88話
「これはこの地方で取れた葡萄を使ったワインなんですよ、ロイ殿。フレッシュな香りに心地よい酸味が特徴の赤いワインでしてな、王都の方までいくと真紅の宝石――そんな名前で呼ばれていたりします」
「なるほど……ん、確かに。一口含めば、香りが溢れて――爽やかに抜けていきますな。後味も実にいい」
白髪の初老を相手にして、さも味が分かるように振舞うロイ。勿論、そんな情緒豊かな繊細とも言える香り、酸味の違いなんて分かるわけもなく――今しがた目の前で語ってもらったことを、それっぽく言っているだけであった。本人は何だよこの酒うめぇ、それくらいしか考えていない。
アルコールが程よく回り、顔を赤くしているのはエリシアであった。幽霊であった頃に嗜んでみたりもしたが酔いとは無縁のものであり、初めて自分に襲い掛かってきている酩酊間と凌ぎを削っているところだ。そんな彼女をロイは横目で盗み見ると、そろそろ止めた方がいいか、と一人嘆息する。
そんな中、開かれた扉から不意に入ってきたのは短い金髪、はだけた白いシャツ――ノアであった。ロイ達は知らないが頃合を見計らっていたのだ。やぁやぁと貴族に挨拶をすると、そのまま真っ直ぐロイ達の下へと向かっていく。
「……やぁ、ロイくん。聞いたよ、エリシアちゃんと龍を倒したんだって? やるじゃない、見かけによらず」
瞳を細めながらにこにこと笑い、ロイの肩へと手を回した。それに対してロイは、思いっきり嫌そうに顔を歪めて溜息交じりに言葉を返す。
「最後の一言は余計だっての。……ていうか、お前こんなところまで入ってこれる身分なんだな。城の中のパーティなんだけど」
「え、尻の中のパーティ!?」
「……おーいエリシア、そろそろ帰るぞ。このカスをぶっ飛ばせ」
「あのね、流石にオレも龍を屠るような一撃貰ったら死ぬからね?」
酷いやつだぜ。眉を潜めてノアは方へと回していた手を外すと、そのままテーブルに並べられた料理の数々に視線を配り、ふらふらと離れていった。一方でロイは、野郎と肩なんて組んじまった、そう唾棄してぺっぺっと肩を払い、帰る前にいい酒もうちっと飲んでおくかと思いつつ長テーブルの元へと歩み寄っていく。
その時にパーティルームの最奥の扉が開いた。ざわめきと共に現れたのは――聖女・マリア。身に纏うのはサファイアのように蒼く煌くドレスだった。聖女の名に相応しくなるよう露出は控えめであったが、もともとの顔もスタイルも良いのもあり、多くの視線を一身に受けている。
「……ほう、私の赤いドレスと反する青色をぶつけてきたか。勝負の予感がする」
「おいエリシア。無駄な対抗心燃やして剣に手をかけるな、見てるから!? めっちゃ衛兵見てるから!?」
こんな美味い酒と飯が手に入る場で騒いで退場なんてごめんだとばかりに、ロイはエリシアを宥めるために手短なグラスに赤いルビーのようなワインを注ぐと、ばっと手渡す。気が利くな、そう言うとエリシアはそれを口に含み――ぱーっと、大きな笑顔を咲かせて見せた。
「なるほど、なるほど……これがいい酒か……。幽霊のような存在だった時にほんの少し嗜んだが、やはりそれとは味が違うな。身体があるからか?」
感動に浸りながらエリシアはそそくさと御代わりを貰いに、テーブルのアイスバケットに入れられたワインに手を伸ばす為、ロイの隣を離れていく。ほっとしたロイは潰れたエリシア背負って帰るか、そう溜息を零しながら酔い覚ましにフルーツを手に取ろうとした。
だがそれは適わず、不意に――伸ばしたその手が、細く白い指先に捕らえられる。
「すいません、少しだけお時間いいですか?」
「……ま、いーけど」
はにかんだような笑みを浮かべ、蒼いドレスに身を包んだマリアが、ロイの腕をそっと捕まえた。
……
この季節の夜風はまだ冷たいらしい。パーティルームの喧騒から隔離されたテラスへと出た二人は、月明かりの下で小さな乾杯を交わす。透明なワイングラス同士がちりんと軽やかな音を奏でた。
「……この国はいつでもこうなのか? ちょっと大きな獲物を狩ったら王城まで開放してパーティだなんて、俺がいたところじゃ考えられないぜ」
「ええ、まぁ……普段は行わないんですけどね。今回は忌々しき伝説を残す、黒龍が相手でしたから。邪な象徴たるそれを屠ったのです、相応の報酬は与えるべきかと。……もっとも、ロイ様とエリシア様のご尽力があってのこそなのですが」
「ま、確かに……祝い事も国の力を示す機会だからな。それだけ忌み嫌われてる奴を討伐したら、これくらい開いてもいいかもしれねーわ。案外冒険者とかなんて敏感なもんで、勝ち馬乗りってのもあるからよ、ちゃんと国の力を誇示してかないと離れちまう」
