48話
目が覚めたとき、ハルは水の中に居た。上下の感覚さえ消失し、周りに広がるのは闇ばかり。奇妙な浮遊感を覚え、朦朧とした意識でただ浮遊する――。不意に、世界が瞬いた。闇が一瞬にして晴れ、その先に現れたのは無限に続く星空であった。足の先も、頭の上も、全てが煌々と輝く星空の世界。
「……ようこそ、真理の世界へ。ハル・グレイセス。いや、それは正しくないね、君の真なる名前はハールート・グレイセスだったか?」
「あなたは――」
唐突に響いたのはどこかで聞いたような、されど聞き覚えはないような、不思議な声だ。ハルが首を傾けて声の聞こえた方向を振り向くと――そこには自分とまったく同じ存在が、寸分違わず同じ顔で、この星空の中に立っていた。
「ハールート、君はそんな些細な事を聞くのかい? まったく、久しぶりの再会じゃないか。君の父親、バレンシア・グレイセスと共にこの世界に脚を踏み入れて以来なのに……もう少し、建設的な話をしようじゃないか」
「ッ……!」
「――いいね、その思い出したような表情。まぁ座りなよ、ハールート。君はバレンシアの娘であり、真理を得る権利がある。じっくり話そうじゃないか」
ハルと瓜二つの存在が指を鳴らすと、星空は一瞬にして透き通り――闇のヴェールのその先から暖かい陽光が差し込み始めた。足場さえ無い星の海は一瞬にしてただ広い草原へと生まれ変わり、気付けば草原の中でハル自身もお洒落な椅子に座り、陶磁器のティー・カップを手に持っていた。
「ッ……いま、私は、何を」
「気にするな。この世界の管理者が私であるだけだよ、私が招いたにせよ、ハールート、君は一介の客人に過ぎないだけ」
「……どうして、ここに着たのか、何も、思い出せないです。それでも、あなたの事は覚えている、記憶の片隅で、埃を被っていたかのような、そんな感じがします」
「当然さ、私は――そうだな、一番初めに真理に辿り着いた元人間、今は神様のような存在だからね。その私が君を操作したのさ、そういう状態になるように。おぼろげながらも、思い出すように」
「何が目的なんでしょうか」
「目的なんて当の昔に消えて溶け落ちたよ、今は……そうだね、真理を得る次の人間を探している。ハールート、君のような才ある人間、とか?」
これまで鏡で見てきた自分の姿、それがそのまま目の前で紅茶に口を付けている。おかしな気分だった。どうしていいか分からずにティー・カップの中で揺れる紅茶を見ていると、そのもう一人の自分は、毒なんてはいっていないよ、と微笑んだ。
「……どうして、ハールート、という名を知っているんですか。昔の事は捨てたくて、追いつかれたくなくて、ハルと名乗っていたのに」
「君がバレンシア・グレイセスと昔ここに来たときに聞いた。最も、君からその記憶は消したから覚えてないだろうけど」
「何でも出来るんですね、あなたは……」
ハルは紅茶に口を付けた。今まで味わったことのないような、爽快で、そしてどこか瑞々しささえ感じる香りが鼻から抜けていく。
「最高級の、この世には現存しない茶葉さ。……さぁ、心も落ち着いたろう、ハールート。君は今選択の時に立たされている。真理を得るか、得ないか。どうするんだい?」
真理。この世の全てのことだろう。それを知れば自分はここに来た理由を思い出せるのか。そうハルは考えたが、何かがひっかかる。ここに来た理由だ。何か、大事な事を、喪失している気がしてならなかった。とても大事な事を、なくしている気がしてならなかった。
「……私はここに来た理由を何も知りません。きっと、あなたがそうしたのでしょうけど」
「さっき言ったとおりさ、私がそうした。君には全うな精神状態で聞いてもらいたかったからね、余計な事は忘れてもらっただけさ。なに、大事なことは起きてない、だから安心して――真理を求めて構わない」
それでもハルは――目の前にぶら下げられた真理という全てが、なにか、自分にとって、致命的な過ちをもたらす何かに思えて、仕方が無かった。
・・・
「――おい、ハル?」
赤い閃光が収まった時、ハルが立ち上がった。ロイとリーシャは警戒しつつ、錬金術の陣に手を触れていたハルへと歩み寄る。だがそれは最後までは適わず、途端に走った大地の槍に阻まれてしまう。轟音を立てて地面から迫ったそれは、人間一人など容易く貫くであろう太さと、鋭さを持っていた。
「……ロイ、気をつけなさい。もしかしたらとんでもない地雷を踏み抜いたのかも、あたし達。今、あれは――ハルは錬金術の陣も使わず、練成したのよ。ありえない事だわ」
リーシャの声も揺れていた。動揺の為である。ロイもそれを聞いて警戒レベルを最大まで上げた、なぜなら今の今まで、錬金術を陣を使わず為す等、どんな書物を漁っても不可能だと書かれていた事象だからだ。
