53.リスタート
光も差さない海の底で、骨になり、流されて、生き返って、浮かび上がる前に食べられて、また流されて。
何度繰り返したのかは、もう覚えていない。百回? 千回?
苦しい。苦しい。苦しい。息ができない。羽でもがいて上を目指しても、闇の中からなにかに捕まる。齧られて、ついばまれて、少しずつ欠けていく。痛い、苦しい、怖い、誰か助けて。
誰か。誰かって誰?
地上で誰かと過ごした気がするけど、もう思い出せない。暗い海の景色しかわからない。痛みと、息苦しさ以外に、ここにはなにもない。
痛い。もうやめて。死にたくない。生き返りたくない。終わって。終わって!
終わらない。いつまでたっても。
いつまでも、いつまでも、海の底から逃げられない。
〇
「あ、ニワ子起きた」
自宅にある死体安置所を見下ろして、私は思わず声を上げた。
いやあ、よかったよかった。骨一本しか拾えなかったから、リスポーンできるかどうか危うかったんだよね。ハラハラしながら安置所に置いたけど、じわじわ体が出来てくれて安心した。
ただ、さすがに長期間死に続けていたからか、復活はめちゃめちゃに時間かかった。栄養失調状態の復帰が一ヶ月のところ、三ヶ月くらいは待ったかな。いやはや、すっかりげっそりしちゃって……。
「乳牛、水」
「自分でやりなさいよ」
私が言うと、牛は文句を言いつつ水を取りに部屋を出て行った。この町は牛バリアフリーなので、建物はどこでも牛の出入り自由。水道は牛の口でもひねり出せるような単純構造で、器は牛が口で運べるような取っ手を付けているのだ。
しかし、水だけでは栄養にならないだろう。蜂蜜でも垂らしておくかね。細かい作業は牛にはできないので、別のやつに頼まないといかん。
じゃ、しかたない。
私は部屋の隅っこで丸くなっている、小型犬くらいの大きさの二つの物体に呼びかける。
「マメオ、マメコ、蜂蜜とってきて」
私が言うと、丸い二つの物体が起き上がり、牛を追って台所まで駆けて行った。うんうん、簡単な命令しか聞けないけど、文句を言わないのはいいことだ。
さて、すぐに戻ってくるだろうけど、その前にニワ子の様子だ。復帰して即栄養失調で死ぬことはないだろうけど、思いのほかガリガリでヤバイ。完全に鳥ガラだ。
あの柔らかい羽は、復帰直後だというのにしなしなで、目は落ちくぼんで弱々しい。呼吸も浅いし、羽毛越しにもわかるほど骨が浮いている。かわいそうに。なでなでして差し上げよう。
「ニワ子――」
「あれ、なに」
しかし、私がニワ子に触るよりも早く、彼女が低い声を出した。目はマメオたちが出て行った扉の先に向けられている。こころなし、呆然とした顔をしているようにも見えた。鶏の表情はわからないけど。
しかしあれ? あれってどれのことだ? 牛のことか?
「ニワ子、牛とはいろいろあって和解したんだよ。ご本人は封印されていた時代をもうすっかり忘れているので、あんまり余計なこと言わないでね」
やっぱり壊れた関係を癒すには、時間の経過が一番である。私と違って記録を残さない牛は、過去のことを順繰り忘れて行ってくれているのだ。なので、あの肉牛時代もなかったことに。ばんざい。
「違う」
違いましたか。
じゃあ、もしかして…………。
「に、ニワ子……まさか私のことを忘れたんじゃ……」
忘れても無理のない時間は経過している。でもまさか、助けた相手に忘れられているとか、とんだ悲劇だ。あまりにも私がかわいそうである。
「違う」
違った。じゃあ一体なんのことだ?
