50話
ただ広い草原の中で、ハルは北欧風のテーブルに置かれた水晶玉に映し出されている景色を見ていた。その水晶玉の中ではハルがこの空間に訪れて存在を忘却した三人、ロイとリーシャ、そしてセルシウスが波のようにうねりを上げるゴーレムと戦いを始めている。
「どうだい、ハールート。真理を得る覚悟を決めたかい? ……いや、君は一度見ているから、真理を得るというよりも、真理を以て叶えたい願いが決まったかい?」
「……いえ、私には、そんな願いだなんて」
「嘘だね。君は願いを抱えている筈だ、ハールート。欲しいものがあれば練成すればいい、いらない物があれば分解すればいい、真理をもってすればそれくらいのこと、容易いんだ。欲望を抑える必要なんてないんだ」
水晶玉の中の三人が必死に足掻いている。時折大きな氷が生まれ全てを飲み込まんとするが、その度に虹色の稲妻が発生して分解されていく。一体何故、この三人は必死に戦っているのだろうかとハルは考えた。だが答えは出てこない。確かだった記憶が、誇っていた筈の想いが溶け出したかのように、出てこないのだ。
「思い出すんだよ、ハールート……君が欲しかったモノを、そして壊したかったモノを」
自分と同じ瓜二つの存在の指が額に触れる。
僅かに生まれた虹色の稲妻は、ハルを過去へと誘っていった。
――それは父親に連れてこられた、薄暗い部屋。
ただ赤いだけの練成陣が床に刻まれたハルにとって最古の記憶。
「さぁ、行こうハールート。あいつはお前を捨てていった、ならば私がお前を共に最上の世界に連れて行こう。いくぞ――」
迸った赤い稲妻と共にバレンシアとハルが飲み込まれた。星が煌く宇宙へと放り出され――そこでハルは目にする。真理の片鱗を。世界の創世を告げる新星爆発、そして命が芽生えた青い星、進化していく動物に時代を経て溢れていく様々な最小たる原子。知性のある存在の元に生まれた文化、世代を得て積み重なって、そして刻まれていく膨大な記憶の数々。
どれほどそれを見ていただろうか。余りにも莫大なそれに押し潰されそうになった時に、気付けばハルは赤い練成陣が刻まれた暗い部屋に転がっていた。四肢は痛み、胃液が喉元まで溢れかえりそうな最悪の気分だった。
隣では自身の父親が狂気の瞳で何かを訴えかけるように、ぽつぽつと言葉を零している。ハルにはそれが、とても怖いものに見えた。
――それは奴隷商に連れてこられたとある貴族の屋敷。
無色無味の乾いた日々が始まりを告げた、その一番最初の日。
「勘弁してくれ、グレイセスってあれだろう? 錬金術で狂った家系。ただでさえ錬金術には分からないグレーな部分も多いんだ、変なものを持ち込まれても困る」
貴族の男は眉を潜めながら、赤い絨毯の上に正座したハルのことを毛皮のブーツの先で小突いた。奴隷商の男は失礼しましたと軽く謝ると、ハルの首に繋がれた荒縄を強く引っ張り、馬車の中へと戻していく。部屋を出る間際、貴族の男がまるでなんでもないことのように、一言だけ、零した。
「……見てくれは好みなんだがねぇ、残念だよ」
おぞましい瞳だった。人を物としか、いや、玩具としか思っていない瞳だった。荒縄が首に食い込んでいく痛みに頬を歪めながら、ハルはこれから自分が行く先を呪っていった。
――それは中央都市に連れてこられた日。
ここで売れなければ二束三文で最底辺に落とされる間際の時。
「……おいおい、姉さんはこんな所に来る人間じゃないだろう。なんでったって来たんだよ、姉さん」
「風の噂で聞いたのさ、盥回しにされた奴がいるってね。……どの子だい?」
「姉さんも物好きだね。俺としちゃ買ってくれれば無駄飯ぐらいが居なくなっていいんだけど」
そうして姉さんと呼ばれた金髪の髪を片側で括った女は、店の中へと足を踏み入れていく。その中でも一番奥にハルはいた。それがハルと遊楽、桜の店主でもある■■の最初の出会い。
「あたしは■■。あんた、まだ生きる気力はあるかい?」
