一般的な物語の認識のズレ
以前から書いてるやってはいけ無い事から始めようって改善案がある。そのために大事な前提が抜けていたと思う。一般的な物語の大半は悲劇と衝撃展開が多い。そしてこの2つの要素が絡み合った作品も多い。オイディプス王の悲劇はそれになる。なろうの展開がやや異質なのはそこにある。
なろうは悲劇でのキャラクターへの感情的共感が軸ではない。それよりそのベースとなる展開の衝撃さが刺激になってる。そういった例で典型的作品がまどマギになる。分析的に捉えれば、まどマギは悲劇の共感がメインではない。それは作り手の虚淵氏能力がそっちより衝撃展開を魅せる方に偏ってるから。
むしろ悲劇への共感は下手な作家だと思う。いやまどマギ泣けるよ?って人も居るだろう。あれはそういう作品じゃない。エロゲが創った可愛いキャラに好意を持ったら、そのキャラを酷い目にあわせるってKEYが王道を作った手法の亜流になる。これは根本的に違う。どこが違うか?と言うと、女性向けと男性向けぐらい違う。
そもそも悲劇が一般的なのか?で女性受けが良いってのが問題になってて、男性は確率的に悲劇なんてたいした面白さにならないと私は見ている。でも世の中には男女が半々にいるからそのせいで悲劇は一般的とされてるだけだと見ている。女性は物語によって悲しい感情になったり、泣くのが面白さになってる。
これは女性はネガティブな感情が快感になってるじゃない。それは大きな間違い。本来の意味のカタルシスにある。普段抑圧された感情を解放するのがカタルシスの本質にあり、ネットで広まってる谷があって山を迎えて溜飲をおろすからカタルシスだと思ってるのは心理学で使われる浄化の意味で、本来の物語の面白さとしてのカタルシスはもっとシンプル。
単純に物語に感情的に慣れれば良い。普段感情を抑制してるのは大人なら分かってるだろう。そのタガを外す事に悲劇のカタルシスの価値がある。この勘違いがまず悲劇の面白さが分析的に正しく伝わらない原因にある。これに悲しさへの共感しやすさ、これが絡んで圧倒的に悲劇は女性の方が楽しめる。感情の抑圧の苦しさ、悲しさの共感しやすさ、この2つに男女差がある。
そのため2重の意味で女性は直接的に悲劇が男性より面白さになりやすい。多くの男性がこれが受けてるでズレを感じるのに性差が必ずある。それは悲劇が一般的な物語となってる背景には一般の半分を構成している女性の性差がある好みのせいが大きい。ただし悲劇が一般的か?に批判として書いてるわけじゃない。あくまで注釈として書いてる。
オイディプス王の悲劇などどことなる異世界ファンタジーと被る部分がある悲劇はどっちかと言えば男性には展開の面白さで受けてる面が強い。2つは分離しにくいし、むしろ組み合わせたほうが合理的、それは男性も悲劇に無反応では無いから。無反応ならアリストテレスと言う男性がこの論を作れるわけが無い。ただ容易さという程度は論理に示されることは無いが、それがかなり重要になってるから書いてる。
ここまでは前置きになる。それら2つの刺激が一般的なのは、あくまですべての物語においてで、これを文字に特化させると、本当にコレは一般的なのか?となる。何故なろうのランキングが特殊なのか?実はこれが無視されてるのが大きい。皆がなろうが変わってると思い込むのは、勝手に文字による物語と、映像漫画などの絵の物語を同一視して、こういう物語として一般を作り出してしまってるためだと見ている。
特にアニメからなろうを知った人はなろうは特殊だと思い込む。違うなろうはあくまで文字物語でしか無い。もしアニメがなければ、アニメから入ってきた読者はここに来ただろうか?となる。なろうであまり重視されて無いが、内容の面白さよりも、何を選ぶか?の選択こそがとても重要で、面白さの中にこれが組み込まれていて、それがなろうの特殊に見えるものを生んでいる。
これはずっと書いてるが、今回特に重視してるのは、文字以外の物語の一般=大衆的であるのと、文字での物語りの大衆的は全く重ならないと知ったほうが良い。そもそも多数派は文字物語を楽しまない。多くの売れる文字物語は大半が一見さんの売れてるからとかになるのは、そもそも普段本屋で本を探すなんてしないからだと分かる。
そこには選択がすでに面白さに絡み合ってる事情がすぐに読み取れる。そういった選ぶ事を絡めた面白さで考えるとおそらく、今なろうに来てる多数派は文字物語以外の一般的な物語を求めてない。多くのエッセイで書かれるなろうテンプレ批判の根拠はこれに対する勘違いになる。あれは全くの的外れで、一番の問題は読者が読みたくないものを全く分かってない。
テンプレ批判者の勘違いは、文字物語以外の物語全般から多数派にとって読みたい物語を構築してる点にある。それは違うお前が読みたい物語だろう?って強く批判する。以前から私は文字によるこういった特にリアリズムが重視された一般的な物語は読書の玄人ような人達だけが選んだほうが良いと書いてきてる。
それが中々ヒナプロに受け入れられない理由として、ヒナプロもまだ読書が一般的な楽しみの1つであると勘違いした古い旧来の価値観の中にいるからだろうと思っている。中年以上の読書家は読書の価値観が古いんだ。そのズレの原因は文字以外ではまだまだ悲劇衝撃展開の物語が十分に多数派向け、大衆向け、一般向けとして溢れかえっているためだと見ている。
だがその数は書店での多数派と同一と見て良いのか?と私は見ている。そもそもヒナプロが女性スタッフが多いと言うのがたぶん勘違いする元だと思う。これからなろうの普通の読者に向けて旧来の物語で受けたいなら女性向けにしたほうが良いとおもう。その点は変化が無いと思っている。なろうの男性読者は新しい時代に突入している。
それにあわせた物語つくりをするべきで、悲劇衝撃展開による物語作りは変えて行くべきだと思うし、私はそれが駄目だとは思ってない。それは面白くないわけじゃない、選ぶ行為が入ると大半の人は読まないからで、この選ぶ行為こそが、映像作品や漫画では生き残ってる理由になる。そういった媒体なら見るけど、文字ならお断りとなるわけだ。
だからベストセラーとランキングは本質的には同じで、多数の人が注目すれば気になってみたくなるだけだ。それは選ぶ行為として玄人的読書家とは明確に違うと思う。そういった物語は少数の特殊な読者だけが逆に選ぶべきだ。全員参加で選ぶのは間違っている。そして、そうすると逆に全員は読まなくなる。全員が読むためには全員が選んではならない。
私はそういった物語を否定してるわけじゃない。選出の仕方を根本から変えろと運営にしか出来ない事を書いてる。そして全員が読んで選ぶ作品はそういった物語を創るのを避けるべきだ。これは作者個人個人の問題になる。どういう作品を作れば良いか?じゃない、大事なのはどういう作品を作ってはいけないか?となる。
そしてそれが改善されない根本は、文字以外の物語の一般的なイメージを文字物語にも適用したり、どんどん減っている書店人口にたいして未だに前時代的な書店での一般的イメージをなろうに持ち込んでいるためになる。実際に文字物語としてこういうのが見たくないってネット読者の多数派のイメージにかみ合ってないのをヒナプロもテンプレ批判者も知らないからになる。