首を傾げている間に、牛が水を持って戻ってきた。蜂蜜はマメオが抱えている。
私は水にはちみつを溶かし、ニワ子に差し出した。ニワ子は呆然とした顔のまま水を飲み、呆然としたまま顔を上げ――。
ひときわ大きく、コケーっと鳴いた。
「なにこれ!? なによその、動く大きな、ま、ま、豆みたいなやつは!?」
おっ元気。気力があってよかった。
ニワ子の視線は、マメオたちに向けられている。豆みたいな、というか、彼らはそのまんま豆だ。ちょっと手足が付いているけど、マメ科であることは間違いない。
「マメオ、マメコ、ご挨拶」
私が言うと、二つの豆は体表から手足めいた突起を広げ、体をぐにゃりと半分に曲げた。軟体動物めいた仕草だ。骨がないから当然と言えば当然だけど。
豆からの挨拶を受けたニワ子は、しばらく沈黙していた。目を剥いたまま、呼吸もしていないようだった。
瞬きもしていないし、微動だにもしない。
…………。
「ニワ子…………?」
……………………。
し、死んでる………………。
弱った体には、マメオたちの存在は刺激が強かったらしい。
驚きの余りショック死というやつだろう。
ちょうどいいので、ニワ子の体は三枚におろし、ありがたく肉を回収させていただいた。これは冷凍保存して、今後の大豆料理に役立ってもらう予定だ。なかなか肉のために死んでくれ、なんて言えないからね。こういう機会を逃してはいかん。
それはさておき、マメオたちのことをどう説明したものか。
考えてみれば、ニワ子が失踪してから、もう二千年くらいたっているんだもんな。いや、三千年くらいだったっけ? さらりと西暦を超えた今、世界はだいぶ様変わりしたし、あの時代から大豆の姿もずいぶん変わった。
クロを用いた品種改良の結果、大豆は大きく、自立して移動するようになった。
動くのは豆の部分だけだ。葉や茎、さやは動かない。豆の姿で闊歩し、捕食者と出くわせば抵抗し、傷つけば時間とともに癒える。
そしていつしか、豆は雄株と雌株にわかれていた。雄株と雌株が出会うと、相性が良ければその場で地面に埋まり、発芽する。発芽後は、豆の移動能力は失われ、二、三さやの大豆を産み落として枯れる。これが大豆の死であった。
ちなみに、食用には向かない。いつだったか、大豆の中身を割って食べようと試みたことがあるが、内部構造が複雑になりすぎていて、きちんとした解体手順を踏まないと美味しく食べられないのだ。まあ、三日くらい絶食させて内容物を抜けば、煮て食べられないこともないけど、そこまでするほど価値はない。
なので、食用の大豆はそれはそれで残しておいてある。これも、昔より若干大きくて生きが良くなっている気がするが、食べる分には影響がないので無問題。
移動型の大豆は、もっぱら私の研究材料である。なんとか私の助手にできないかと、優秀な大豆に優秀な大豆を重ね合わせ続けて千年か二千年。現時点での傑作がマメオとマメコだった。
二豆は犬程度の知能を持ち、私と簡単なコミュニケーションを取ることができる。他の豆は意思疎通ができないので、この二豆だけは本当に偶然の産物。特級品だ。レントゲンで内部構造を見てみたけど、他の豆たちとは明らかに構造が異なっている。まさしく突然変異のたまものである。
代わりに、彼らには生殖能力がない。雄株と雌株の二豆ながら、数を増やすことができないのだ。一方で、発芽できない彼らには、寿命による死が訪れない。まあ、寿命じゃなくても死ぬときは死ぬんだけど。これだけ進化しても、大豆は大豆。乾燥には強いが、熱と湿度に弱い。具体的には、茹でたり炒ったりすれば死ぬし、食べられる。
逆に言えば、温度管理さえしっかりすれば永遠に生きるのだ。それをいいことに、私は延々と二豆を元にした研究を続けていた。
今の私の目標は、この二豆の知能を上げることだ。脳の構造をもう少し弄れば、学習能力が高まりそうなのだけど、設備と人員に不安があって保留状態となっている。
なにせ、作業者は私一人だけだ。ロボットでもあればと思うけど、物理や工学知識が足りない。助手も牛しかいないから、細かい作業を任せられない。人手不足を解消したくて豆を育てているのに、人手不足が邪魔して研究開発が進まないとは皮肉なものよ。
やはり、運を天に任せて突然変異を待つしかないのか。二千年以上かけて、ようやくマメオとマメコなのに? あと何万年を使うつもりだ……。
ということをつらつらとニワ子(再)に説明すると、彼女は羽で頭を押さえた。
「待って、三千年もたったの……!?」
「うん」
おかげさまで、近代化も成功した。町に電力が巡り、夜も灯りの消えない町だ。そこかしこに野生の大豆が闊歩し、勝手に外敵を追い払ってくれるから、世の中安全になったものだ。
そして不思議と、大豆は私たちを襲わない。これは、今の大豆を生み出したのが誰かわかっているためなのか。大豆としての本能なのか。それはさっぱりわからないが、便利なので助かっている。
ニワ子は頭を押さえ続けている。再復活してから一週間。食欲も出て、体調もよくなってきた頃合いだが、まだ本調子ではなさそうだ。うーんうーんと、苦しげなうめき声を上げている。
しかし申し訳ないが、今日はちょっと無理をしてもらう。
「ねえ、話は終わったかしら? そろそろ出かけるわよ」
私とニワ子が話をしているところに、牛が顔を出す。急かしている割に、のんびりとした彼女の顔には、かつての牛魔王の面影はどこにもない。
「乳牛、ごめんごめん。ニワ子がちょっと具合悪そうだから抱えていくよ」
「…………乳牛?」
「うん、乳牛」
ふわふわの羽毛を抱え上げながら、私は頷く。
「言ってなかったっけ? 性転換したって」
いや、転換って言うのか? 昨今なら、心の性に体を合わせたって言うのか?
