42.おぼろ豆腐
黒い。
全身真っ黒だ。
……名前? 私がつけていいの?
そうだなあ……じゃあ。
今日からお前は――――。
〇
ここで博識を披露してしまう。
海水から取り出した塩。その副産物として、にがりが作られる。
にがり。
ご存じのとおり、豆腐の元である。
塩は海水を煮て作る。ごくごく単純に、水を飛ばして塩化ナトリウムを析出させるのだ。
ただし、完全には水分を飛ばしきらない。にがりを取得するために、まだ水気がある状態でろ過し、塩とにがりを分離させる。
……いや待て、ろ過?
どうやってすんねん。
きめ細かな紙、あるいは布でもいい。麻布は駄目。目が粗すぎて全通させる。
ええ……ここでつまずくんです?
塩だけを取るなら、煮詰めきってからでも問題はないけど……。
「なにをしている」
焚火の前で鍋を沸かしつつ、頭を抱える私に、名無しが好奇心を向けた。
鍋の中に入っているのは、もちろん海水だ。しばらく沸かして水が飛び、白っぽい成分が析出し始めている。これが塩かな?
「貴様はいつも、おかしなことをしているな? それはなんだ」
と言いつつ、彼は糸を紡いでいる。すっかり糸つむぎが彼の仕事になってしまった。いや、仕事をしてくれる分には一向に文句はないのだが。
どれだけ糸を紡いだところで、彼の服には決してならない。なんせこの男、一人ちゃっかり服を着ているからな。
ん。服。
「名無し!」
「いい加減、我を名前で呼んでくれ」
「名前ありましたっけ」
私が聞くと、名無しは糸を紡ぎながら首を傾げる。
「知らん」
やっぱり名無しやん。
なんてことはどうでもいい。私は名無しの服を引っ張った。手触りが良い。まるでシルクか何かのようだ。贅沢ものめが!
「き、貴様、なにをする!」
目は細かい。よく水を吸いそうだ……。
「そんな急に……恥じらいはないのか!? い、いや、我もいつかはと覚悟はしていたが……」
「良い」
「確かに我は良き男ではあるが――――ひっ」
名無しが悲鳴を上げた。理由は単純。私がナイフを取り出したからだ。
そして、ナイフの先を名無しに向ける。
「ま、待て! 貴様が狂人なのは知っているが、まさかそんな急に」
なんちゅう評価だ。完全に殺人鬼を見る目でいる。どう考えても、私がこいつに殺された回数の方が多いんだけど。
「上げて落とすのか! 我をもてあそんだのか!」
「失礼な」
名無しに興味はない。私は淡々と、彼の服を丸くくりぬいた。
「痛い!」
「服ですよ」
「悪魔……! い、痛い、我の皮膚が……」
いや服でしょ。
…………いや。いやいやいや、待てこれ。
この服、切った部分からちょっと血が滲んでいる。
よくよく考えると、名無しは死んでも服ごと復活する。服が破れても、翌日には元通りだ。
えっ…………。
「……じゃあ、この服の下のこれはなんです」
「ひゃぅっ!」
名無しから甲高い声が出た。
「我のデリケートゾーンを、よくも……」
どこよそれ。人体を模しながら、この神ぜんぜんディティールにこだわらない。
「よもやこんな辱めを受けるなど。貴様、責任を取る覚悟はあるのだろうな……?」
名無しはうっすら涙目で私を見ている。頬が若干赤らんでいる。
なんかこれ、妙に既視感があるぞ?
「今後の貴様の生をすべて費やし、我を養い、我を満たし、我を守る覚悟はあるのだろうな? 軽い気持ちでも、一時の過ちでも済まさぬぞ」
「誤解です」
「誤解でもすまさぬ! 貴様、責任をもって今後も永久に我の信奉者たれ!」
「一度もなった覚えがない!」
そもそも、こいつ私をたぶらかしに来たんじゃないのかよ。大丈夫? 純情すぎない?
名無しが騒いでいるうちに、私はにがりの分離に挑む。
煮詰めた海水を、名無しの服フィルターに通し、水分と塩を分離。水分は壺の中へ落ち、塩はフィルターに残る。黒い服の上、白い塩はよく目立った。
フィルター上の塩は、湿っていて少し粘っこい。ほんの少し舐めてみると、塩気と舌に痺れるピリピリ感。そして、えらい苦みがあった。
塩のくせに、おっそろしく苦い。最低に美味しくない塩だ。
ええ? これ苦み成分なに? 海の不純物? 苦いのってにがり側じゃないの?
