古代魚の心臓
ところがその晩は、それで終わらなかった。レストランのオーナーが用事を持ち込む星の日だったのだろう。プレブラでのギグが全て終わった真夜中過ぎに、セラカーントのオーナーがカナを訪ねて来た。僕らはカナやタカ・ロンの知り合いの客たちと酒を飲みながら音楽の話をしていたが、小柄でヒゲのオーナーが目の色を変えて店に飛び込んで来て、カナにとにかく来て欲しいと喚き立てた。
何か人手の要る事態が持ち上がったのかと思って僕もセラカーントまで連いて行ったが、それは見当違いだった。そのかわりに、僕はその晩不思議なものを見ることになった。店に向かって小走りしてる間、カナの腕輪がカラカラと鳴った。
セラカーントには昨日と同じくらいの客が入っていた。こちらの今日のギグの時間は遅く、まだ一回が残っている。楽屋に人の気配があった。
誰もいないテーブル席の水槽に、あり合わせの暗い色の布が掛かっていた。テーブルの上には、様々なボトル入りの薬剤が入った箱が置かれていて、その一角だけが見るからに営業中止、トラブルの最中という様相だった。ヒゲのオーナーはまだ取り乱しているようだったが、カナに宥められて落ち着きを取り戻し、店の奥の事務所に引き上げていった。
「どうしたの? 一体何が起きてる?」
僕はカナに聞いた。
「⋯⋯ニシオいたの?」
「ずっと声を掛けながら連いて来てたじゃないか」
僕は確かにそうしてたつもりなんだけれど、どちらも酒が入っていたので確かなことは分からない。プレブラのオーナーが演奏をいたく喜んでくれて、ご馳走になったのはあの一杯に留まらなかったというわけだ。
僕は箱に入ったボトルの内の一本を手に取って表示を読んだ。それは熱帯魚用の水質調整剤のようだった。こういうのは初めて見る。
カナが水槽に掛かっていた布の端をめくった。中には銀の鱗を持った高価そうな古代魚が入っていた。泳いでなくて、ただ水の中に入っているだけだった。それは逆さになって浮いていて、ちょっと目には⋯⋯まあなんというか⋯⋯どうしても死んでしまってるように見える有様だったのだ。僕は聞いた。
「それ、大丈夫なの?」
カナは小さくため息をついて言った。
「大丈夫にするの。これから」
彼女は一度布を戻し、店の壁を落ち着きなく見回した。
「0時50分。あと10分で次のギグが始まる」
僕は自分の腕時計と店の中の張り紙とを見て言った。
「ありがとう。気が効くじゃない」
カナはタバコを取り出した。今夜は僕がすぐに火を点けた。それは彼女にしたら、ちょっとした精神集中の儀式のように作用するものらしかった。1時を5分過ぎて、サキソフォンの入ったピアノカルテットが演奏を始め、客の目がステージに集中すると、カナは静かにゆっくりとそのイリュージョンを始めた。僕は酔いの中で夢を見ているのかと思ったものだ。
布をめくると、魚がさっきと同じ状態で浮いていた。彼女は薬剤箱の中から長いスプーンを取り出すと、何も入れないままそれを魚のいる水面に近づけた。僕はそれを言おうと思ったが、言葉は口のところまで来て引っ込んだ。
スプーンを持った彼女の手の腕輪が光っている。照明の具合ではないかと見上げても、そこにスポットライトはない。
「ニシオ、ちょっとじっとしてて」
「あ、うん。ごめん」
どうやら彼女は精神の微妙な緊張状態に入ったようだった。僕は言われた通りじっとして、目立たぬように呼吸しながら様子を見守った。
不安定に明滅していた腕輪の光が強さの一点に定まり、それからカナの手とスプーンに広がり、何か上から垂らすようにして水槽の中にまで降りていった。緑色の、光のような液体か、液体のような光か、何かは分からない不思議な力だ。
そのような状態が1、2分。その間にバンドの曲の2番のファーストメロディーが終わった。やがて始まった時と逆のようにして──正確には時間にしていくらか駆け足で──光は収まっていった。
スプーンを片付けて布を戻すと、カナは体力の要る作業を終えて疲れてるみたいに、一つ長い息をついて自分を落ち着けていた。僕はタップリと黙っていてから小さな声で言った。
「⋯⋯終わった?」
「あら、居たの? ⋯⋯冗談よ」
僕は自分の前髪を息で吹き上げた。それを見てカナは言った。
「ごめんごめん、機嫌悪くならないでよ。特別に見ていいから」
彼女はそう言って、布を被った水槽の中を手振りで促した。僕は周りをちょっと気にしてから、布の端をめくって片目で中を覗き込んだ。
「すごい⋯⋯。なんだこれ」
思わず声が漏れた。なぜなら僕が、今まで魚の脈拍というものを一度も見たことがなかったからだ。
その魚の心臓が光ってる。色はさっきのイリュージョンと同じ緑色だ。肉の組織と鱗を透かして、その筋肉の袋が収縮を繰り返してる様がよく見えた。魚はまだ仰向けになっていたが、目やエラの様子から着実に生気を取り戻しつつあるのが分かった。