微量。
主な魔力属性は、【火】・【水】・【土】・【風】の四つだが、【光】・【闇】の属性を持つ者も少なからず存在する。
基本、魔力保有者はどの属性も扱う事が可能だが、やはり向き不向きもあり、火系統の魔法を得意とする者は、水系統の魔法を上手く扱えないといったケースもある。
この国の法では、魔獣を除き、満十六歳の魔力を有する者は皆必ず、二年間、ドラッヘ大陸の国境に位置する【ドラッヘ魔術学園】にて、魔法について学ばなければならない。
「はい。二年間学園生活を送った後、すぐに仕事に就くつもりです」
「......」
「此方に戻って来る事はないと思います。だからと言って、入学までのあと半年程、母さんに我慢をしてもらいたくはないので、入学までの期間も、社会勉強も兼ねて家を出ようと思っています。お許しを戴けますか」
トヴァのその言葉に、その場はシンと、静まり返った。
…が、その静寂を破ったのはトヴァの母親だった。
「ふふ、貴方は利口で助かるわ。貴方は昔からそうね、トヴァ」
トヴァの母親はそう言って笑うと、トヴァの頭を撫でた後、先程とは打って変わり、機嫌良さそうに家の中へ戻っていった。使用人達はそんなトヴァを見てみないふり。トヴァの母親が見限ったのなら、自分達にとっても、もう用は無し。楯突こうものなら仕事がなくなる。使用人達も必死なのだ。
しかし、一人だけ異質な存在がいた。
使用人達がぞろぞろと家の中へ戻っていった後、今度こそとレイがトヴァに駆け寄ろうとした時、その人物はレイより早くトヴァの元へ舞い降りた。
「トヴァ!」
「ん、あ。来てくれたの?カエ」
トヴァが "カエ" と呼ぶその少年は、身長からしてレイよりだいぶ歳下に見える。何せ辺りが暗いため、少年の顔はよく見えない。
「...人間め」
レイはこの、少年の言葉に首を傾げた。だって、あの少年も人間だ。
「大丈夫だよ、カエ。…でもあの約束、だいぶ早まりそうだね」
約束―――?
「だろうな、こんな所、いる価値ねえよ。早く行こうぜ」
「あはは、今すぐには無理だって。準備してからじゃないと」
「何でもいいけど早く…、っ!誰だ!!」
しまった!気付かれた!!
何故気付かれたのか分からないが、隠れたままでいる必要もないので、レイは茂みから出て二人の元へ歩み寄った。
少年が、トヴァを守るようにトヴァの前へ立つ。
「レイ…!?」
「...うん」
予想外過ぎる人物の登場に、トヴァは目を見開いたまま驚きを隠せないようだった。
「レイ、どうした?」
トヴァは少年の肩をポンッと叩いてその横を通ると、レイの前まで来て頭を撫でた。
「ごめんっ、トヴァ!僕…っ!」
「…見ちゃった?」
レイは黙って頷いた。
「ん、そっか。嫌なもの見せて、ごめん」
そう言うと、トヴァは優しくレイを抱き締めた。途端、レイの涙腺は緩み、涙が溢れてくる。少年は、そんな様子を至極不機嫌そうに見つめていて。
暫くすると落ち着いたのか、レイの涙は止まり、鼻をすする程度になった。すると、少年は片腕をトヴァの首へ回し、嫌悪感MAXに言う。月明かりに照らされた短いアイスブルーの髪に銀色の瞳を持つ少年。
何より目を惹いたのは、髪と同じ色をした頭にある猫耳と尻尾。
「誰だよこの泣き虫、トヴァの何?」
「な、泣き…っ!?」
反論出来ないレイは、顔を赤くして俯く。
「この子はレイ。カエにも話した事あるでしょ?」
それを聞くと少年は体勢はそのままに、レイの顔をよりジロジロと見つめた。
「へー、こいつが。…あ、そうだ。お前さ、もうトヴァに近付かないでくんない?」
「カエ!!」
「なーんも役に立ってないみたいだし」
