アベンチュリン蓄音譚
僕らの店の演奏は代わりのミュージシャンたちが埋めていてくれた。何人か仲間を呼び寄せて新しいローテーションも組み上がりつつあったので、僕らはときどき飛び入り参加するくらいでほとんど彼らに任せていた。
そこにはおもしろいミュージシャンが何人もいたし、彼らと混じってピーティー、タカ・ロンの男たちでビヨン・ジヨンに出かけていって、あの晩店にいたという客から酒を奢られたりもした。
そうしてフラフラと過ごしていると、ある晩セラカーントに電話が掛かってきて僕を指名した。ジェイキスの声がした。
「特に用事があるわけじゃないんだ」
僕は訝しんで聞いた。
「なのにわざわざ、居場所まで探して電話を?」
ジェイキスはそれを一笑に伏して続けた。
「おかげでボスも落ち着いてる。必要な話もできてる。報告したかっただけさ」
「そう。(少し考えて)良かったね」
僕はそう言った。すると彼はおかしなことを言った。
「なあ、こんど埠頭で釣りでもどうだ? お仲間が来たって構わない」
僕は面食らってから、一瞬で色々と考えたが分からずに聞いた。
「それは⋯⋯そちらの世界で何かの隠語だとか? 僕には言葉の通りにしか分からないんだけど」
「言葉の通りだが? 午前中からうちの車でピックアップする。岸壁に着いたら道具を出して、ああ貸してやるさ、海面に向かって糸を垂れる。魚が掛かったら釣り上げて、⋯⋯その場で食っちまってもいいな。そうだ。そうしよう」
僕は、そこから見えるセラカーントの水槽の魚を眺めて考えた。ジェイキスが言った。
「もしもし?」
「分かった、行こう。いつがいい?」
ジェイキスからそんな連絡があったことをカナに伝えると、彼女は呆れた。けれども意外な人間が連いてきたがったり、ならばと興味を示す者がいた。最初は疑っていたが仲間はずれは嫌だという人間がいたり、なんとなくメンバーに入っていた者もいた。
結局そうして人が集まり、ジェイキスは屋敷のワゴンバスを引っ張り出すことになった。そうしてよく晴れたある朝に、この物語の奇妙な終幕がやってくることになる。
僕とカナと、パーシーと、ピーティーとタカ・ロンと、それからジェイキスが岸壁に並んで座り、微かな潮風の中で釣り糸を垂れた。結局集まったのはその面子なのだ。カナの餌はパーシーが付けてやり、タカ・ロンが二匹の鯵を立て続けに上げてからは、横たわる退屈な平和が僕らを飲み込むばかりだった。
ワゴンの荷台に繋いだピクニックテーブルからは、ルシリーが皆の背中を眺めながらタバコを吸っている。僕は迎えのワゴンバスがやってきたときに彼女の姿を見つけ、助手席で揺られながらずっと気になっていて、ハンドルを握るジェイキスにこっそり聞いた。
「おたくのメイド、仕事で来てるの?」
「いいや? まったくのプライベートに好きでついて来たのさ」
「⋯⋯ふうん」
なんだかずっと、よくわからない女の子のままだった。
隣にいたジェイキスが、ピクリとも来ない竿をのんびりと構えながら言った。
「助かってるよ。あれからボスの様子はずいぶん落ち着いていてね、必要な話が一日のうちで長くできるようになった。遺言書が大体でき上がって、御本人も安心しておられる」
「あんたが新しい頭目なの?」
「はは、まさか。御長男と御次男がね、まあそちらにしてもずいぶん御歳なんだけど、ちょっと血生臭いことになりそうでヤバかったのさ」
彼が僕らを攫った理由がなんとなく分かる。実はあれは、なるべく無駄な争いを避けるための一番穏やかな方法だったのか⋯⋯とは思えないが、まあ知ってることと知らないこととだ。今となっては感じ方に変化がなくはない。
反対の隣にはピーティーが座っている。彼は自分で大きな氷缶を持参していたが、それは魚のためじゃなかった。彼の持っているビールの瓶は、キンキンに冷たい汗をかいていた。僕は聞いた。
「ピーティーも、心臓発作?」
「いいや、胸に三十二口径を喰らったのさ」
それを聞いていたジェイキスが口笛を吹いて言った。
「いい腕のやつがいるな。どこの街だ?」
ピーティーはビールを煽って答えた。
