97話
項垂れた老躯、その背後から声がかけられた。
それはヴェルハイムにとって何度も聞いた、主でもあるリリィ・クルーシャの声であった。
「おお、ヴェルハイム。哀れなヴェルハイム! お前はただの一度の敗北で心を挫いてしまうというのかい?」
――形容しがたい、汚泥のような感情を押し殺してヴェルハイムはゆっくりと背後を振り返る。何度も見た主の姿をした何か、そこで腕を組み、嗤いながら立ち尽くしていた。視線が交錯した瞬間にヴェルハイムは理解する。これは、主とは、リリィ・クルーシャとは別物の何かであると。
「貴様、その姿……」
「いちいち牙を立てるな――あぁ、今のお前は牙も抜かれてるか」
瞳をにっと細めて愉快そうに笑うその姿が、ヴェルハイムには酷く不愉快に感じた。この場にリリィ・クルーシャの格好をして現れたからには何かがあるのだろうと、一度は取り落とした剣を再度拾い上げ、半ばで折れた剣を向けながらヴェルハイムは声を奮い立たせる。
「……不愉快な問答はよせ、お前はなんだ。何故、主と同一の格好をしている」
「同一と言われても、存在的には同一なんだから仕方がない。でも、リリィ・クルーシャは私さ、哀れなヴェルハイム――お前が主と慕っている少女はリリィ・クルーシャになった何かでしかない。難しい話になる、愉快でも無いから説明したくないんだけどな」
別名を振るのも手間だし、私はリリィと呼ぶけどね。
そう、リリィ・クルーシャは困ったように首を振る。
「っ……なるほど、合点がいった。お前が、黒の宝玉の意思、夜天の魔王、か!」
「あぁ、なんだ、わかってるじゃん。勉強熱心なのはいいことだ。でもね、今の情報には一つ、間違いがあるんだ。いや、一つじゃないか――でも、全部間違ってるって意味では、一つの間違いでしかない」
その時だ。空から一つの影が舞い降り――いや、無様に墜落するというのが正しいか。石畳と肉のぶつかり合う音がリリィ・クルーシャの背後で響く。驚いたようにリリィ・クルーシャは振り向くと、呆れたしつこさだ、楽しそうに微笑みを浮かべて見せる。
墜落してきたのはノアだった。しんどうそうな表情で、ぐっと膝を立てて起き上がっていく。至る所に刻まれた傷口から、黒い霧を立ちあがり、徐々にふさがっていくのが見て取れる。
ヴェルハイムはその治癒速度が以前が見た時よりも遅くなっていることを悟り、内心で呻いた。傷の治りが遅くなる、それすなわち、力を使いすぎたか、それ以外のマイナスな原因しかないからだ。
「……ヴェルか。いよいよヤバいぜ、終わりがどうのとか言ってる場合じゃなくなっちまった。オレ達は、全部が全部。偽物の情報を信じちまってた!」
「どういうことですか、ノア殿……」
悠長に会話できるかと剣を片手に駆け出そうとしたヴェルハイムだったが、まるで焦るなよ、と心中を見透かすようなリリィ・クルーシャの瞳に見据えられ、足が止まってしまう。ここで話そうが、リリィ・クルーシャにはどうでもよい出来事だったからだ。
何せ、手をだそうと思えばいつでも手を出せる。
殺そうと思えば二人とも赤子の手を捻るかの如くだ。
好きにしろと、手をひらひらさせながら、にやにやと自分の背後で蹲るノアを横目で見るだけ。
「簡潔に言うぜ――夜天の魔王を殺すのならば、オレ達は人類を殺し尽くさなければいけない。生きている人間と、そして死んだ人間の怨念の、つまるところ悪意の集合体なんだよ、黒の宝玉は。いや、宝玉ってのももうおかしな話だ――形だなんてないものなんだから」
「……なぜ、それが意思を持つと」
欠伸をしながらリリィ・クルーシャがそのヴェルハイムの質問へと割り込んでいく。
「そりゃあ持つさ。悪意の集合体、つまるところ意思同士がぐちゃぐちゃに混ざり合って、濾されて、を繰り返しただけの、もとは意思でしかないものだったんだから。たまたまそれに魅入られたのが、この少女だっただけ。哀れな文化、哀れな待遇、純情ぶって自分を騙していた癖に、最後の最後で世界を殺さんと呪った少女!」
楽しそうに両手を上げて笑うリリィ・クルーシャを見てノアは、趣味が悪いぜ、と唾を吐く。突如、豹変したリリーに攻撃魔術を叩きつけられたノアは酷い手傷を負わされていた。自らの魔力だけではなく、黒の宝玉――否、悪意の集合体から溢れた黒い魔力を回復に回しているが、どうも治りが芳しくない。
