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50.帰還

 紙を前にしばし煩悶。

 他。た。わからん。

 ひらがなはどうだ?

 あ、い、う、え、お…………うん、五十音言える。濁点も拗音も促音もわかる。

 じゃあ書けるかな? あいうえお、っと。

 五十音、全部書いてみたけど、これ合ってるのか? 『あ』の下の丸いところ、『の』だっけ『め』だっけ。『の』ってどっち向きだっけ?

 や、やばい……! ひらがなすら記憶から遠ざかってる……!

 数字は書ける? カタカナは? 漢字はどれくらい覚えてる?

 えーと、えーっと、え――――――と!

 やば、やば、やばばばばば。私の文明力はボロボロだあ……。

 い、いや……でも、元の世界で二十年触れ合ってきた文字だぞ? 身に沁みついているはず。思い出そうとするから思い出せないのであって、一晩眠ればきっと思い出すに決まっている!



 と希望をもって眠ったけど、特に進展することもなく。

 眠気の取れた頭で、五十音の書かれた紙を前に考える。

 別に、合ってなくてもいいんじゃないか、と。

 だって、誰と文字を交わすわけでもないし。私が認識できればそれでいい。

 要するに、私がこれを『あ』と言えば『あ』なのだ。数字も、ゼロから九まであればいいわけで、それっぽい字を当てていけばよし。カタカナと漢字はなくても困らない。『人』とか『力』とか、超簡単な字だけは覚えているから、気が向いたら活用しましょうという程度。どうしようもなくなったら、自分で漢字を生み出せばええねん。

 なんだ、たいした問題じゃないや。

 それより、早く拠点に戻るために、地図の作成を急がないとね。それなりに使える紙を量産しないといけないから、そっちの方が最重要課題だ。

 紙を作って、インク作って、筆ももう少しいろんなサイズで作ってみて。

 そこまでやって、やっと本命。マッピング作業だ。

 これ、何年かかるんだろうな?




 九年かかった。

 孤独感が臨界点を突破するところだった。危ない危ない。


 遭難から実に九年。旅立ちと同じ秋の日に、私はとうとう懐かしの拠点に戻ってきたのである。

 この九年間、いろいろあった。

 仮拠点を建て、紙作りにいそしんだ一年目。道々に立札を置きながら、マッピングを開始した二年目。さまよううちに再遭難したり、うっかり隣の山に紛れ込んでいたり、小麦を発見して狂喜したり。ヒグマとの激闘、竹林の発見、うっかり死。いろいろあったけど、語りつくせないので割愛する。おかげさまで、一枚の地図には収まりきらず、数十枚に及ぶ大作を仕上げてしまった。

 でも無事に鉄鉱石も持ち帰れたし、こんなの些末なことよ。

 ただいま。


 久しぶりの拠点は、うん、やっぱり荒れ放題だ。畑は大豆が無秩序に生い茂っているし、刈り取ったはずの雑草があちらこちらで、私の足を噛もうと狙っている。

 牛もやっぱり死んでいる。遺体を見るに、死後まだ三日ってところだろう。畑ではなく、道端の行き倒れだ。

 体は痩せている。畑に大豆があるのにこの体ってことは、畑までたどり着けなかったのか。それならこの辺でハメ技でも喰らっているのかな?

 と思って牛の体をよくよく見たら、いたいた。蚕の卵だ。牛の体の陰に、羽化した蚕の死体も転がっている。ちょうど卵を産み受けられていたみたいだね。生き返る頃には、孵化した幼虫に体を食われて再死亡、みたいなループに嵌っていたっぽい。なんにせよ、蚕が無事でよかった。また探しに行かなきゃいけないところだったわ。

 蚕ちゃんはすみやかに、しかし丁重に巣箱に戻して差し上げる。牛はあとで帰還祝いの主役になっていただこう。最近はめっきり野生肉ばっかりだからね。仕方ないね。


 家は茅葺の屋根がちょっと腐り始めていた。あとで葺き直す必要がありそうだ。

 倉庫は……お、意外と備蓄が減っていない。牛ハメしてくれた蚕ちゃんのおかげだね。これなら早々に牛を復帰させても、ひと冬くらいは持ちそうだ。

 川辺の堤防も異常なし。ため池よし。肥溜めよし。田んぼよし。味噌よし。全体的に朽ちてはいるけど、思った以上に荒れてなくて助かった。


 最後は、一応クロの様子を見ておくか。



 やってきました。拠点の一角を占める暗黒の大樹。

 黒々と捻じれた木の周囲は、ぐるりと立ち入り禁止のロープが張られている。このロープの内側に入ると、私であろうと野生動物であろうと植物であろうと、大豆以外のすべてはクロの触手の餌食になるのだ。

 一か所だけロープの途切れた場所には、雨避けの小さな屋根がある。大豆料理を作ると、この屋根の下に置くのだ。クロが食べるかと思って設置したものだけど、一度も食べられたことはない。

 ここに食べ物があると、お供え物感があって、すごくお社に見える。

 でも今回はお供えじゃないからね。適当な場所からクロを確認。うん、今日も黒い。他の生き物が入り込めないから、大豆も伸び放題だ。クロに日照権を奪われているのに、よくそんなに育つな。

 いや、嘘です。誇張しました。実のところ、個々の大豆はそんなに良く育っていない。

 日が陰っているのが悪いのか、このへんの大豆ってちょっと変な育ち方しているんだよね。すぐに枯れるのも多いし。花のつき方がおかしかったり、さやがついているのに、妙に黒ずんでいたり。

 今、私の目の前に広がっているのも、ちょっと違和感のある大豆たちだ。葉が尋常じゃなくくねっているもの、さやが異常に多いもの、背が高すぎるもの。全体的にちょっとバグってる感ある。

 もしかして、これってクロの影響か? 日照権の問題じゃなくて、どう見ても邪神っぽいクロがいるから、周辺に影響を及ぼしているのかもしれない。

 …………ん?

 大豆を眺めている中で、私はふと違和感を覚えた。あの、クロのすぐ傍にある大豆……。

 一見すると、普通の大豆だ。他より若干、背が高くて葉が大きい気がする。でも、それもごく一般大豆の範疇。そこらへんででろんでろんに地を這っている異常大豆や、黒大豆に比べればなんの変哲もない。

 が。

 …………んんんん?


 おかしい。

 揺れている。

 風もないのに、あの辺が揺れている。

 クロエリアなので、動物がいるはずはない。となると……?


「――――ひえっ。動いた……!?」


 目を凝らす私の前で、その大豆は風に揺れるように、微かに左右に振れたのだ。


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