58.楽園の崩壊
私が捕らえられてから、どれほど時間が経っただろうか。
もはや数え切れないほどの死を迎え、再生し、再び死ぬ日々は――――唐突に終わった。
死の連鎖が止み、液体の中で目を開けた私が見たのは暗闇だった。
――明かりが落ちている?
夜だから……だろうか? だが、これまで夜でも死のサイクルが止まったことはない。
――なにが起こった?
ガラスに顔を近づけて、私は外の景色に目を凝らした。
暗闇の中、ぼんやりと浮かぶのは、慌てふためく大豆たちの姿だった。
何事かを叫びながら、無数の大豆が私の目の前を通り過ぎている。引き留めようとする大豆もいるようだが、他の多くの大豆によって押しのけられてしまった。
地面に転がった大豆は、頭に手を当ててよろよろと起き上がる。彼は……いつも他の大豆に指示をしていた大豆だ。
「おお……神よ。ここまできたというのに……!」
彼の胚が、そう言葉をつむぐ。その力なさに、私は胸が痛んだ。
怪我を負っているようには見えない。単に押しのけられただけのはずだ。だが、彼は奇妙なほどに弱っていた。
「愚かな劣等大豆め。この偉業を理解できないとは……あまつさえ……」
彼はその場に倒れ込む。彼の周囲には、同じように何豆もの大豆が転がっていた。
「あまつさえ……研究所に火を放つなど……! いったい誰が……あんな原始豆なんぞに知恵を付けさせたのだ……!」
劣等大豆。それは、食用大豆たちの蔑称だ。
マメオとマメコのクローンではない、大豆本来の進化を辿った彼らは、先の戦争で豆権を得た。だが、名目上は平等であっても、未だ差別の根は深い。二つの大豆たちは対立し、静かな睨みあいを続けていた。
不意に、視界の端が明るくなる。目を向ければ、揺らめく火の手に気がついた。
逃げ遅れた豆たちが、火の中で焼けていく。火はケーブルに引火して、さらに勢いを強めているようだ。火を消すために、天井のスプリンクラーが作動するが、火の勢いは収まらない。倒れた大豆は、苦しげに胚を動かし、そして動かなくなった。
大豆は、熱と水に弱い。火の手が上がり、スプリンクラーの作動するこの場は、今や地獄絵図と言うほかになかった。
出口へ向かって這う残りの大豆たちも、ゆっくりと蒸し焼きにされ、叫び声を上げて死んでいく。
見ていられなかった。私は目を伏せ、首を振った――そのとき、視界の端に奇妙な姿を見つけた。
逃げ惑う豆々とは逆に、こちらへ向かってくる大豆の姿だ。暗闇の中、私は目を見開く。
その大豆を、私はよく知っているのだ。深いしわを刻んだ、足取りの重い老大豆は――。
「マメオ!」
「母さん、待っていてください。すぐにそこから出します!」
マメオはそう言うと、近くの機械に手を触れる。私に背を向け、機械の操作を続ける間にも、彼の体にはスプリンクラーの水が染み、熱で表皮が歪んだ。
「父さんの部屋のロックも、もう外してあります! 他の母さんたちはマメコがなんとかしてくれるはず。だから、あとは……ここだけ……!」
「マメオ、逃げろ。逃げなさい!」
私の声は、水の中で泡になって消えていく。マメオの耳には届かない。
「早く逃げなさい! ここにいたら、死んでしまう……!」
マメオの体に、ゆっくりと熱が通っていく。水を含み、肌の色が徐々に変わる。マメオの手は、それでも機械の操作を止めない。
「マメオ!」
「母さん。……この世界はもう駄目です。食用大豆たちの反乱で、天候の制御装置が破壊されました。これから嵐が来ます。世界を洗い流すほどの嵐が」
マメオは私に背を向けたまま、独り言のようにそう言った。
「今はまだ止まない雨です。でも、僕たちはそれで目覚めました。体が水を含んでしまったから」
私はガラスを叩く。すぐ傍に居るのに、手が届かない。機械に触れるマメオの手が、次第に力なくなっていくのが見て取れた。
「この雨は、じきに嵐となります。僕たち大豆は、みんな滅びるでしょう。でも、母さんたちなら生き残れる。……だから、マメコと決めたんです」
私を満たす水槽が揺れる。ガキン、と大きな音がした。
「裏切り者になるって……! 僕たちは世界の敵になっても、母さんたちを救おうって!!」
水槽が開く。水が勢いよく流れ出し、私にかかる浮力が急速に失われて行く。
気がつけば、私はひとり、水浸しの部屋の中にいた。相変わらず暗く、相変わらず火の手は止まらず、無数の大豆たちが転がっている。
その中で、私は倒れるマメオを見つけた。
抱き起してみれば、もうほとんど火が通っているのがわかってしまった。しわだらけの体が水を含み、つやつやにハリが出て、まるで――まるで幼いころのようだった。
「かあ、さん……」
「マメオ、もう、なにも……」
「僕も、マメコも、世界なんてどうでもいいんです……ただ、母さんたちと過ごした日々が、幸せ、で…………」
私の手の中で、マメオはかすかに微笑んだ。
「……マメオ」
もう、返事はなかった。
私は彼を抱きしめ、目を閉じる。
泣いていたのかもしれない。声を上げていたのかもしれない。
ただ、マメオとマメコと、仲間たちと暮らしていた日々だけが、頭に溢れて止まらなかった。
〇
死から再生を果たしたとき、世界は洗い流されていた。
家々は流れ、ビルは倒れ、大豆の死体だけが溢れかえっている。
生きているのは、私と、クロと、ニワ子と、乳牛だけだ。
私たちは、しばらくの間無言で顔を見合わせた。
「…………お墓を作りましょう?」
長い沈黙の後で、ニワ子が泣き出しそうな声で言った。
「きっと、それがあたしたちが最後にすることなんだわ」
「……そうだね」
墓を作ろう。マメオとマメコの。大豆たち、全員の墓を。
水に流された、すべての大豆を探し出そう。マメオたちの子孫も、食用大豆も分け隔てはしない。
みんな私の、可愛い子供たちなのだから。
建物を探し、地面を掘り、川を浚い。
草原の中、船の上、ビルの地下からも大豆を探しては集めた。
集めた大豆は、敷物の上に横たえた。敷物が足りなくなれば、藁を敷いて、その上に預けた。
朝も夜もなく、何日も大豆たちを探し集め――――。
ひと月が経った頃。
大豆が糸を引いていた。
藁の上に安置していた大豆から、腐敗臭がする。
鼻を突くようなえぐみのある臭いだ。思わず鼻を押さえ、私は顔をしかめた。
埋葬を後回しに、大豆の捜索を進めていたのが悪かったのか、順次埋葬するべきだったのか。
後悔する私の横に、クロがひょいと顔を出す。
糸を引く大豆に手を伸ばし、一度臭いを嗅いでから――そのまま口に放り込みやがった。
「ふむ」
なんてことをする。
「納豆だな」
は?
「……そうか、これが最後の記憶か。思い出した。……すべて思い出した」
は?
足元がぐらりと揺れた。
視界がかすれ、奇妙に歪んでいく。視界の喪失と共に、指先から、足の先から体が消えていくような感覚があった。体だけではない。吸って吐く空気さえも希薄になっていく。
まるで、世界ごと消えていくような感覚だった。
次でエピローグです。