「……いや、陣は使ってるよ。只全てが頭の中にあるだけだ」
「ハルじゃねーよな、てめえ……」
「勿論。久しく現界したが、この世界は相変わらず重いね」
立ち上がり、ロイ達を振り向くハルの姿をした何か。その瞳は金色に染まり、普段のハルの姿からは想像もできないほどに、壮絶に、そして妖艶に、微笑んでいる。この時を待ちわびていたかのように、それは大きく両手を天へと振り上げた。
「……だが素晴らしいよ、この世界は。こんな素晴らしい逸材を産み落とすのだから。ハールート・グレイセス。彼女はまさに天からの贈り物さ、素質を持って生まれ、そしてそれを寸分違わず成長させ、ここまで来た。中々目の前の餌に落ちない精神性も抜群だ」
「何言ってやがる? そいつはハルだよ、ただのハルだ。お前の玩具でもねーただの人間だ。出て行ってくれねーかな、お前がその身体にいるのは……些か、俺の頭にピキピキくる」
その瞬間にロイの全身から青い稲妻が走り出す。急激な身体能力の向上、そして魔力の底上げ現象。不退転の決意が発動したのだ――貧弱とまではいかないが、決して屈強ではなかったロイの身体が見る見るうちに強化され、あふれ出した魔力が稲妻となって奔りだしているのだった。
リーシャもそれに習うかのように戦闘態勢を整える。赤い瞳はより輝きを増し、ルビーのように煌く。風が溢れ出し、魔力の渦が形成されていった。
「……さすがに私も時間は止められないから、ハールートを説得する時間が欲しかったんだけど。この身体で君達二人は荷が重いなぁ……でも、彼女の記憶を見るに、ロイ、君が適任そうだ――ほら!」
金色の瞳が輝いた。本当に、ただそれだけ。
それだけなのにも関わらず――極彩色の稲妻が世界を埋めた。
「――え、嘘」
余りにも呆けたリーシャの声がした。ロイに身体的ダメージは一切無い。背後への攻撃かとリーシャほ振り向けば――白銀の髪は先端から漆黒に染まり、日頃から赤く輝いていた瞳でさえ、黒へと転換していた。思っても無かった光景に、ロイの身体が一瞬だけ固まる。
「あいつ、この空間の魔力を、根こそぎ何かに練成していったわね……!」
「お前、その髪――」
「いいから、あんたはあっちに集中なさい! 魔力切れよ、直ぐに戻る!」
リーシャの白銀の髪は地毛ではない。フローレスの魔力がそうさせているだけだった。今まで隠し通していた鴉のような黒色を晒してしまったという動揺からか、リーシャの顔色は青く、体内で魔力を汲み上げるも、乾いたここら一体の空間に汲み上げた傍から吸われてしまい、どうにもできない。
「特異な人間の周りには特異な人間が集まるものだね、リーシャ。……それに比べてロイ、君のその平凡さといえば眩しいくらいさ――そのレプリカのような姿は、悲しく思うけど」
「……何ごちゃごちゃいってやがる」
「試しだよ、試し。よくあるだろう、御伽噺じゃさ?」
再度、金色の瞳が煌いた。すると瞬く間に、大地から黒い――黒曜石のような濃厚な黒を携えた剣が、いくつも産み出され始める。好きなのを取るといい、と優雅に一礼すると、瞬時に赤い稲妻と共に生み出された豪華な椅子に、その存在は腰を下ろす。
「在り得ないわよ、その剣……、なんで、こんな草原のど真ん中で、アダマンティア鉱石の剣が練成出来るのよ……!」
「おい、待てよ、アダマンティアは蓄積された魔力で生み出されるんじゃ」
「存外に詳しい。何、さっきのここら一体の魔力を練成しただけさ、容易なことだよ」
草原しかないこの一体で奇妙な空間が形成された。まるで剣の墓地のような空間、その中心に取り残されたロイと、それを面白そうに眺めるハルの身体を借りた何か。そこから外れた場所で、ただ蹲る事しかできないリーシャ。
上り始めた朝日を背に受けて、ハルの身体を借りた何かは、ただただ面白そうに、そしてされど妖艶に、笑みを零した。妖しく金色の瞳が煌いていた――。
「試しだ。万が一、ロイも、ハールートもこれを乗り越えられたのなら――真理を授けてやろう。”真理の解錠者”であるフィア・ルーセントハートの試し、楽しんでくれたまえ」
そうしてハルの身体を借りたフィア・ルーセントハートの目の前に、大きな三メートル程の黒曜石の山が生まれ――重低音と共に動き出す。ゴーレムであった。最高峰の鉱石でもあるアダマンティア製の、巨大なゴーレム。意思を持たず命令のままに破壊をもたらすそれは、ずんぐりとした体系で、ロイ視界に捕らえると歪な、鉱石同士がぶつかり合うような音で、声を上げた。
「……勘弁しろよ、こんなの、間違って都市にでも来たら誰も太刀打ちできねー奴だぞ!?」
どうしたものか、と頭をフル回転させながら、ロイは手短な地面に刺さっていたアダマンティア製の片手剣を引き抜くのであった――。