「悪趣味ぃー? うん、そうだよ、私は悪趣味なんだ。絶え間のない悪感情、醜い獣のような執着心、時間を巻き戻したいとさえ思う絶望! 最高にイイって思わないか、愉快で愉快でたまらないよ!」
瞬間的に心の温度が上がりそうになる。努めて冷静に、ノアは深呼吸をしてそれをやり過ごした。もう数えてもいない程に昔の出来事であっても、仲間たちを殺された事実だけは忘れてはいない。だが、それにキレて乱暴に事を進めてしまうのはもっとよくない―ー。
「……悪趣味ならオレにも教えてくれよ、お前を殺す方法。悪感情をくれてやってるんだぜ、健気な犬にご褒美の一つくらいくれてもいいんじゃない?」
「だから言っただろう。全人類を殺して悪意の根源を断つしかない、ってね。――ああ、例外はあるよ、境界越えをしているなら私を滅ぼしえる可能性はある。形あるものだからね」
「人間としての境界を超えろ、ねぇ。そりゃあ生半可な人間には難しい話だ……オレが、いなけりゃだけどな」
文字通り血反吐を吐きながら立ち上がったノアは、瞳を見開きリリィ・クルーシャを見据える。長い時間、引き摺り続けて擦れた感情が叫んでいた。ここで殺して終わらせろと。クソくだらない自分の意思に決着をつけるんだと。少なくとも化物に成り果てた自分であれば、殺す機会はあると判断したからだ。
だが――突きつけた手のひらから放たれる筈の魔術は出なかった。
指先から、少しずつ少しずつ、細かい砂のように変化していくのみだった。
「勘違いするなよ。ノア、お前は確かに人間じゃないが――人間以上でも無いんだから。私が生かしていたに過ぎないんだよ、悪意の魔力さえ断たれればお前はただの意思の残滓だ。境界越え? 笑わせる。大いに笑わせてくれる! 愉快を通り越して哀れだよ――」
呆然と崩れ落ちていく指先を見たノアは、漸く立ち上がったばっかりの膝を、再度地面へと落としてしまった。長い時間をかけて調べて、検証して、思いを殺して、道化を演じて誤魔化して――その成れの果てがこれなのか、と。
「……なぁ、なんで、お前は――オレの仲間を殺したんだよ」
「悪意に理由だなんてあるものか。なんとなく、そこに玩具があるからだよ」
「オレのやってきたことに、意味はあったか?」
「ある訳ないだろう。……イイね、その顔。絶望に伏せて悔いる表情は何物にも得がたい。お前を生かせておいてやった甲斐もあるってものさ」
くっくっ、とノアに投げられた愉悦を含んだ言葉に、ぷつんと何かが切れたかのようにヴェルハイムが地面を蹴り飛ばした。少なくともヴェルハイムにとってリリィは自らの命を歪でありながらも繋げた恩人で、主であり――共に過ごした時間が長いノアも、同様に主であったから。
奮い上がった騎士の心と共に大きく剣を掲げたが、それと同時にノアの指先同様、四肢が砂になって崩れ落ちていく。からんからんと剣が地面を転がる乾いた音が夜天の下の中庭に響き、四肢を崩されたヴェルハイムが地面に無様に転がっていく。
「貴様……ァ! 我が主たちを愚弄するな、主たちがどれほど、心中を闇に落としていたか!」
「……噛み付いてくる犬は嫌いじゃないが、こうも手応えの無い絞りカスみたいなものばっかりじゃなぁ。供給を断てば死ぬ体なのに自ら死を探すだなんて行動には笑わせてもらったけど、その愚考は流石に笑えないよ。つまらない」
リリィ・クルーシャは呆れたように首を振う。どうしたものか、と少しだけ考え――この場は放置してロイとエリシアの元へ向かってしまおうと、そう結論を出した。ノアとヴェルハイムへの供給は断った。もう再生する事も無いし、不死であるわけも無い。吹けば消える命なのだ。
「あの二人は……楽しみだなあ。かたや落ち人、かたや死から蘇ったともいえる亡霊――。それにここには人間がたくさんいる。悪意の集合体は悪意の集合体らしく、ただただ愉悦の如く、遊ばせてもらおうじゃないか」
崩れ落ちて気力さえ失ってしまったノアと、四肢を奪われ地面を這い蹲るヴェルハイムを尻目に、リリィ・クルーシャはエリシアが消えていった方角目掛けて一歩を踏み出したのだった。