そう言ってニッコリと笑う少年に、レイは口を開けたまま放心状態だ。
「レイに変な事言わない!!」
「本当の事じゃん」
「……カエ」
「怒んなよ。じゃあなトヴァ、また明日。待ってる」
そう言うと、カエルムは高くジャンプして木から木を飛び移りながら去っていった。レイは、カエルムの身体能力にまたもや放心状態。
人間ってあんな事できるんだっけ?しかも恐らく自分より歳下。
「…レイ、もう暗い。帰りな、送っていくから」
「あ…、ううん。大丈夫だよ、イゥ兄が迎えに来るんだ」
「イゥ…?」
「うん。今日僕達遊んでたんだけど、トヴァから貰ったコレ、落としちゃったみたいでさ。探しに戻って来たんだ」
そう言ってトヴァにキーホルダーを見せれば、トヴァは柔らかく微笑んだ。
「それ、まだ持っててくれたんだ。レイは本当に優しいね」
今の暗闇に慣れた状態でならば見える。そう言ってレイの頭を撫でるトヴァの腕にある幾つもの傷や痣が。
「…ごめん、トヴァ」
「ん?」
「守れなくて…っ、僕、弱くてごめんっ!」
「レイは弱くなんかないよ」
「…ねぇ、トヴァ。トヴァ何処かに行っちゃうんでしょ?」
「…」
「行かないで!トヴァ!!お願いだよ!!」
トヴァの服を掴んで必死に願うが、トヴァから肯定の返事は返ってこず、変わりにこう返ってきた。
「レイ。レイはこれから素敵な人達に沢山出会う。そして、人間関係の輪を大きく広げていくんだ。レイはそれが出来る人、レイの魅力にみんな集まってくる。だからね、レイ。忘れていいんだよ、私の事。いつかレイの作る大きな輪の中に、私みたいなのは要らない」
そのトヴァの言葉に、レイは目を見開き、驚きとショックを隠せない様子だ。
「レイはもう、私なんかいなくても大丈夫。レイは強くて優しい男の子だからね。
だからね、レイ、
ばいばい」
***
トヴァの言葉がショック過ぎて、辛過ぎて、苦し過ぎて、僕はトヴァが俺の頭を撫でてから家に入るまでの間、何も出来ずその場にへたり込んだままだった。
そしてトヴァは最後に言った。
「誰にも絶対に言わないでね。イゥにもエイにも、お父さん、お母さん、近所の人達、絶対に」
暫くして、森の中を歩いているとイゥ兄が息を切らして此方へ駆けてきた。
「おい、レイ!!何処行ってたんだ!?見つけやすい所にいろって言っ――――… …
レイ?お前…」
「何?」
「…泣いたのか?」
「……」
「…そんなに怖かったか。ごめんな、見つけるの遅くなってよ」
「…ぃょ」
トヴァがいなくなるのが、会えなくなるのがすごく怖いよ。
「…レイ?」
「…何でもない。帰ろう、イゥ兄」
「お、おう…」
***
次の日、僕はすぐにトヴァの家へ向かった。本当は起きてすぐに向かいたかったけれど、早朝なんて流石に迷惑かもしれない。
昨日の夜は、あの出来事が何回も頭の中で鮮明にリピートされて全然眠れなかった。だからかな、一度朝早くに起きたのだけど、二度寝してしまったらしく今に至る。
僕は走っていた。
トヴァは絶対にいなくなるつもりだ。
あのカエルムとか言う少年と共に。
… …嫌だ。
本当は分かってた。気付いていた。
僕は初めて会った時から、トヴァに一目惚れしてた事。だから友達とも弟とも思われたくない。その理由を心の何処かでは理解していたんだろう。でもトヴァより二つも歳下の僕なんて、何をしても何を言っても、やっぱり頼りなく見えてしまう。
…僕がもっと頼れる男で、強かったなら、トヴァを守れるし、トヴァに釣り合ったのに。今のところ、それに当てはまる人物はイゥ兄なんだ。イゥ兄ならトヴァをとめる事が出来るかもしれない。でもトヴァと "誰にも言わない" って約束したんだ。