「……随分詳しいですね、ロイ様も冒険者ということでしょうか」
困ったような笑みを見せたマリア。せっかく話そうとしていたことを先取りされてしまったかのような、少し拗ねたような顔だった。無論、ロイにはそう見えているだけで、マリアの本心はどうやってあの蒼い稲妻――自分の理解の範疇を超えたアビリティのことを聞き出そうか、それだけしかないのだが。
「改めてですが、この度は本当にありがとうございました。この時期は冒険者の皆様も依頼の関係で遠出する事が多く、本当に戦力が足りない状態でした」
面と向かって感謝されることが苦手なロイは、丁寧に頭を下げてくるマリアから顔を背け、そうかいそうかいとグラスに注がれたルビー色のワインを大きく呷る。
「……蒼い稲妻、あのような現象は始めてみました。ロイ様は、どのようにしてあの境地に到ったのですか?」
遠まわしにしても仕方がないと判断したマリアはストレートにアビリティについて触れに行く。無論、差し支えなければ構いませんが……と少し慌てたような仕草を見せることも忘れない。傍から見れば興味本位で聞いてしまって、慌てて取り繕ったような仕草にしか見えなかった。無論、猫を被っているだけだが。
「境地でもなんでもねー、あんなもん。……ただの貰いもんだよ」
――貰い物。ならば私がそれを奪い本質を確かめてしまおう、そう瞬時に思考し、反射的に全身の魔術神経に溢れそうな程の魔力を流し込もうとして、どうにかマリアは押し留まった。
マリアの本質は信仰という名前の狂気。だがそれと競り合うほどに強烈な、魔術師としての知識を欲する貪欲な一面も同居していた。マリアの魔術師としての実力はリーシャ・フローレスでさえも容易く上回る。
なにせ――黒の宝玉に犯された体は決して死にはしない。恒久的な時間を過ごす中、その身に抱える魔力の絶対量も増え続け、知識も絶えず蓄積し続けている。一世代しか生きる事のできない人間とは違うのだから。
「……急くなよ、魔女。言っただろ、ロイ君とヤりあう機会はこの先に必ず待っているって」
歓喜に震えるマリアの姿を、王城の天辺から見下ろすのはアメジストの翼を広げたノア。呆れたように瞳を細めて笑うその姿は、夜に舞う鴉のようだ。万が一、ここでマリアが凶行に及ぶようであれば阻止する腹積もりであったが、その心配はなさそうだと胸を撫で下ろす。
「別にオレなら止められるけど……幾ら酒でバカになったとは言え、ロイ君も見ている前で、そして部屋の中にはエリシアちゃんも控えているんだ。力を使ったらバレるんだよねぇ」
「……ノア。覗き見は、趣味が悪い」
おっと。両手を挙げてノアが振り向くと――そこにいたのは人形のような少女、リリーとノアが呼んでいた存在だ。彼女はまるで体重がないかのように、軽やかにゴシックドレスを翻し、月を背後にして夜そのものを背負い、立っていた。
「リリー……夜だからってはしゃぐなよ。目立つんだから」
「ノアもそれは同じ。……私は期待しているんだけど、ノアはどう思う?」
「じゅーぶん、リリーと同じだよ。何せ落ち人で、運命的にオレ達と出会いを果たして、ここまで辿りついているんだ。残虐極まりない魔王の手下も、諸悪の根源たる宝玉も壊してくれそうな――勇者みたいな存在だと思わないかい?」
リリーは白のツインテールをふるふると横に振った。
「……勇者だなんて、いない。都合よく魔王と競り合える力を持つ存在が生まれるだなんて、ありえない」
「おいおい、願いが矛盾してるぜ、夜天の魔王、リリィ・クルーシャ。……まだ、飲まれんなよ」
夜天の魔王、そう呼ばれたリリーは静かに瞳を閉じると、想いを馳せる。一体、これまで何回期待をして、自身でそれを引きちぎり、裏切られてきた事か。そう、リリィ・クルーシャには矛盾した願いしか存在しない。生を終わらせたいという純真な願いと、身に刻まれた宝玉から注がれる暗鬱とした人を引きちぎりたいという願い。
死にたい少女は死ねないのだ。いつもあと少しで宝玉の力が溢れ、気付けば目の前で人が死んでいる。初めこそ酷く動揺したものだった。だが回数を重ねていけばいくほど、心が麻痺してくる。そして同時に気付くのだ。無様に転がる死体を見て、高揚しそうになる自身の心の奥底の感情に。
――故に、矛盾した願い。
「うん、まだ平気。でもそろそろ自意識が混濁している気がしてる……私の願いと、別の存在の願いがわからなくなる感じ。自分が自分でなくなっていく、そんな感じ。うん……私は、期待している、あの二人が勇者である事に……っ、と」
それを聞いたノアは――今までみたこともないような痛みを抱えた表情で、苦しげに笑って見せた。
「……リリーはリリーさ。さぁ、一緒に死に場所を求めようぜ、お姫様」




