23.VS熊
熊。
熊は無理。
さすがにどうやっても無理。
倒れた私の体を、熊が前足で踏みつける。押さえつけるという感じで、そこまで力が入ってないっぽいけど、それでも内臓飛び出そう。
ついでに顔面がやばい熱い。さっきまで感じていた寒気なんて吹っ飛ぶくらいの熱を持っている。
顔に当てた手には、あるべき鼻の感触がない。どこ行ったのかと思ったら、私をひっかいた熊の爪に引っかかってる。エグいグロい。自分のパーツだと思うとなおさら気持ち悪い。
顔の傷からは血があふれ出して、抑えている手も顔も濡らしていく。目にも入って、目の前の様子もよく見えない。鼻から喉に逆流して、口の中にも血の味がする。息をしようとすると、喉の奥でゴポリと音を立てる。うわこれ、息ができないじゃん。
熊は私を押さえつけたまま、威嚇するように周囲を見やった。
そして、洞穴を揺らすように大きく吠える。
ニワ子と水汲みは?
まったく見えん。
逃げろと言おうにも、喉の奥がゴボゴボ言うだけだ。まあ、わざわざ言わなくても、逃げるべきなんてわかりきっているとは思うけど。
思うけど。
「は、は、は、離しなさいよ!!!」
甲高い少女の叫び声が響いた。同時に、私を押さえつける前足の力が弱まる。
私は慌てて熊の下から転がり出ると、目を擦って顔を上げた。
「この! この!! なんてことすんのよ!!」
目に映るのは、熊に飛びかかるニワ子の姿だった。羽を広げて精いっぱい体を大きく見せ、鋭い足で熊の顔に掴みかかる。
虚をつかれた熊は、前足を上げたまま、ぽかんと口を開けて戸惑ったように立ち尽くしていた。
ナイス、ニワ子!
こんなん惚れるわ!
熊の注意がニワ子に向かった隙に、私は大豆壺に駆け寄った。蓋を開け、来年の種蒔き用大豆を握ると、熊の顔面に向けて思い切り投げつける。
大豆の大半は、熊の厚い毛皮に弾き飛ばされるだけだ。だが、数粒は熊の口の中へ入る。
大豆は体内に入ることで、より強い効果を発揮する。狼や木の例に倣えば、あの熊も七転八倒するはずだ。
熊は大豆を飲み込むと、一度動きを止めた。ぎょっとしたように目を見開き、口を閉じる。
そして次の瞬間。
ひときわ大きな声を上げると――――苦しそうに暴れはじめた。
頭に張り付いたニワ子をはたき落とすと、熊は前も見えない様子で、洞穴内を無我夢中で駆けまわる。壁にぶつかると向きを変え、また別の壁に向けて走り出す。
熊がどこかに当たるたび、壁が揺れ、壺が割れ、洞穴内がめちゃくちゃになる。狭い場所で弾丸のように暴れるものだから、避けることも難しい。
考えてみれば、木の暴れようはひどいものだった。三日くらい傍に近付くことのできないありさまだったのだ。
動けない植物でああなんだから、動物だったらなおのこと。その上、狭い洞穴の中。これは紛れもない判断ミスである。
やっちまった。
と後悔しても手遅れだ。
どうにかして熊を排除しないと、いずれは弾丸みたいに駆け回る熊に踏みつぶされる。
あるいは、このまま大豆効果が切れるまで逃げきれたとして。
空腹の熊なんて、無害化したって危険なことには変わりないよね。
死んで越冬もありかなーなんて頭にちょっとよぎったけど、よく考えたら熊って自分の巣穴に獲物を持ち帰るよね!
ということは、間違いなく生き返ったときは熊の巣穴なわけで。どう考えても冬眠中の熊は空腹なわけで。
触手地獄の再来なんて二度も耐えられるわけがない。
しかも今度は、死んでいる間に移動して、元の洞穴への戻り方もわからなくなるわけでしょ?
いくら命のストックが億単位であるとはいえ、こんな世界じゃいくらあっても足りない。
そうなるともう、ここで熊を仕留めるほかにないわけだ。
でも、どうやって?
壁に立てかけられた手槍を取ってはみるものの、これであの厚い毛皮を貫けるのか?
頼りのニワ子も、伏したまま動かない。
あおむけに倒れたまま、微かに腹が上下しているところから、どうにか生きていることがわかる。
あとは……そうだ、水汲みは?