「行かないでっ、トヴァ!」
***
「ねぇ、お爺様?どうして私には名前が二つあるの?」
「それはお前が高貴な者だという証だ。今は分からずとも、お前が大きくなったら分かるはずだ」
「ふーん…。じゃあお父さんとお母さんにもあるの?」
「欲深き者には与えてはいけないのだよ」
「?お爺様の言ってること、難しくて分かりません…」
「はっはっ、いずれ分かるさ。それよりもお前は元気に健康に育っておくれ」
――――… …
「…ヴァ…、トヴァ!」
「…っ!」
「そろそろ起きろ、脚が限界」
「あ、ごめん」
胡座をかいたカエルムに頭を預けて眠っていたトヴァは、軽く目を擦った後、起き上がって背伸びをした。
「お前、寝てる時、眉間に皺寄ってたぞ」
「…あ、ほんと?」
カエルムが自分の眉間を指差してそう言えば、トヴァは指で自分の眉間に触れて言った。
「夢の中でお爺様から昔聞いた意味の分からない話をされてたからかな」
「何だそれ」
ケラケラと笑うカエルムに、自分の名前が二つあるのだということを話せば、カエルムは興味津々な様子でトヴァの二つ目の名前を聞いてきた。
「で?何ていう名前なんだよ?」
「…凄く長いの。
確か―――…、
"トヴァ・イシュッタ・クレヴァス・ソル" 」
「…は?何だそれ、変な名前だな」
「ね。かわった名前だよね」
***
私は此処に居てはいけないのだと、
存在してはいけないのだと、
小さな頃からずっと感じていた。
表向きは仲睦まじい鴛鴦夫婦である私の父と母。大企業の社長である両親は、越してきたこの町ピリザの人達だけでなく、世間一般の評判も良い。
父は母と娘の私を心から愛し、母も同じように父と私を愛している。それが周りからのイメージ。
…けれど、実際は私が小さな頃から真逆だった。
それは、私が持っていた不思議な力の所為でもあった。私の父方の祖母も私と同じ力を持っていたらしい。
"本来、人と人型でない魔獣が対等に会話出来る事など、絶対にありえない。人型を成せる魔獣【魔人】以外は——"
昔から、人間は魔人を、魔人は人間を、お互い見下しながらもなんとなく上手く共存してこられている。
神話を信じていない人も、こと種族の優劣においては、神話を引っ張り出してくるのだ。神にも均しい神獣である竜に愛されたのは、人間であって魔人ではないのだと。
即ち、人間は魔人より上の存在。
それこそ盛大な勘違いというものだ。
もし、神話が本当であるならば、竜が愛したのはその竜が【愛した青年】であって、人間という種族ではないのだと。
竜が愛した青年が、偶々人間という種族であっただけで、仮に青年が魔人であったとしても、きっと竜は彼を愛したであろうと。
まぁ、分からないが...。
自分より格下の種族、それも人型すら成せない魔獣と同じ言語を話せるなど、会話ができるなど、嘘であれ真実であれ公言すべきではない。魔獣と会話が可能な人間など、存在しない。魔獣と会話をするには、魔獣が魔人化するしかない。
そんな世界の常識とも言えるものを覆す力を持って生まれたのがお前だと、何度も祖父と祖母に言われた。
その力は神の力、奇跡の力なのだと。
魔獣と人が会話出来るとなると、神竜の加護を自称有する人間という種族が、魔人や魔獣と同等であると公言するようなものだ。それ以前に、会話など出来るわけがない。世論に反し、指示を失うわけにはいかない。父と母は私を軽蔑した目で見るようになっていった。
それでもよかった。私は一人ではなかったから。祖父と祖母もいたし、私の中でかけがえのない存在となり始めていた人達もいたから。しかし、唯一の私の頼りであった祖父と祖母は亡くなってしまい、大切な存在となりつつあった人達とも、とある事情により会えなくなってしまった。
