夜景の中のヨット
05
2018年8月7日。
サン・オリヴェイエ島奪還作戦の後、アキツィア空軍第5航空師団はフューリー空軍基地には戻らなかった。
理由として、フューリー基地は奇襲を受ける可能性があったことに加えて、デウス軍もこの段になって本気になり始めたことがある。
アキツィア北部に、精強なデウス国防空軍の航空隊が参集しているという情報が入っていた。
敵の万一の動きに備え、デウス軍の占領地に近い南部の港町ソリスの民間の飛行場を間借りして駐留していたのだ。
港町ソリス郊外。レクトン飛行場、仮設宿舎。
エスメロード・“ニアラス”・ライトナー一等空尉は、鏡の前でおめかしをしていた。
「なんだか、おめかしのしかたを忘れてるな…」
先ほどから何度もマスカラを洗い流しては塗り直している。
開戦から2ヶ月しか経っていないにも関わらず、女であることを失念しつつあるらしい。
「こんなもんかな?」
鏡に自分を映してみる。
(まあ、我ながら美人と言っていいわよね)
目の前の自分の虚像を見て、少し誇らしくなる。
金髪に近い栗色の髪は、手入れを怠っていないこともあって流れるようだ。
顔は小顔で、卵形をしていて整っていると思う。
体つきも、貴族の嗜みとしてスポーツは欠かさないし、パイロットは筋肉が資本だから(Gには筋肉の力で耐える)トレーニングは絶えず行っている。鍛えられ、引き締まっている。
なにかの役に立つだろうと家から持ってきたイブニングドレスも、イケていると思える。
「にしても、ヨットで遊覧とはねえ」
海自の護衛艦“タンホイザー”艦長である、バーナード・カークランド二等海佐からのお誘いだった。
まあ、特に断る理由もなかったので、受けることとしたのだ。
(ジョージとは、まだ恋人ってわけじゃないしね…)
エスメロードはそんなことを思う。
ジョージとは、相変わらずパイロットとしていいコンビであるものの、先だってのデート以来気まずくなっている。
ジョージと唇を重ねたとき、エスメロードが不意に泣き出してしまったことで、微妙に溝ができてしまったのだ。
(その辺も含めて気晴らしになるかも知れないしね)
そんなことを思いながら、エスメロードはハンドバッグに必要な物を押し込み、部屋を後にするのだった。
「わあ…これはすごいわ…」
ヨットのデッキ上。エスメロードは、ヨットの外に拡がる夜景に目を奪われる。
「ありがたいことだね。灯火管制が敷かれてたら真っ暗だったろう」
バーナードが感慨深げに言う。
いつもの軍服姿ではなく、オーダーメイドのスーツをノータイで着ている。
(近くで見るとけっこうイケメンね)
いつもは真面目がとりえの海自の軍人というイメージだが、こうしてみるとなかなか男前だ。
暗いブロンドのやや長めの髪は、無骨さを嫌う海軍の伝統に従っているのだろう。
めのうを思わせる深い青の眼は、暗いところだとエキゾチックに映る。
さすが名門貴族の息子。
身だしなみやルックスの維持にも気を遣うよう、しつけられているのだろう。
船の外にはソリスの街の明かりが、まるで無数の宝石のように見える。
(まあ、灯火管制なんかしても今さらだろうしなあ)
今はGPSで爆撃を行う時代だ。下が明るかろうと暗かろうと大した違いはない。
むしろ、味方が下の地形がわからず、誤爆してしまうこともあり得る。
灯火管制を行うかは微妙な問題だが、今回は必要なしと判断されたのだろう。
「シャンパンでございます」
「ありがとう」
初老のソムリエが、シャンパングラスを盆にのせて歩いてくる。
それなりに波が高い中でも、その足取りに危なげはない。
(けっこう揺れているのに、器用なものね)
グラスを受け取りながら、さすがはプロだとエスメロードは思う。
「乾杯」
「乾杯」
そう言って、軽くグラスをぶつけ合う。
貴族らしく、二人ともまず色を目で楽しみ、香りを堪能して、それから口をつける。
「あら…いいシャンパンね」
「ヴィンテージだけど、君は飲み慣れてるだろう?」
一本いくらするのかを想像して、エスメロードはグラスとにらめっこになった。
(確かに、実家にいたころは飲み慣れてたけど…)
前世の記憶が蘇って以来、すっかり金銭感覚が庶民的になってしまっている。
実を言えば、ヨットで遊覧をするという今夜のお誘いも、いくらかかるのかと気後れしていたくらいだ。自分が払うわけではないとはいえ。
「家を飛び出して傭兵パイロットになったのはつい二ヶ月前だけど、ずいぶん前のことに思えるわ。
今は、1機撃墜いくらの仕事をして食べている身ですしね。
自分が貴族であることを忘れてしまう」
エスメロードはそんなことをつぶやきながら、シャンパンを飲み干す。
「まあまあ、金銭感覚が厳しいのはいいことだ。
ともあれ、値段のことばかり気にしていたらシャンパンに失礼だろう?」
そういって、バーナードはエスメロードのグラスにおかわりを注ぐ。
今は楽しむべき。笑顔で言外にそう付け加えていた。
「そうね。頂きます」
余計なことは考えずに堪能することを決めたエスメロードは、ヴィンテージの香りと味を楽しんだ。




