92話
「ノア、大丈夫?」
闇夜に響いた声にノアははっと辺りを見回した。そうだ、オレはロイ君達とマリアが邂逅するであろうオパーティの様子を見に来たのだった、と。深い眠りから目覚めたばかりのように、どこかぼうっとしてしまった頭を掻いて、ノアは小さく溜息を零す。
「ああ、大丈夫だよ。わりーね、多分……リリーの夜天の力に引っ張られたみたいだ。随分と昔の……あぁ、大昔の夢を見てた。くっくっ、これが走馬灯ならよかったんだがなァ」
「……それは後で聞く、宝玉の貴重な資料の一つ。でもいいの?」
「あぁ、何がだよ」
「ロイ・ローレライと、マリア。ノアが呆けている間に、消えちゃったけど」
おいおい、と焦りを見せながらノアが先ほどまで二人がいたテラスを見下ろした。確かにそこにいた筈の二人の姿はなくなっている。ええ、結局オレが介入するのかよ、と呆れたように苦笑いして、ノアは急いでアメジストの翼を大きく広げて、リリィを抱えて飛翔する。
「……ありがとう、ノア」
「いいよ、リリーも夜天の力使ってたら染まるのも早くなるだろうしな。……さて、魔女のやつはオレが見つけたロイ君に何をシようとしてるのかねえ……?」
……
一方その頃。マリアに、もう少し静かなところでお話をしませんか、と誘われたロイはものの見事に釣られてしまっていた。もう少し髪の毛整えてくればよかったか? とか、爪切ってきたっけ、とか、本当にしょーもないことで頭を悩ませつつ、だらしのない笑みを浮かべて静かな城内の廊下を、マリアと並んで歩んでいく。
「……歴代の聖女は王族に対して力を行使する義務があるんです。その一環で、権力……というのはおかしいですね。ある程度の権利が認められているんですよ。城に居住が許されて、かつ、謁見も優先して受けることができるのです」
「癒しの力ってのはどの時代も求められるもんだからな。特にあんた――マリアか。マリアの場合はすっげー力持ってたしそれも当然でしょ……俺の知り合いにも癒し手がいるんだけど、それと比べてもマリアの力は凄かったぜ――」
傷も、体力も、魔力も、すべてを同時に癒す力などロイは見たことが無かった。一体どれほどの信仰を捧げ、どれほどの才能があればその域に達せるのかなど想像することさえできない。エリシアにマリア、そしてリーシャにフィア・ルーセントハート。蒼穹のギルドマスターであるハウエルもフレイも、単純な才能だけで言えばロイよりも遥か高みの存在だ。
「……俺は貰い物でどうにかなってるだけ、ね」
自嘲気味にぽつりと呟き肩を竦めたロイ。
すると、どうしたんですか、とマリアがふわりと甘い香りを漂わせながら顔を覗き込んでくる。
「体調とか優れませんか?」
「いや、そういうわけじゃねーんだ」
可愛らしいそぶりで首をかしげるマリア。肩の下ほどまで伸びた金紗の髪がふわりと揺れる。どこかの筋肉ゴリラヒーラーとは違うわぁ、と本人に聞かれた殴り飛ばされそうなことを考えていると、大きな扉の前でマリアの歩みが止まったので、ロイも足を止めた。
「一応、王城内での寝室……になりますね、どうぞ、入ってください」
「……ああ、わりぃね。お邪魔しま――」
マリアの手によって開け放たれた寝室の扉、その先からは甘い花の香りが漂っていた。女の子の部屋の匂いだーだなんてへらへらとロイがその部屋に足を踏み入れた瞬間――その身体が床へと崩れ落ちる。受身など一切取っていない危ない倒れ方であった。
それを見届けたマリアは、今までの聖女の微笑みから一転して歪んだ笑みへと変わり。あらあらーと、その場で崩れ落ちたロイの身体へ手を触れようとして――背後から顔の横に突き出された剣の切先を視認し、動きを止めた。
「ここは王城の内部ですよ、ヴェルハイムさん。聖女に剣なんて向けて、無事でいられるなんて思っていますか?」
「……悪いが手回しは済んでいる。ノア殿が結界を張った」
初老の臙脂服を着た男――ヴェルハイムは一切の油断無く、背後から剣を繰り出したまま、マリアを見据えていた。今までどこに隠れていた、だなんて野暮な質問をマリアはしない。この男の剣才と、鍛え抜かれた身体があれば多少離れていても一瞬で距離を詰めることくらい可能だと知っていたから。
「別に良いではないですか。寧ろ、アレだけの力の源泉を前に解を求めない事こそ失礼に当たるもの……生憎、私はただ死を求めるのではないのです。今、手にする全てを得て――その上で死ぬ事こそ望みなのですから」
「その気持ちは私も分かる。だが今は抑えるべきだ、場所と時間が悪い。嗅ぎつけられるぞ――剣の狂犬に」
剣の狂犬。マリアはヴェルハイムの顔を一番初めに浮かべたが――次いで、黒龍との戦いで圧倒的な力を見せた赤いドレスの少女、エリシアの顔が脳裏に過ぎる。だがそれを鼻で笑うと、呆れたようにヴェルハイムへと言葉を返した。
「確かに、あのエリシアという少女は狂犬と呼ぶに相応しいでしょう。溢れる才をこれでもか、と凝縮した塊みたいなものですから。だからといって、今ここは私とノアの結界が二重に張られている状態です。それが破られるとは思いませんね」
――その直後だ。硝子が割れた音が二重で響いたのは。あまりにもあっけなく壊された結界に、マリアは長い廊下のその先へと視線を振る。ヴェルハイムはと言えば、ノア殿の計画がずれてしまったな、と眉を潜めながらマリアへと突きつけていた剣の切先を、廊下の先――冷たい表情で、愛刀を肩に乗せ歩み寄ってくるエリシアへと向けた。
「ああ、初めから臭いとは思っていたんだ。私の勘は中々当たるものでね……黒い龍を相手にしているとき、感じた不自然な感覚はやっぱり間違いじゃなかった」
「……随分といい勘をお持ちのようで。ですが、それ以上近付くのならば、この男を殺――ッ」
僅かに肌に触れる風を感じた。いつの間にか――マリアの目の前にはエリシアがいた。
視認ができなかった。余りにも早すぎる踏み込みを、己の呼吸に合わせられた――そう理解しても、一切の防御行動を取る事ができないマリア。ヴェルハイムはマリアの髪を掴んで廊下側へ投げ飛ばし、凄まじい殺気と共に振り下ろされた、死神の鎌のような一撃を受け止める。
「……エリシア・ダナン。なるほど、狂犬と呼ぶのは手ぬるいな」