と思ってにがりを舐めてみると、こっちも苦い。
なんだろう。海水の成分?
海水の成分って言うと、水と塩化ナトリウムと塩化マグネシウム。あとは……。
………………硫酸マグネシウムと、硫酸カルシウム。
こいつだ!!!
硫酸カルシウムは石膏の成分。
塩と一緒に石膏が混ざっていたら苦いに決まっている。
となると、単純に煮詰めるだけじゃ駄目だ。どっちの析出が早いか確かめて、煮詰める時間を調整しないと。
塩も簡単にはいかないなあ。
にがりのほうは大丈夫かな? ちゃんと使えるかな?
ちょっとやってみよう。
やってみた(迅速)。
豆乳の作り方は前に学習済み。副産物のおからはニワ子にプレゼント。
今回は、この豆乳ににがりを入れてみます。
入れて、混ぜて、…………固まらないから、ちょっと温めて反応を早めてみよう。
…………。
……お、ちょっと固まった?
しばらくすると、豆乳がもろもろとした柔らかいかたまりになった。これを固めれば、いつも見ている豆腐になるのかな? 今のところは、水分が多いのかしっかりとしたかたまりにはならない。
ええと、この状態でも名前がついていた気がする。
なんだっけ。お……おぼろ豆腐?
すくって食べてみると、一応豆腐っぽい味がする。食感は絹や木綿とは全然違うね。ふわふわというか、形があるのに形がない、みたいな食感。とろみのあるスープに似合いそうな感じだ。
うん。これ、おいしい。
焼き肉やくたくたに煮たスープとは違う。しっかりとした加工食品。食べるための物って感じがする。
これは名無しにも食べさせてやろう。
今までとは違い、しっかり手がかかっているのだ。もしかして、大事なことも思い出すかもしれない。
〇
「どう、名無し?」
「名前を呼ぶようにと言っただろう」
名無しはおぼろ豆腐の器を手に、私を見て顔をしかめた。
「名前がないでしょ」
「ないとは言っていない」
お?
名無しは眉間にしわを寄せる。しかし、それを見る私も皺を寄せる。
名前、あるんかい。あるならはよ言えや。
……いや、違うか。さっき聞いたときは「知らん」と断言していた。ということは、これが今回の記憶なのか?
ふむ。
「じゃあ、なんて名前なんです?」
私が聞くと、名無しは視線を落とした。しばらく、そのままどこかを見つめる。深い記憶を探っているようだ。
彼は息を吐く。ゆっくり目を閉じる。その感情は、よくわからない。懐かしそうでもあり――うんざりしているようでもある。
「クロ」
「は?」
「クロ、と呼ばれていた」
「犬じゃん」
しかも、おそろしくシンプルなネーミングセンス。名無しの全身黒服からとったとしか思えない。このセンス、私とタメを張る。
「……まったくな」
名無しは諦めたように息を吐く。犬の自覚はあるのか。
が、彼はそれを受け入れているらしい。
「それでも、我は長らくクロだった。呼ぶなら、そう呼ぶがよい」
人を犬の名で呼ぶのは、なんだか妙に倒錯的だ。いいのかなあ。
いや、いいや。考えてみれば人じゃないや。
じゃあ、しかたあるまい。
「クロ」
呼び慣れない名前は、いささか違和感があった。
だが、この名前に、名無し――もとい、新生クロが顔を上げる。本当に犬みたいだな。
「わかりました。いいでしょう」
ぐ、と右手を握りしめ、人差し指を立てる。その指先を、私はまっすぐ目の前の男に向けた。
よし!
「じゃあ、クロ。――――今日からお前は、クロだ! よろしく!」
黒い瞳のクロ。彼はゆっくりと瞬き、私をじっと見つめている。
ぎょっとするほど美しい顔は、今はまるで子供のようだ。頼りない瞳の端がかすかに滲む。
彼は浅く息を吐き、くしゃりと顔をしかめ――――。
「ああ、よろしく、ミノル」
忘れた記憶を思い出すように、ずっと私を見つめていた。
……ん?
私、名前を言ったことあったっけ。