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妖精の耳

 僕は腕時計を見て言った。

「長い話を今日のうちにしてくれてありがとう。気になって眠れなくならずに助かったよ」


「ううん。それはいいんだけど。ねえ、⋯⋯わたしのこと不気味じゃない?」

 カナは遠慮気味にそう聞いた。


「いや、そんなことないよ。僕のオババは神様とか見えない力にいつも感謝してたしさ」

 何年も前に亡くなった祖母の顔が浮かんだ。最期は痩せこけてギュッとしわクチャになってしまっていたけれど、優しく笑ったところばかり思い出す。カナが言った。

「やっぱり優しいよね」


 僕は首の後ろがこそばゆいような気がして、シャツの襟を軽く引っ張った。時刻はずいぶん遅くなっていた。早くプレブラに、楽器を取りに戻った方がいい。




 次の日のにはカンと太陽が照って夏のようになった。けれども昼過ぎ、少し傾きだした太陽の下にどっと分厚い雲がやって来て、この街をジャワジャワと洗いに掛かった。僕は運良く、ずぶ濡れになるのと間一髪でカフェに入り込むことができた。


 ラックから新聞を取り、コーヒーと鮭のサンドイッチを頼む。カフェの小さなステージにはフルートだけの三重奏が入っていて、窓ガラス越しに入り込む雨の唸りが通奏低音の伴奏になっていた。その隙間なく分厚いような響きは大理石で張られた床のような印象を与えた。目を閉じると巨大な神殿の中で音楽を聴いているような感じがした。


「銀行役員の汚職 警察が捜査を開始」「外相がチャーター機で到着 出迎えのセレモニー」「射撃競技の若き天才 今大会も勢いは止まず」

 今日も世界は凸凹でこぼこと回っているようだった。新しい自動車用ワックスの広告が載ったページを開くと、どこからかの視線が僕に当たってるような気がした。新聞を下げると、その視線は真正面からやって来ていた。小さな女の子が、膝で後ろ向きに椅子に上がって僕をじっと見ていた。3歳くらいかな。


「やあ」

 僕が声を掛けると、彼女は一度背もたれの向こうに引っ込んだ。父親か母親は席を外しているらしい。電話か、買い物のリストに漏れがあることを思い出したのかもしれない。僕が新聞の続きを読もうとすると、女の子の方から声を掛けてきた。

「すごい雨ね」


 外を見ると、向かいの靴屋の赤いオーニングがバシバシと白い飛沫(しぶき)を上げていた。

「そうだね。でも、すぐに止むんじゃないかな」


 女の子は少し考えてから言った。

「どうしてそう思うの?」


「そうだね⋯⋯。なんとなくだよ」

 女の子は窓から雨粒のやってくる方を見上げたが、そこには石灰岩のスープのようなうねりがチラリと見えるだけで、あとは軒と天井に景色は切り落とされていた。女の子はあきらめてまた僕の方を見た。

「なんとなくって? 妖精さんがそう言うの?」


「⋯⋯そうだね。小さな声がしたのかもしれない。全部はよく聞こえなかったけれど」

 先週の僕ならウソとして言うようなことだ。けれども今の僕には、それがウソだと決まったことのようには感じられなかった。


 ほどなく雨は止み、女の子の母親がどこからか戻ってきた。僕はカフェを出て街を歩いた。やがてさっきまで雨に洗われていて濡れた道路に、斜めから差して弾けるような陽の光が踊った。それが何処か遠くへと去って行く頃、僕は今夜の仕事場のドアを開けた。


 先に着いていたカナが言った。

「すごい雨だったわね。すぐ止むとは思ったけど」

 なんだ。今になってハッキリと聞こえるのか。

「どうしたの? わたしの顔に何かついてる?」


「いいや。耳が尖ってないな と思ってさ」

 僕は彼女の横を通り過ぎて楽屋に入った。

「え? ⋯⋯耳?」




 1日の休みを挟んで、ローテーション四軒目の店「バド・ラド」での演奏をしているときに、ステージへの殴り込み事件が起きた。ギャングの幹部のような威圧的な太り方をした男が、僕らのギグの最中にステージへ踊り出てトロンボーンを吹きまくったのだ。音の、殴り込みだ。


 面白いプレーヤーがいれば、道場破りのようにして自分の腕を見せつけてやろうという血気盛んな楽器吹きというのもたまにいる。そんな風な男に目を付けられたということは、⋯⋯僕の演奏も捨てたものじゃないということか。


 ──受けて立つからそのまま伴奏を回してくれ──僕が身振りでタカ・ロンとカナに伝えると、フロアのテーブルにいたもう一人の男がステージに登った。彼はすばしこく強靭な、港の荷捌夫(にさばきふ)のような印象だった。そして空席になっていたドラムスに取り付き、ピアノとベースの伴奏の間に中々上手く割って入ってきた。お客たちが大いに盛り上がった。


 ギャングは見た目の通りのパワープレイヤーだった。低い音でフロアをボッと揺らしておいてから、ソロの中で高音を次々にヒットした。彼の友人たちだろうか。テーブルのいくつかを占領している若い客が、手を上げてはやした。


 その見栄えの強い演奏に対して、僕は軽機関銃のような連符でリフをまくし立て、それからタップリと楽器に歌わせ、〆のロングトーンの頭で2丁拳銃のようにオクターブ音をピタリと撃ち抜いた。こんどは店にいた年嵩としかさの客たちが大きく頷きながらうなった。技巧に関しては勝ち目が出ている。


 次のコーラスに入るとギャングは頭の音をトバしてはち切れるようなブレスを取り、


 ⋯⋯その場にぶっ倒れてしまった。

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