とにかく、肉牛は乳牛に生まれ変わった。生産性に寄与した牛の存在は私の心をやすらげ、牛も本来の性別となって心穏やか。これが友好の秘訣である。
しかし、牛の手術は大変だった。なんといっても私たちには再生能力がある。切った先から治癒していくので、手術とはすなわちスピード勝負。治癒速度よりも早く手術を終え、縫合しなくてはならないのだ。
縫合すれば、その部分だけを体と認識し、切り落とした部分の再生は行われない。ただし、死亡時は全身の再生が行われるため、生まれた状態に戻る、という感じらしい。
牛の手術時、勢い余って三回くらい殺害してしまったが、それはそれ。麻酔が効いていたからね。牛的には、どのタイミングで死んだかなんてわからないでしょう。最終的に雌牛になったんだから、万事問題なしである。
…………あ、またニワ子が頭抱えてる。
やっぱり三千年のジェネレーションギャップは大きいんだなあ。
野生の大豆が闊歩する町を横切り、私は牛とニワ子、マメオとマメコを引き連れて、閑散とした町はずれへと向かった。
すっかり近代化した今でも、この辺は昔から変わらない。ロープが張り巡らされ、突然変異の大豆に囲まれたこの空間。黒々とした大樹と、それを取り囲む鬱蒼とした大豆群。クロの聖域は、今なお健在だった。
「ここは……?」
私の腕の中で、ニワ子がきょろきょろと首を動かす。そういえば、ニワ子はこの状態のクロは初見だったっけ? 運の良い奴め。
まあ、それならきっと、これが最初で最後になるだろう。私は牛と顔を見合わせ、互いに息を呑む。そして小さく頷き合うと、聖域に足を踏み入れた。
すでにクロは、元の姿に戻ることができるだけの大豆量を摂取している。なのにまだ大樹姿なのは、あの厄介さんの意思に他ならない。
仲良くしろ、とクロは言った。
信じられない、とクロは言った。
牛と二人、何度もクロの元を訪ねた。それでもあれは戻らなかった。
だったら、もうこれしかない。
私、牛、ニワ子。「みんな」が仲良くしている姿を見せるのだ。
地面が揺れ、ねじれた大樹が動き出す。黒い大樹の枝は触手となり、聖域に踏み込んだ私たちに、鋭く伸びてきた。
私は反射的に、ニワ子を抱え込む。私をかばうように牛が前に出て、伸びる触手にマメオとマメコが威嚇する。
触手は牛に触れる直前で、ぴたりと動きを止めた。そのまま、時が止まったように動かない。誰も声を上げないまま、風だけが流れていく。
しばらくして、触手が揺れた。触手の振動が、ゆっくりと本体に伝わっていく。大樹は大きく波打ち、それから――――それから、収縮していった。
大地から根が引き、空に広まった枝が縮み、ひとつの人型に変わっていく。
黒い髪、黒い服。大樹の消えた後に、一人の男が立っていた。風に吹かれ、彼は少しの間ぼんやりと空を眺めてから、私たちに歩み寄る。
私たちの前で立ち止ると、彼は足元で跳ねるマメオを無造作に拾い上げた。威嚇するマメオも気にせず、そのままぬいぐるみでも抱くようにぎゅっと抱きしめる。
暴れるマメオを抱きながら、彼は呆然と私を見やった。
この表情、なんだろう。驚きと、戸惑い。あとは…………少しの悲しみ、だろうか。
「……ミノル、お前は、お前たちは」
ぽんぽんとマメオの背中を叩きつつ、彼は息を吐くように言った。
「これは、また……なんともいびつな世界を作り上げたものだ」
うーん、否定できない。