女殺し屋の距離感
好奇心と混乱とで僕は言った。
「ねえ、だれか見張ってる? 聞き耳を立ててる?」
「あなたはそんなに人気者じゃないわ」
「⋯⋯じゃ何か欲しいものがあったら食べる?」
「はぁ!?」
彼女は大きな声を出した。けっこう長い間、おっかない顔で僕を睨んでいた。額が磨り減りそうだ。それから彼女は言った。
「一体何考えてるの」
「ときどきそんな風に言われるんだ」
僕は食事に取り掛かった。スープの玉葱をナイフで割ると、食欲をズンズンと蹴り立てるような香りが一層強く広がった。バケットを一つ取ってバターを塗ると、チャッ チャッ という小気味好い麦の音がした。ソーセージはフォークの先に一瞬だけ抵抗してから、プツリと美味そうな脂を垂らした。僕は意識してゆっくりとした動作をし、一口食べるごとに頷いたり感嘆したりした。僕は言った。
「シェフはどこか遠くの国の人かな。ドレッシング、手作りだろう。オリーブオイルの使い方がね、香りがすごい広がる。上手いんだろうね」
メイドは返事をしない。
「ねえ、見張りも何もいないんだろ?」
彼女はキッチンに行き、苛立った金属の音をさせて煙草に火を点けた。僕はベーコンとサラダとバケットを使ってサンドイッチを作り、皿の一つを空けて載せ、デザート用のフォークと一緒に載せて、それをキッチンに持っていってメイドの横に置いた。
「⋯⋯名前は?」
返事はない。
「僕はニシオだ」
それだけ言うと僕は戻って食事をした。コーヒーのランプに火を点けるためライターを出すと、タバコの残りが少ないことに気づいた。その中から一本吸って、コーヒーが沸くのを待った。
部屋を見回して、さしあたりどうやって時間を潰したらいいのか考えた。久しぶりに楽器の基礎をみっちりとやってもいいと思い当たって、僕はキッチンのメイドに聞いた。
「この部屋って楽器鳴らしても大丈夫? 両隣と上の部屋は?」
「周りせんぶ空っぽよ。好きにしたら」
彼女は何かを口に詰めた声で言った。僕は内心でほくそ笑んだ。
その殺し屋のようなメイドが出ていくと、僕はまた窓の外を眺めた。太陽が移動して、その陰影の位置が微妙に変わる。中ぐらいの塊の雲がいくつか先を急いでいるだけで、ほとんど青空のいい天気だった。僕の方はとりあえず、何処にいくこともできないし何処に行くわけにも行かない。楽器を出して管を挿し、それをソファの上に置いてマウスピースを温めた。分厚くて小さい手持ちベルのような部品に息を通して、ゆっくりとその温度を上げる。
テンポは腕時計の120しかない。まあ、それに60と240だ。窓際に引っ掛けるようにそれを置いて、僕はロングトーンを順番に鳴らしていった。左耳に戻ってくる音だけが、すこしだけホワリと柔らかいような感じがする。部屋の造りと家具と、それから僕の立ってる場所のせいだ。こんなにゆっくりと自分の音を聴いているというのは久しぶりのことかもしれない。たっぷりと時間を掛け、僕は基礎の基礎にあたる部分の練習を進めていった。きっと無意識に、考えても仕方のないことを頭から追い出しておくためのことをしてたのだと思う。
昼食が運ばれてきた時には、僕は基礎練習曲を吹いていた。また朝と同じ神経質なノックの音がして、例の殺し屋調のメイドが入ってくる。様子は朝とあまり変わらない。僕は彼女に聞いた。
「うるさくない? これ」
「別に、どうということはないわ」
彼女は素っ気なく言った。そして食事を朝と同じようにテーブルに並べた。オイルベースのパスタと、美しく盛り付けられたタラのムニエルだった。
「ワイン、飲むなら取ってくるけど」
「ありがとう。でも、いいよ」
僕は旅行でホテルに泊まりに来てるわけじゃないのだ。僕は食事を始めた。メイドはまたテーブルの横に立っていたが、今度は腹を空かせてる様子はなかった。二度も施しを受けたとあっては、殺し屋の矜持に障るのかもしれない。僕は言った。
「ねえ、そっちのソファにでも座っていたら?」
彼女は静かでフラットな声を出して言った。
「わたしが目障りってこと」
僕は言った。
「いや、こんな金持ちみたいな感じで食事をするのに僕の方が慣れてないだけだよ」
彼女は食事を運ぶワゴンからまた大きな灰皿を出して、窓のそばのソファセットに座ってタバコに火を点けた。時々眉が詰まって、服の袖を指先で擦ったりした。
僕が彼女の調子を乱してることは確かだったが、かといってどうすることが適切とも思えなかった。アイスクリームを買ってあげるわけにも、ドライブに連れ出すわけにもいかない。