まるで向日葵の様に快活に、その店主は笑みを見せたのであった。
その笑みが余りにも眩しすぎて、ハルには直視できなかった。
――それは初めてあの人と出会った日。
生まれ変わる切欠を与えられた、そんな大切な日。
「……おい、■■。なんだこのせかせかしてるのは……子供じゃねーか。いつからこんなちんちくりんまで雇うようになったんだよ」
「かくかくしかしか、事情ありってやつさ。まだ男の相手はしてないけどね、なんならアンタが面倒見てくれてもいいんだよ、■■? アンタなら、一人ぼっちの辛さも、痛みも知ってるだろうと思ってるんだけどね」
「勘弁してくれ、いくらS級ギルドっていっても根無し草だぞ、無理が過ぎる。それにお前の元に居た方が気が楽だろ、何も知らない男のところへいくより」
「あー、んじゃ一晩昔話でもしてやってくれよ、あたしからの頼みさ。なに、料金なんて取らないよ、どうだ?」
「まぁ、それくらいなら構わないが」
困ったように自らの明るい茶髪を掻きながら、その男は首を縦に振った。
ハルは虚ろな瞳で、その男の顔を仰ぐ。
「よう、自己紹介だ。俺は■■・■■■■■。お前の名前は?」
「私の、名前は、ハ―……」
ハルの口が固まる。どうしてだろうか、自らの名前を口にするのに、抵抗があった。まるでそれを出してしまえば、過去が追いかけてくるような気がしたから。過去が追いついてきそうな気がした。だから――少しだけ、変えた。
「――ハル、です」
欲しいものは自分を満たしてくれる世界。いらないものは自分を蔑む全て。ああ、そうだ、それが私という存在の全てだとハルは思った。これだけ過去を思い返しても、誰一人として名前が出てこないのだ。ならば真理とやらを得て、自分が望んだ、満たされるものを作り出してしまえばいい。
「答えは得たかい、ハールート」
「……」
ただ広い草原の中で、ハルと、もう一人のハル――フィア・ルーセントハートが立ち尽くす。ハルはどこか覚悟を決めたような瞳で、フィアは静かな笑みを携えながら、向かい合う。
「さぁ、欲しいものはなんだい?」
「――あなたが奪った私の記憶を、返してください!」
その瞬間にハルの左目が一際大きく煌いた。金色に煌く左目は宿った意志の強さを示すかのように、煌々と輝く。激情を燈したハルの表情は大きく歪んで、怒りを溢れさせていた。
「私にとってあの二人は大事な人なんです、忘れるだなんてそんなの出来ないんです! それに――欲しいものだったら全部あそこにあった! 私はもう欲しいものを貰っていた! 真理がどれだけ優れていて、価値があっても、私のとってはあの日々のほうが、大事なんだ――!」
虹色の稲妻が煌く。快晴の草原の下、大きな爆風が生まれもう一人のハルを、フィアを飲み込む。そうして煙が晴れると――無傷のフィアが、頬を吊り上げたかのように暴力的な笑みをして、両手を広げて立っていた。
「――正解だ、ハールート・グレイセス」
まるで存在そのものが嘘であるかのようにフィアの存在が宙へ解けて消えていく。それでも声は途絶えず、まるでハルの心そのものへ話しかけるように、フィアの言葉は続いた。
「私は真理の解錠者だ、そして共に――真理への道を護るものでもある。君は真理に触れる資格を得た。だが、残念なことに君は真理の片鱗にしか触れていない――だから必要になったら私の名前を呼べ、ハールート……いや、ハル」
「そんな、真理が必要になることだなんて、起きない事を祈ってますけどね――」
そうして極彩色の稲妻が草原に溢れ、全てを飲み込んでいく。テーブルも、チェアも、青空も全て。だが、それでもハルは手を伸ばす。あの水晶玉の向こうの世界に届くように、名前さえ忘れてしまったあの人に、この手が届きますようにと。
「■■さん――!」
すべてが極彩色の稲妻に飲み込まれて、フィア・ルーセントハートの作り出した世界は、終わりを迎えた。




