美しいピアニスト
彼女とベーシストの二人はテンポをゆったりと落とし、ある時にはベースのただ一音で緊張感の糸を部屋の端から端にピンと張るように聴かせ、またある時にはピアノの左手を石の植木鉢のように固く置いておいてから、右手で柔らかな葉を茂らせるようなアソビを取ったりした。
これ見よがしのテクニックで突き刺すようなことがなく その点では地味だが、ゆっくり聴いているほどに心の内を色付けられていくような感じのするアレンジメントだ。
例えばパッセージのスピードとか、管楽器のハイトーンとか、そういった勝ち負けのようなテクニックだけが音楽の滋養を作るのであれば、世の中にこんなにたくさんのミュージシャンはいらない。2人の演奏は、聴くものにそんなことを思い出させるような、そのような役目で地上にあることを静かな誇りにしているような響きだった。
僕は結局その日のギグが全部終わるまで、酒を飲みタバコを吸いながらカウンターに居座った。あのピアニストが客席の方に出てくるんじゃないかと思うと、どうしても腰を上げる気になれなかったからだ。そして真夜中過ぎ、その目論見は現実を引き寄せたようだった。
彼女は白いワンピースとカーディガンの姿に着替えていた。そうすると、さっきステージにいた時よりグッと歳が若く見えた。まだ酒を飲むのも早いというくらいに。ウッドベースの男の姿は見えなかった。2人がただのビジネス上のパートナーだということは見ればわかる。夫婦や血筋のバンドというのは存在も特別だし、また特別な雰囲気というものを抑えようにも周囲に投げかけ続けてしまうものなのだ。
彼女は途中にある水槽の一つか二つをそっと覗き込んでから、あとはまっすぐにバーカウンターまでやって来た。そして僕の二つ隣のスツールに腰掛けた。その身のこなしは、まだ世界が平野と川としか持っていなくて、始まりの朝の蒸気に輝いていた頃からの長い長い時間の先端に、何か特別な存在が白い鳥にでもなってチョンととまっているみたいな、そんな不思議な気分を見る者に与えた。
彼女がカーディガンのポケットからタバコの箱を取り出すと、腕に付けた二重の大きな輪がころころと鳴った。そして一本取ってそっと咥えると、火は点けないまま遠くを見るようにして動きを止めた。視線の先にはウィスキーの瓶が何本もあった。
美しい形の手指に小振りでスラリとした骨格。彼女のような女性は、一体どんな考え事をその頭の中でするものなんだろう。そのまつ毛がツッと震えたような気がして、僕はハッと思い当たった。カウンターの上の自分のライターに手を伸ばして火を点け、彼女の方に勧めた。
「どうぞ」
彼女の中にある何本もの時間の鎖の一つが、僕の方へ揺れた気がした。彼女は美しく髪を揺らし、僕の火で一服した。
「ありがとう。とっても気のつく紳士なのね」
友好的な皮肉。嫌味な並びの文字を優しく声に出すというのは、頭の回転が良い人間にしかできないことだ。その声は澄んで水量のある川を遠くから眺めるような気分にさせた。そこに太陽が当たってキラリと光るところを見てみたくなるような、つまり何か気の利いた冗談で笑わせてみたくなるような人懐こさがそこにはあった。
「いい演奏でうまい酒が飲めた。僕は街にやってきたばかりなんだけどさ、どうやら聴いているのに相性のいいバンドと店を引き当てたみたいだよ」
彼女は僕の言葉を聞き、そこから何かを推し量ろうとしているようだった。一対の瞳が遠慮なく僕を見ていた。一年のうちで決まった日の満月の光が射し込む古い神殿の特別な二つの穴、そこにピッタリと嵌る宝石で蓋をして、光を透かして見ているような気持ちにさせる、そんな不思議な眼差しだ。
「思慮深い男。そう言われない?」
「出会ったばかりの人たちにはね。そして大抵、そのあと二つに分かれるんだ。『何を考えてるか分からない』 それと、『実は何も考えてないんだろう』」
彼女は口の端を僅かに上に歪めた。
「それで、どっちの方がお友達になれるの?」
「後者かな。あるいは友人になった人間だけがそう言う」
僕がそう言うと、こんどは彼女の眉尻が下に歪んだ。
「結論を留保したがるタイプ。あなたきっと物書きに向いてるわ。そういうのでちょっと名前の売れた人に会ったことがあるのよ。そう言ってた」
僕がそれについて口を開きかけると、小さく指を上げてそれを止めた。
「『逆のタイプの作家だってきっといるさ』 ⋯⋯そんなとこじゃない?」
僕は笑った。
「ピッタリそうさ。僕が君を退屈させないためには、たくさんの工夫がいるみたいだ」