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パーシーという名の若いバーテンダー

 緑色の模様がついた大きなグラミーが、水槽の中でゆったりと向きを変えた。それが出入り口の扉に一番近い水槽だった。照明の絞られた店内には他の大きな水槽がいくつもあって、何種類もの魚の姿を見ることができた。


 こういうのは珍しい。熱帯魚の飼育は、ハイソでエキゾチックな地下の流行だった。僕は驚いた顔でキョロキョロとしながら、楽器を置いてバーカウンターのスツールに着いた。


 テーブル席の向こうにステージがあり、ピアノとドラムスが置かれていた。明かりは点いてない。静かなお客が4、5組食事をしている。厨房からは料理人が腕を振るっている気配がする。そうしたどこにでもある風景の間々に、水草の緑や流木の茶色を飲み込んだ四角いアクセントが見えるのだった。


 僕の中にはちょっとした興味と、ここで仕事の交渉をするには少し癖が強いかという値踏みのような考えとがあった。


 若いバーテンダーが出てきて、楽器のケースをチラリと見てから注文を取った。彼は確かな腕でオンザロックを作って出した。それは一口目からゆっくりゆっくりと身体に馴染んでいった。まるで僕がこれからこの街に馴染んで行こうとするのと同んなじようにして。僕は彼に話し掛けた。


「始めて来たんだけど、ずいぶんたくさんの魚がいるね」


 彼は友好的な調子で言った。

「お詳しいんですか? オーナーが集めて面倒を見ていますもので、私には詳しいところは分からないんですけど」


 ハッキリとした、それでいて優しい声だ。ハンサムな方だし、女性にはよくモテるだろう。僕は言った。

「一度ビッグバンドにいたことがあって、リーダーのトランペット吹きがそういうの好きだったんだ。引退したら上等なのを飼うんだって」


「バンドには戻られないのですか? その方が何かと安定的で具合がいいと聞きますが」


 僕はビッグバンドで年中のチャーターバス移動生活を思い出した。稼ぎは安定していたが、メンバーとぎゅう詰めになってあっちへやられこっちへやられの生活には、合う人間と合わない人間がいる。僕はそれをバーテンダーに話し、最後に付け加えた。

「だからしばらくはいいんだ。皆、気のいい連中だったけどさ」


「あちこち行けるのは羨ましくも思いますが、確かに気苦労もあるみたいですね。あなたのお話には実感がこもっています。私はパーシーと言います」


 パーシーの顔はアメリカ人やイギリス人には見えなかった。

「あだ名?」


「そう。あなたのことをお呼びする名前をください」

 どことなく変わった言い回しだった。丁寧でチャーミングだ。


「ニシオ。ずっとそう呼ばれてるよ」


「本当のお名前ではないので?」


苗字みょうじとどっちの字も入ってる。まあ、短い間かもしれないけどよろしく頼むよ。さっそくお代わりを作ってもらえるかな」


「承知しました、ニシオさん」

 そうして僕らは顔馴染みになった。


 少しすると今夜のステージの時間なのだそうだ。この店は近所の三軒とでステージ・ローテーションを組んでいると、パーシーが教えてくれた。四軒の店と四組のミュージシャンがいて、日毎にグルグルと入れ替わるのだ。一対一の契約よりも全体では兵隊の数が増えるので、トラブルのリカバリーに強いのが方式の利点だ。


 特に楽器吹きは、皆が皆几帳面で仕事熱心だとは限らない。ちゃんとした連中だけで一バンドが組めるのが、一番いいのは間違いないのだけれど。


 ステージの奥には控え室があった。濃ゆいスモークの窓が扉にあって、一応は中に明かりが点いているのが見て取れる。どんな人間が出て来て演奏をするのか。それは同業者としてもただの飲み客としても、いつだって楽しみだ。扉の向こうからやって来るものはあるとき衝撃だったり、悔しさに変わったり、偶然の懐かしさだったり、いつまでも残る謎になったりもした。やがてグラスの氷は丸く落ち着き、ステージの時間が来た。


 そのピアニストが登場した瞬間に、僕の日常は小さな破片の直撃を受けるようにして定常的な軌道を外れたのだと思う。あとはゆっくりと、だけど時間とともに着実に、元のルートを遠ざかっていくだけだ。


 演奏に出て来たのは二人だった。ウッドベースを抱えた初老の男と女性ピアニストで、もし誰かドラムが付けばピアノトリオの編成になるところだ。控え目な紺色のドレスを着たピアニストは顔立ちも演奏もそこそこに美しかった。


 しかし、そのどちらか又は両方の二つだけが僕の心を捉えたのではなく、もっとずっと理不尽で、もっとずっと不明確なものによっての強力な牽引があった。僕はなんとか隙を見つけて彼女と話をしなくてはならないと、心が勝手にそのように決まってしまったのだ。人生にはときどき、そんな不思議なことが起きる。今度がそうだった。


 客が増えて店は忙しくなってきていたが、そのちょっとした谷間を見つけて僕はパーシーに聞いた。


「ねえ、あの人たちはここに来た最初から二人だけのチームなの?」


「いいえ、4日前は3人でしたよ。理由はよく知りませんけど、突然2人での演奏になってしまって。けれど まあ、ウチではそんなに大きな音で盛り上げて欲しいわけでもないですから。なかなか上手だし、あれはあれでいいんじゃないですかね」


 なるほど。確かに多くの水槽と魚たちの空間の中にあって、彼女らの変則的なアレンジで響くスタンダードナンバーはよく合っているような気がした。

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