1.生大豆(2)
あんまりな現実から目を背け、すべてを投げ出し眠りについたその翌日。
指が生えはじめていた。切断口からちょろっと覗く新しい指は、他の指よりも短く、第一関節ほどまでしかない。未成熟なその指はたいへん気持ち悪いが、きちんと感覚がある。曲がるし、物も掴める。
…………無敵か?
朝の光差す洞穴の中、私は呆然と考えた。
これってもしかして、絶対死なないやつ?
「――――あ、あいたたたたた……!?」
あ、違う。足いたっ! 痛い!!
――これ蛇毒だ!
蛇の噛み跡はふさがったけど、毒は残ったまま。癒えた傷口を中心に赤紫に腫れ上がっている。触ってみるとぷよぷよと水風船のような弾力があり、キモイしヤバい(語彙喪失)。
――毒は残るんだ……。
ふーむ、と私は腕を組む。
つまりはこんな感じだろうか?
大きい怪我でも治るけど、指みたいに欠損すると、治るのに時間がかかる――と言っても、翌日には生え始めているんだけど。
毒の類は普通に残る。あ、でも草の毒っぽい足裏の腫れは治ったから、これも治りが遅いだけかな。
で、どっちにしろ痛みはある――と。
腕を噛まれたら噛まれた分だけ、指が取れたらその分だけ、痛いものは痛い。そのせいで、自分の腕を切って確かめてみようという気がわかなかった。
それに、たしかに目の前で傷が治るのは見たけど、次も治るとは限らない。今回一度きりかもしれないし、回数制限があるのかもしれない。絶対に、どんな傷でも治るって確証もないのだ。
死ぬほどの傷を負えばどうなる? 脳みそがつぶれたらどうなる?
もう戻らないかもしれない。確認しようがないからこそ、慎重に考える必要がある。
水滴が一つ、天井からしたたり落ちる。
岩の地面は冷たくて固く、夏らしからぬ空気と相まって、私の体を震わせた。
ほぼまる一日食事をしていないせいで、空腹を感じている。迫りくる危機は、物理的な怪我だけではない。
非現実めいた状況だけど、感覚は生々しく私を襲う。
たとえこれが夢だとしても、あるいはなんらかの妄想、幻覚だとしても、感覚が確固として存在する以上、無為に時間を過ごすわけにはいかない。なにもしないままで、ここから抜け出せるという保証だってどこにもないのだ。
だから私は、この現状を認めなければいけない。
そして、どうにかして今の危機的状況を打破する必要がある。
〇
などと言いつつ、サボり呆けた大学生に、脳みそなんてあるわけがなかった。
あるのは大豆とこの身ひとつ。湿った洞穴のおかげで、水だけはどうにかなりそうだけど、岩壁の水をぺろぺろすると、人間をやめたような悲しみがある。
でもなー、外に出たら野犬がいるし、この感じだと他の生き物も襲ってきそうだし、出たところで助けがいるとも限らないし。そうなるとこの中が一番安全っぽいんだよね。
だいたい蛇毒のせいで、今は足がまともに動かないのだ。赤紫のあれは左足の膝下一体に広がって、曲げることも難しい。感覚がなくなってきて、痛みがないのは助かるけど、むしろこれってヤバい兆候なんじゃないの?
そうは思っても、対処法なんてわからない。傷口から毒を吸い出すにしたって、その傷はふさがっているわけだ。そも、ふくらはぎの裏を噛まれたんだから、どんなに頑張っても自分で吸うには無理がある。
じゃあ、足のどこかに自分で傷口作って、そこから吸い出せば? いやいや、道具がないし。傷が治っても毒が治らないってことは、むしろ大怪我よりも毒の方がやっかいなのか?
