36.海へ
第五次遠征開始。
「うおおおおお! 死ねええええ!!!」
ガツン、と斧を振り下ろせば、「クエー!」と聞いたことのない悲鳴が聞こえる。
鹿ってそんな声で鳴くんだ!?
そもそも、草食動物のくせに群れて襲ってくんな!
バンビが歯をむき出しに飛びかかってくるのは思いのほかトラウマになる。
しかし、そのかわいいバンビちゃんの首を、私は斧で叩き折るのである。
折る。
鋭さの足りない石斧は、切るじゃなくて折るのだ。
倒れた鹿は、五、六匹。最後の一匹の目玉を、ニワ子が突く。あの子ほんと怖い。小さな体で、一番ダメージが与えられるところをよくわかっている。
しかし、とどめを刺せるのは私だけだ。目玉を失くして暴れる鹿の首に、私は斧を叩き込む。
「うおおおおお!」
ガツン。べきょっ。ばたり。
はー、返り血!
最後の一匹を倒した後、私は刃こぼれした斧を片手に、現場の惨状を見回した。
倒れ伏す鹿たちと、散乱する大豆。血と体液にまみれた川原。川は赤く血に染まり、下流へゆるゆると流れていく。
片羽を折られたニワ子。うつ伏せたまま動かない名無し。片目を鹿の角に潰された、隻眼の私。
今回も駄目だったよ。
第五次遠征も失敗。
朝早くから拠点を出発し、歩くこと四時間。といっても、時計がないから太陽による判断だ。
東の端にあった太陽は、いつの間にか、天頂近くまで来ていた。初秋から始めた海への遠征は、すでに四度の失敗を経て、季節を晩秋へと変えていた。
そろそろ、初雪が降りはじめる。今回も失敗となると、次に行けるのは来年か。
大豆をばら撒きながら川沿いを下る道のりは、想像以上に厳しい。
なにせ、大豆を除く世界中のすべてが敵。大豆による獣避けも、大型獣には効果が薄い。見晴らしのいい川沿いの道を歩いていれば、熊やら鹿やらばかりが襲い掛かってくる。
中でも、鹿は厄介だ。熊と違って数が多い。これまで四回の遠征中、三回は鹿の襲撃による戦略的撤退だった。
拠点にいる間は、ここまで襲われなかったんだけどなあ。大豆密度の差だろうか。それとも、一時期触手が居を構えていたせいで、大型獣が全体的に減ったせいだろうか。
あるいは単純に、このあたりが鹿の生息域なのかもしれない。
このあたり。
川幅が広まり、流れが穏やかになった山の裾野。拠点周辺よりも木々の密集具合が減って、代わりに背の高い草が増えている。
ススキ、ブタクサ、アザミの花。見覚えのある植物も、ちらほらと目に入る。拠点付近の植生とは少し異なっているらしい。道はなだらかで、急な傾斜も、もうほとんどない。
たしか前回の遠征時も、この辺で鹿の群れに出くわし、引き返す羽目になったはずだ。
鹿の群れは撃退したけど、名無しが死んだおかげで、戻らざるを得なかったのだ。この男、触手の時は最強でも、人型時の戦闘能力がまるでない。かといって危機感がなく、ころっと死ぬから厄介だ。
じゃあ置いて行こう、と思えないのも輪をかけて厄介だ。
だってこの男、一人にしたらなにをするかわからないし……。帰ってきたら勝手に大豆を食べ尽されたり、しそうじゃない? それはニワ子にも言えることなんだけど。
もしも私が一人で遠征に出て、うっかり死んで数年帰れなくなったとき。ニワ子や名無しを置いて行ったら、ストックしている大豆が全滅していそうだ。だから、死なばもろともと全員道連れにしているわけだが、こうも名無しが死ぬんじゃたまらん。
今回も死んでるし。
と、うつ伏せの名無しを突いてみる。
……お、反応した? 生きてる?
「なんと……野蛮な……」
生きてた。肩をぴくぴくと震わせている。左手あたりが血まみれだけど、この感じだと再生するかな?
「ニワ子、大丈夫?」
「なんとかね」
私の呼びかけに、ニワ子は無事な方の羽を持ち上げる。かなりきつそうだけど、命に別状はないようだ。
おお、珍しい。この時点で全員生存。ということは――――。
「まだいけるな!」
「嘘でしょ!?」
圧倒的ニワ子の反発。いやだって、今までで一番進めたわけだし。
「もう満身創痍よ!?」
わ、ニワ子難しい言葉知ってる。すごい。
とほのぼのしている場合じゃない。ニワ子は実に論理的に私を諭してくる。
「だいたい、この状態で進んで、また襲われたらどうするの。あたしもあんたもボロボロで戦力半減だし、そもそもこいつどーすんのよ!」
こいつ、とニワ子は名無しを指し示す。鶏にもこの扱いか。
「我はもう動けぬ。貴様らが運ぶが良い」
「こいつ運んで、戦えるわけないじゃない!」
うーん、お荷物。しかしニワ子の言い分もごもっとも。せっかくここまで来たのにもったいないけど、帰る他になさそうだ。
「……わかった。ちょっと休んだら、山に戻ろう」
仕方ない。せめて戦利品として、鹿肉だけでも調達しようか。と、しゃがんだときだった。
カチ、と耳元で音がする。
んん? 聞きなれない音。
カチカチカチ。
音とともに、羽音が聞こえる。虫の小刻みなはばたきだ。最初は一つだったのが、だんだん増えてきている気がする。
この音。聞きなれないけど、聞いたことはある。
これって……。
見たくないけど、そっと私は、音の方向に目を向ける。
はい。やっぱりスズメバチ。
無数の黄色い巨体が、私の背後に群れをなしている。
スズメバチのなわばりに入ってしまったのか。それとも大豆に惹かれてきてしまったのか。などと考えている余裕はない。どこをどう考えたところで、穏やかには済まない相手だ。
「に、ニワ子!」
「え、なになに? 虫?」
あっこの子スズメバチ知らない。
暢気な足取りで私の方へ近づいてきて――――。
それがきっかけになった。
ブブブブブブブブブ、と耳障りな音がする。しかし、それさえも気にかける余裕はない。
一斉に襲い掛かってきた蜂を背に、私はニワ子を片手で抱え、名無しの体を引きずりながら、無我夢中で逃げ出した。
〇
で、結局。
どこをどう走ったか知らないけど、とりあえず海についた。
満身創痍である。
初手で蜂に囲まれたせいか、残念ながらニワ子はご臨終だ。
名無しの方は、どこかで落としてきてしまった。
こっちも必死だったし、だいたい女手一つで大の男を運ぶなんて無理に決まっている。死んでもいいけど、死に過ぎないでいることを祈るしかない。
なにより問題は、帰り道がわからないことだ。
季節は晩秋。海風が冷たい。
波の音が絶え間なく響く海辺で、私は呆然と立ち尽くした。
どうすんだこれ。