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病床の老ミュージシャンを訪ねる

 彼女は丁寧にタバコをもみ消して言った。

「そうね、そのままじゃあね」


 でも⋯⋯ という言葉を期待したけれど、続きはなかった。僕は彼女の身の回りの話に水を向けた。

「本当は3人なんだって? これはこれで、独特さが良くて好きだけど」


「そう。あの人たちのリズムセクションが元々のコンビで──(彼女は楽屋の方をチラリと見た)──ここへ来てからずっと3人でやってるの。ドラマーはもっと年寄りなんだけれど、ちょっと体調を崩しちゃってて」


「すぐに良くなりそうなの?」


「わかんない。この街で入院しちゃった」


「⋯⋯そう、なんだ」

 ジャズミュージシャンで健康に長生きする人間は珍しい。会ったことのない彼のことが心配になった。


「ちょうど明日会いに行くのよ。ビジネスのね、しづらい話もしなくちゃならない」


 僕は短く聞いた

「気詰まり?」


「ちがう。気の毒」


「優しいんだ。君は」


 彼女の目には、本物の心配の色が浮かんでいた。僕は同情しないわけにはいかなかった。彼女はその目の色を奥に引っ込め、明るい声を出して言った。

「カヌカワよ。最近はカナって呼ばれてるわ。あなたは?」


「ニシオ。トロンボーンと、少しばかりドラムもやる。前のバンドでピンチヒッターの出番が多くて」


 彼女は脇へ置いてあった僕の楽器ケースを見て、それからカウンターに肘を突いて頭を支え、少し考え込んだ。僕は少しばかり居座(いずわ)りの悪いような感じがして、ゆっくりと言葉を選んだ。

「うーん、その さ、見舞いの席で新メンバーの振りをしてるだけだったらいいよ? ちゃんとした人は何かのツテで探してさ、彼が良くなって、そのとき必要なら事情を話せばいいじゃない?」


 彼女は何枚かの薄い色のフィルムを重ねたような微笑みを浮かべて言った。

「ありがとう。ニシオさんて優しいのね」


「そうありたいとつとめてる」


 そんなわけで、僕は病床の老ミュージシャンを訪ねることになった。




 ベッドの上で、彼の具合は一応は落ち着いて見えた。僕は昼にここに来てから、眠った彼の顔を半時はんときほど一人で眺めている。人間が待ち合わせに遅れることも、待ち合わせの目的に関わる者が昼食の後でグッスリと眠り込んでいることもあるだろう。「神経に休息を取れ」 神様がそう言ってるのかもしれない。何かの都合で、それが変なタイミングになってしまっただけだ。僕は彼のベッドサイドから映画雑誌を拝借して、病室の椅子でそれをパラパラと眺めた。窓のカーテンが、時々日差しの中で揺れた。


 いくらか時間が経って、やがて老人は目を覚ました。彼はごそごそと、ベッドの上で身を起こそうとした。

「あ、どうか楽になさっててください。もうすぐバンドのメンバーがやってくると思いますから」


 彼はとてもゆっくりとした動作で、だが驚きを示した。

「あんたは?」


 何をどこまで説明していいものか迷った。

「ただのジャズ奏者ですよ。今日のお見舞いに付き添う約束なんです。僕の方が先に着いちゃいましたけどね」


 彼はヘッドボードに上体を起こした。僕が手伝おうとすると、それを穏やかに制した。それから窓の外に目をやり、カーテンを透かしてくる日の光が揺れるのを見た。不思議と居心地の悪い感じはしなかった。身内みうちに会いに来たときみたいに。いや、ある意味本当にそうか。音楽家は皆兄弟だ。


「君はドラムができるのかい」


「ええ。専職はトロンボーンですが」


「なら安泰だな」


 そういう彼の口調には、安心の色とほんの少しの残念さがうかがえた。


くなったら、また戻られればいい」


 僕がそう言うと、老人は優しく、そして小さく笑った。

「体の具合が戻ってもな、いかんせんもう歳だ。あんた、私のことが幾つに見える?」


 病人は老けて見えるものだ。それを大雑把に勘定して、正解を取りに行く。


「七十五。それくらいに見えます」


「あと三年で百だよ」


 老人はこともなげに言ったが、僕は驚いた。目で見えてる様子に比べれば、それは冗談にしか聴こえなかった。言葉の機微からもとても正直な気配が伺えた。彼は続けた。


「カナにはもう会ったんだね。あの子の力のせいさ。⋯⋯いや、お陰さまだ」


「どういうことです? 凄腕のお医者さんの、娘だとか?」


 そう尋ねたところで、カナが病室に入って来た。シャツとジーンズと、昨夜と同じ腕輪をしていた。腕輪は全体の服の組み合わせの中にあまり溶け込んでいなかった。


「ピーティー、具合はどう?」


 彼女は老人にそう声を掛けてから、遅れたことを丁寧に詫びた。彼女は交通事故での渋滞に巻き込まれたのだ。ピーティーと呼ばれる老人は言った。

「ああカナ。悪くない。悪くはないさ」


「ちゃんと食事はとった?」


「ああ。食べたさ。味が薄いね」


 それを聞いて、カナは優しいため息をついた。

「じゃあ、早く良くなって外で好きなものを食べるべきね」


 ピーティーは笑って言った。

「そうさな。バンドはそこの彼に任せて、たまにはゆっくり休ませてもらうさ」


 カナは僕を見た。──勝手に話をしてしまったの?──その目は言ってるようだった。僕は首を振った。ピーティーがそれを見て笑って言った。

「わたしが、押し付けるんだ。無理矢理にね」


 僕は口にすべき言葉を見つけられなかった。困ったように、カナに向かって小さく肩を(すぼ)めた。本当に、ちょっと困っていた。カナは言った。

「どうかしらね。彼にも彼の主義があるでしょう。けど優しいから、きっと押し付けられたものを簡単に断ったりもしないんじゃない?」


 まったく、(かた)や病人にしてはヤクザな人たちだ。

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