ま、でも足の裏の植物の毒もどうにかなったんだし、こっちも放っておけば治るっしょ。
それより今一番の問題は、なんといってもトイレでしょ。
今のところ、なにも食べてないから出せるものもろくにないけど、それでもなんやかんやと不要なものは出たがるわけで――。要するに、いい加減我慢の限界なのである。
しかし、この洞穴は小さいうえに、出口が一方向にしかない。安全第一だからって、この中でやらかしてしまったら、その後はずっと汚物君と同居生活。身の安全は保てても、精神的の安寧ははじけ飛ぶ。
かといって、外で無防備に尻まる出しにするわけにもいかない。そっちは物理的な死が待っている。
うーん……。
――などと、トイレなんぞに頭を悩ませていた自分を張り倒したい。
そんなことより、もっと気にするべきことがあるだろう。自分でも気がついていたがな!
日が高くなり、本来なら気温の上がるはずの昼頃。
私は洞穴内で体を丸めて震えていた。得体のしれない寒気に、全身鳥肌が立つ。だけど頭と左足だけ猛烈に熱い。全身は重く、身を起こすことも難しい。風邪に似た症状だけど、風邪でないことは重々承知していた。
――毒を甘く見ていた。
もうろうとする熱の中、私は後悔とともに、眼前に迫った死を感じていた。
〇
だけど死にたくても死ねないものである。
熱で寝込んで数日。
思い返したくもないので、この濃厚な数日間をダイジェストでお伝えすると、こんな感じだ。
・寝込んでいる間に、足が壊死した
・膝から下が腐り落ちて、一時的に骨だけになった
・そのあと生えてきた
ちなみに、腐った足はまだ洞穴内にある。腐っているから腐臭がするし、もうトイレとか言っている場合じゃない。結局、汚物君との同居生活からは逃げられないのだ。
そして、そんな自分の足のなれ果てを横目に、私の左足はちゃんとある。
いかに鈍感な私だって気がつく。
いくらなんでも、この光景を見て平静でいられるほど、私は剛毅な性格じゃない。
私が冷静でいるのは、この身体回復能力と同じようなものなんじゃないだろうか。
気が狂いそうになっても、強引に正気に戻される。そんな奇妙な力が働いているんじゃないか。
この体の回復も、正気を保っていられることも、今の私には決して救いではない。
それはつまり、死んでも逃げられず、気が狂うことも許されず、痛みは感じ続け、恐怖は覚え続ける。
どうすれば終わるのかもわからない。終わりがあるのかもわからない、私を苦しめ続けるだけの、呪いと変わりない。
いったいどうしてこんな目に。
いったい誰がこんなことを?
私はどうやったら救われる?
逃げる方法は、果たしてあるのだろうか――――。
――としんみりしたところで、いったん思考をストップ。
これはいつまで考えても答えが出そうにないので、もっと直近の、解決できる問題から対処していく必要があるはずだ。
蛇毒で地獄を見て、私もかなり反省した。
あんまり安易に現状を考えてはいけない。ここは平気で死ぬほどのことが起こるし、なのに死ねない恐ろしい場所だ。今後のことを考えて、もっとまじめに、深刻に状況を改善する方法を模索しなければならない。
幸いにして、今の私は五体満足だ。
毒で苦しんでいる間にも、指は生えそろい、傷の類も回復した。
疲労と空腹は回復しないけど、とにかくこれで動くことができる。
活動できるようになった私が真っ先にしたのは、散らばった大豆をかき集めることだった。
日のあるうちに、洞穴中の大豆を探し出し、ひとまとめにしてからその数を数える。
その数、実に五百粒。三百を越したあたりから億劫になって、ちょっと数えるのが適当になったけど、たぶん五百前後はあるだろう。
数にすると結構あるように見えるけど、食料として考えるとぜんぜん足りない。五百あっても、せいぜいどんぶり一杯分程度。数日持つかどうかだ。
それに、大豆をそのまま食料としてしまうと、現在の洞穴の大豆バリアが消えてしまう。そうなれば本当の地獄だ。野犬に襲われ、首を噛まれても食べられても死なない永遠の苦痛が待っている。
となるともう、選択肢は一つ。
増やすしかない。
植えて育てて収穫して、大豆の数を増やすのだ。