ウォッカ・モヒート
彼女は一体何をした? セラカーントのオーナーは、この技の力を借りる為にカナを呼びに走ったのか? そんな疑問が僕の内に溢れた。
僕は勢いよく振り返ってカナに疑問をぶつけようとしたが、彼女の姿はなく、そこに立ってたのはパーシーだった。
「ニシオさん、どうかそんな怖い顔をしないでください」
彼にそう言われると、心を落ち着けないわけにはいかなかった。僕はほんの少しのユーモアを取り戻す。
「本当? 悪いね」
そう言って、両手で懸命に頬をもみほぐす仕草をした。
「オーナーが、カナをエスコートしてくれたことにお礼を渡したいそうです。何かお飲みになってください」
「じゃあウォッカ・モヒートを。とにかく頭を整理しなくちゃ サッパリとね」
僕がそういうと、有能なバーテンはカウンターへ戻って腕を振るった。エスコート? いや、バタバタと連いてきただけだ。僕の人生の枠の外からやってくる経験や刺激が、持って信じてきたリズムを乱しつつある。頭の中に、タカ・ロンが見たこともないコードで騙し絵調のコーラスを演奏する幻影が浮かび上がった。登り続ける階段で城の屋上を一周すると元の場所に戻ったり、柱と梁が捩れてくっ付いていたりするあれだ。まったく、訳が分からなくなってきてしまう。
バンドが中盤の山を迎える頃、カナが戻ってきた。オーナーと話をしていたらしい。僕は聞いた。
「その、不思議な力⋯⋯みたいなやつさ、オーナーには内緒ってこと?」
「そう。わたしはただ動物の生態にすごく詳しいピアノ奏者というだけ」
「僕もそんな風に騙されてたかったな。頭が混乱する」
カナはカウンターのパーシーと目を合わせ、何かお決まりの飲み物を身振りだけで頼んだようだった。
「あなたはもうピーティーに色々と聞いてしまったんじゃない」
「まだほとんど何も聞いていなかったさ」
「それでも、いい加減に勘繰られたくないのよ。それが間違ってれば間違ってるほど、わたしとしてもあまりいい気分ではないの。わかるでしょう?」
そうしてカナは、自らが何者であるかを語り出した。
彼女は生命を司る力の具現であり、その意思であった。力はそれぞれの種の生き物の中にあって世代をリレーされてゆき、潮の満ち引きのように長い周期で増したり減じたりするということだ。
彼女は常世に現れ、また現世にも現れる存在であった。
「トコヨとウツシヨ?」
「この世界と死後の世界よ。もっとも向こうからすれば、こちらが『裏側の世界』になるのだけれどね。鏡の両側がそれぞれ本物の世界だというイメージが分るかしら?」
「⋯⋯分かる ⋯⋯と思う」
「まあ、突然言われてもそんなところよね」
あちらにはあちらの生命の力があり、こちらの生命の力と二種類両方の清澄な流れを護るのが彼女の役目なのだそうだ。
「死後の世界を知ってるの? 記憶があるの?」
「記憶⋯⋯。確かにそれを持ってはいる。けれどね、あちらでいう『光』とか『言葉』とか『匂い』とか、こちらの世界のそれとはどれもまったく別物なの」
その記憶が現世の方では、すべてイメージだけが存在するという感覚なのだそうだ。また現世の記憶も、常世では具体的な物象記憶の形を取らない。異なる言語では、互いに音だけは聞こえても意味が結べないように。
「二つの存在を、替わりばんこに生きてるような感じ?」
カナは指をピンと指して言った。
「そうそう。その感じなの」
僕がもっとも新鮮に感じたのは、神様とか精霊だとかの存在が目の前にいると普通の人間にしか見えないことだった。見た目だけじゃない。とにかく普通の人間として生活していることだ。
「それはね、わたしは特に具現性の強い、うーん⋯⋯、『タイプ』だから。
翡翠張りの宮殿に住んでたこともあるわ。高原で栄えた石積みの文明でね? 何もかもが長い儀式だった。一日中それよ。すごく疲れるんだから」
僕はさっき見えた緑の光が現れる様子を思い出した。
「その腕輪に特別な力が?」
「そう。人間には、ただの翡翠の輪っかだけれどね」
カナは手首の腕輪を反対の手でゆっくりと回した。大切なアクセサリを愛でる、人間の女性にしか見えない。そして
「キレイなんだよなー⋯⋯」
「え?」とカナ。
「ん?」と僕。
僕は黙って考えているつもりだったのに、カナが反応を見せて驚いた。
「僕は今、何か言った?」
彼女は小さく口を開けて、見開いた瞳で僕の顔をじっと覗き込んだ。それから小さく首を振って言った。
「いいえ。気のせい。きっとなんでもない」
彼女が翡翠の腕輪から手を離すと、それはコロリと澄んだ音を鳴らした。