「いいや、殴った方が近い距離だったさ。ずっと北の街の狡っ辛いカジノで物騒な人違いが起きたんだ」
僕は聞いた。
「その時チップは儲かってた?」
「違うよ、仕事さシゴト」
ジェイキスが急に声を上げた。
「あ! ⋯⋯あぁ⋯⋯」
「バレた?」
「うっせーや」
その巨大絵画的な退屈と平和が続いた後で、晴れた空の下を急に妙な風が吹いた。海と陸とが互いに一呼吸するような空気の畝りだ。それが通り過ぎたあとの静けさの中で、カナが竿を手放して立ち上がった。隣のパーシーが聞いた。
「どうしました?」
しかしその声は彼女によく届いていないようで、その目は海の先をじっと見つめたままだった。皆が彼女の様子を見た。何か不思議な力がそこに集まるのが見て取れた。
重力がおかしくなったように、カナの髪がフワフワと少し持ち上がった。皆がそれに目を奪われている隙に、もっと巨大な変化の始まりの部分は通り過ぎてしまった。海の上、ほんの二、三十メートル先に、半透明の船が現れていた。それはこちらに近づいてくる。
木材と分厚い枝葉の塊でできたような船だ。薄く長い布のようなものが何本も巻かれ、それはカナの髪と同じように重力に逆らって揺れている。
船全体から薄緑色の光が漂うように放たれていて、それは街を浸す青色を覆い、街の向こうまでギュンと広がっていった。船は透明性を失って実体となり、やがてドンと音をさせて岸壁に接した。見えないロープで舫われるようにして、僕たちの目の前に浮かんだ。
カナがおどけて大声で独り言を言うみたいに言った。
「あーぁ。向こうへ行かなきゃならなくなったみたい」
僕らのうち誰もが、疑問を発することも抗議をすることもできなかった。ただただ目の前の光景に圧倒された。僕はなんとか彼女の方に歩み出たが、やはり言葉は失われたままだった。
「見て」
カナが腕輪をした手を僕の目の前に差し出した。その中には幾筋かの、金銀の光があった。
「キレイでしょ」
僕は頷き、そしてやっとで間抜けな質問を繰り出した。
「行っちゃうの? 今夜くらいゆっくりしていけばいいのに」
カナは船を見て、寂しそうに笑いながら言った。
「そういうの効く感じじゃないのよ。分かるでしょ。わたしだってこんな急で寂しいけどね」
カナの足先がフッと地面を離れた。そして何か大きな力に抱き上げられるようにして、船の舳先に立った。周りの男たちが口々に何か言い、ルシリーも驚きの声を上げたような気がする。けれども僕に、その意味までは聞こえなかった。
カナは笑顔を残し、岸を離れていくのと同時に自らも空気の色へ変わっていった。船もそうだ。そして街を照らした薄緑色の光がまた収縮して戻っていき、やがてさっきまでと同じ、なんてことはない微風の海辺の景色に戻った。ただカナだけがいなくなって、皆はあっけに取られていた。
これがこの物語の、あまりにも突然な終幕の顛末だ。
僕はその後も割に長い間街にいてトロンボーンを吹いた。やがて冬が過ぎ、春の陽気がチラチラと顔を出す頃にピーティーがポックリと逝ってしまった。葬儀の最後には、彼の友人の皆が墓地で楽器を持ち、天に向かってFの音を長く長く伸ばした。それを時期的なきっかけにして、僕は街を離れた。
月日が経っても、僕は夜行列車に揺れられて夜中に目を覚ましたりした時にあの街のことを思い出した。ピーティーや皆の音と声と顔。それからカナの腕輪の中で最後に光った美しい粒子の筋のような光。
ピーティーが生まれ変わってまた楽器と酒を手にするのがいつこのことになるかは分からないが──手に取るだろうさ──、カナがこちら側に戻ってくるのがいつのことなのか、場所はどこなのか、僕にはそっちの方がもっと分からいことのように感じられた。
もしそれが意外と早くて近いものだったら、もし僕がこの世界でまたカナに会えたなら、軽く手を挙げて挨拶してから聞いてみようと思うことがある。そしてもし、カナに会うのが僕ではなくてあなたの方なら、これを聞いてみてもらえないだろうか。
「ねえ、今もスウィングしてるの?」
彼女はどんな風に答えるんだろう。笑ってはぐらかすだけかもしれないけど。