…もう、全てがどうでもよくなった。
何にも期待などしない。
人は一人で生きていくものだ。
他人など、信じても裏切られるだけ。
そんな私の考えを変えてくれたのが、幼なじみのイゥだった。
イゥといれば、自然と心が安らいだ。
本当に心から笑えた。楽しいと思えた。
…そしてもう一人。
***
『いつもここで何してる』
イゥの妹が白怒の日の犠牲者となってしまう一カ月か、それより少し前。
一人、ピリザ農場の奥、木の上で寝ていたトヴァに、声を掛けてきたのは、澄み切った空すら負ける程の毛色、銀色の双眼、そしてくるりと外側に少しカールした耳や、すらっと伸びたふさふさの尾先に深海の様なダークブルーの炎を宿す、猫型の魔獣。左側の目下から瞼の少し上辺りまで、何かで切り付けられたような傷跡のあるその青い魔獣は、警戒心MAXで臨戦態勢をとっており、トヴァに殺気を飛ばし睨みつけていた。
「… …」
『ハッ、分かんねーよな!人型でない魔獣言葉なんて』
魔獣は、木の上から此方を見つめるトヴァに敵意を向け続けていた。
「ん。ごめんね」
『……』
トヴァはそう言って微笑むと、座っていた木の枝から飛び降りて、ピリザ農場の外へ歩き出した。その時の微笑んだトヴァの表情が、酷く儚げに感じて、魔獣は何故か胸の奥が締め付けられるような感覚に陥った。
『…おい!』
トヴァを引き留める為に声を掛ければ、トヴァは足を止め、振り返って魔獣を見る。
『…俺の言葉…、分かんの?人型じゃないのに』
「ううん、分からない」
『...…』
"...分かってんじゃん"と内心突っ込む魔獣に、トヴァは再び微笑むと、また歩き出そうとした。
『…何で毎日、こんな奥まで入ってくんだよ』
「……静かな所に、いたかったから。でも、もう来ないよ」
トヴァは、穏やかな表情でそう言った。
" 静かな所 "?
『……人間、何?名前』
トヴァの深い悲しみや孤独の波動にやっと気付いた。しかし、だからといって、先程まで殺気を向けていた相手に何と言っていいか分からなかった。…かと言って、何も話さなかったら行ってしまうだろう。だから魔獣は咄嗟に名前を聞いた。
「トヴァ」
トヴァの名前を反芻していると、今度はトヴァが魔獣に同じ質問をした。
『ねーよ、あるわけねーだろ』
トヴァは、そう言って俯いた魔獣を見つめた後、空を見上げた。
「カエルム」
『…は?』
「…普通の青じゃなくて、綺麗な碧、高い空。今日みたいな」
突然何を言い出すのだと、魔獣は眉間に皺を寄せた。
「ピッタリだと思う」
『だから何言って…』
「じゃあね、"カエルム"」
『……!!』
この時、理解した。
トヴァは俺のことを"カエルム"と呼んだのだと。遠ざかって行くトヴァの後ろ姿を、俺は暫く見つめていた。その時、唐突に頭を過ぎったのは、"もうアイツに会えないかもしれない"という不安だった。
…会いたいっ、もう一度!
俺は居ても立っても居られなくなって、すぐにトヴァを追いかけた。
そして、追いかけた先で見たものは、トヴァの家と思われる立派な家の前で、トヴァが人間の女に頬を引っ叩かれるというものだった。その勢いのあまり倒れ込んだトヴァは無表情。トヴァはそのまま座り直すと、額を地に付け、「すみません」と謝罪した。トヴァは謝っているというのに、まだ満足していないのか、女はトヴァのことを蹴ろうとした。それを沢山の人間に止められる。女や沢山の人間達が家の中へ入った後、トヴァはふらりと立ち上がると、歩いて家の中へ入って行った。
…アイツはあの女に何かしたのか?