水汲みは暖炉の傍で、戸惑っているようだった。
いぶかしそうな顔をしながら、目で熊の動きを追っている。
「これは……我はどうすればいい……?」
などと言っている間にも、熊は暴れまわっている。壁にぶつかってよろめいた熊は、また向きを変え、今度は水汲みのいる暖炉の方へ駆けだした。
しかし、水汲みは動かない。
「アホ――! 逃げろ――――!!」
私が叫ぶと、水汲みは悠々と腕を組み、首を傾げた。
「逃げろと言われても」
なんで余裕なの!?
もしかして、仮にも神だから、熊くらいどうということもないのか?
「我はここから離れたくない」
「じゃあ倒せ!」
「うむ」
水汲み――――いや、神は当然のように頷いた。
そして、突進してくる熊に体の向きを変える。熊の勢いは緩まない。
そのまま両者は追突し、神は熊に跳ね飛ばされた。
うーん、無能!
水汲みは熊の体当たりをもろに受け、倒れたまま動かない。せっかく作った暖炉は半壊し、レンガが崩れ落ちてしまった。まだ火は残っているようで、落ちてきたレンガをじりじりと焼いている。
熊が別方向に走っている隙に、私は水汲みへ駆け寄った。倒れて動かない水汲みの生死を確認する。
ざっと見、外傷は見当たらない。
呼吸チェック。なし。
脈チェック。なし。
閉じた目をこじ開けて瞳孔チェック。開いてますね。
死亡確認。よっしゃ、ざまあみろ!!
などと嗤ってはいられない。
熊が今度は、私にめがけて走ってきた。
慌てて熊の軌道から身を反らし、そのまま熊へ手槍を突きつける。
が、当然と言うべきか、まったく熊には刺さらない。それどころか、槍の先端がへし曲がり、使い物にならなくなってしまった。
その間も熊は止まらない。避けた私の背後――作ったばかりの暖炉にぶつかり、今度は完全に破壊した。
暖炉の中では、未だ炎が燃え盛る。熊はおののき、わずかに身を引いた。
さすがに野生動物。火にはためらいがあるらしい。
壊れた暖炉の先には、外の世界が広がっている。熊をこのまま外に逃がせば、きっともう、戻ってくることもないだろう。
私たちは満身創痍だ。私の顔は剥がれ、ニワ子は倒れ、水汲みも死に、洞穴内はめちゃくちゃにされた。
暖炉の火を避け、吹雪の外に出してやればいい。それだけだ。
――――いや。
だけど、私の心が否定する。
荒れた洞穴。壊れた暖炉。伏したままの水汲み。そして――――。
横目でニワ子を見やれば、よろよろと立ち上がる姿が見えた。白い羽に赤が滲み、もう助からないと見てわかる。
ニワ子は私を見上げると、きゅ、と嘴を結んだ。あの戦闘民族め。いいだろう。
ここまで虚仮にされて、私だって黙ってはいられない。
こうも大怪我したら、どっちにしたって死ぬんだしね!
「死なばもろともよ! 死になさ――――い!!!」
ニワ子が声を張り上げ、熊に向かって飛びかかった。腕も広がらない。高さも勢いも足りない。だけど、熊を驚かせるには十分だった。
熊は驚き、それから威嚇しようと口を開いた。吠え声を上げるために、限界まで開かれた口――――それを待っていたのだ!
燃え盛る火の中には、壊れた暖炉のレンガが落ちている。私はよく焼けたレンガを鷲掴み、熊の口の中に押し込んだ。
反射的に熊の口が降りてくるが、入れちまえばこっちのもんだ。どうせレンガでやけどして使い物にならないんだし、無くなったって問題ない。
なので、今は引っ込めるよりも、押し込むことを優先する。熊の喉の奥にレンガを落とすのと、熊の口が完全に私の腕を噛み落とすのは、ほとんど同時くらいだった。
熊はすぐさま吐き出そうとする。しかし、出てくるのは私の腕くらいだ。腹の中まで落ちたレンガは吐き出せず、熊の体を内側から焼く。
熊はしばしのあいだ悶絶し、ぴくぴくと震え、それから動かなくなった。
吹雪の吹き込む洞穴の中。
立っているのは、私一人だった。
最後の力を振り絞ったニワ子は、今度こそ動かない。
無能は死んだきり。
熊も泡を吹き、もはやピクリともしない。
…………あれ、私、もしかして孤独?