トヴァは言った通り、農場に来なくなった。
俺は今迄こうなる事を望んでいたはずなのに、すっきりしない。アイツが気になって仕方なかった。
…だから、俺は夜にトヴァの家へ通うようになった。
そうして分かった事。トヴァは毎晩のようにあの女から暴力を受けている。見ているこっちがイライラしてくる程の暴力なのに、アイツはやり返す事もしなければ、言い返す事もしない。
けど、今夜は違った。
一方的とも言える暴力と罵声を一頻り受けた後、アイツはいつも家の中へ入って行くのに、今日は森の方へ歩いて行った。俺は気付かれないように、トヴァの後をつけた。
トヴァはある程度奥までくると、一本の木に背中を預け、ズルズルと座り込む。星空を見つめるトヴァを、俺は見つめた。そして、トヴァが呟いた言葉に俺はフリーズしてしまった。
「このまま、消えちゃえたらな…」
その言葉を聞いた瞬間、足が勝手にトヴァの前まで動いた。
トヴァは、いきなり自分の前に現れた俺に目を見開いて固まっている。
「な…んで、ここにキミが…?」
『…カエルムだ』
「…え?」
『俺は"キミ"じゃないね。"カエルム"なんだろ』
魔獣はそう言うと、未だ驚いて硬直しているトヴァを真剣に見つめ、再び口を開く。
『お前、消えたいのか?』
「……ん、そう。消えたい。私がいると両親に迷惑が掛かる」
『…あの、お前に暴力ふるってたのは母親なのか?』
「それも見ちゃったのか」
『…何か、悪い事したのかよ』
「こうしてる間にもしてるよ」
トヴァの言っている意味が理解出来ず、カエルムが首を傾げれば、トヴァはあの時と同じ様に微笑んで言った。
「私が存在していること」
『……は…??』
予想外の返答に、今度はカエルムが固まった。
「私、魔人じゃないけど、魔獣と会話が出来るの。今みたいにね。でも普通、人間はこんな事出来ない」
『…だからしょうがないってか?それであんな事されて、お前、嫌じゃねーの』
「ん。あれで母さんの気が済むなら。それに、慣れたし」
こいつの瞳には、何も無かった。確かに俺と会話しているのに、視線は此方に向いているのに、俺が見えていないような深い虚無を感じた。
「…それに、私には大切な人がいる。自分の命より大切な人が一人だけいる。だから平気、アイツがいてくれれば、私はきっと、ずっとずっと大丈夫」
そう言った時のトヴァの表情は、見た事のない綺麗な笑顔で、心から笑っているんだと伝わった。けど反対に、俺の心は変にざわついた。
『…そいつは、人間なのか』
「ん。 小さい頃からずっと一緒にいるから姉弟みたいなもんかな」
―――あぁ、そんな顔もできるのか。
「…ほら、そろそろ帰りなよ。 仲間が心配するよ」
『……』
「カエルム?」
『これからも、…来いよ』
「…え?」
『だからっ、これからも今まで通り農場に来いって言ったんだよ!』
「だってカエルムは人間に入られるの嫌なんでしょ?」
『お前は特別にいいから!だから来い!いいかっ、毎日だからな!』
「毎日通ってたらイゥと遊べなくなるなあ」
初めてトヴァの口から出た"イゥ"という人名らしき単語に、カエルムはピクリと反応した。
『…そいつが、お前の大切な奴?』
「ん?ああ、そう。イゥっていう名前の男の子」
会った事なんてない。
どんな顔をした奴なのかも、どんな性格なのかも知らない。だからそんな奴に苛つく自分がわからなかった。
『…別に、来たくねぇならいいけど』
「ううん、行くよ。私はキミに… "カエ" に会いたいから」
『なっ!』
トヴァの返答と、その愛称に、カエルムは照れくさ気にそっぽを向いてしまった。加えて、トヴァは「それに、カエともっと話してみたい」と続けたところ、カエルムに「恥ずいこと言うな!」と怒鳴られてしまった。勿論、カエルムは怒鳴ったつもりはない。只の照れ隠しである。
「…あ、そろそろ戻らなきゃ。じゃあね、カエ」
トヴァは、カエルムの頭を軽く撫でると、来た道を戻って行く。
『……~っ!トヴァ!!』
そっぽを向いていた顔をトヴァの方へと向け、呼び止めた。
トヴァはカエルムの方へ振り返り、首を傾げる。
『待ってる…!!』
「!…ん、ありがとう」
そう言って笑ったトヴァの表情を、カエルムは一生忘れる事はないだろう。それは、トヴァが初めてカエルム自身に向けた笑顔だったから―――…。