19.VSうねうね
残酷描写あり
秋に足を踏み入れた森は、豊かな実りを見せていた。
頭上には、まだ青いドングリが鈴のように鳴っている。花が落ち、実が膨らみ始めたヤマボウシ。足元には、熟した野イチゴの類が見える。
美味しそうだけど、食べたら全部毒なんでしょ。知ってる。
来た道がわかるように、森では草を刈り進む。おかげで進みはすこぶる悪い。まだ、振り返れば元の洞穴が見えるくらいだ。
そうそう、私視力はめちゃめちゃ良いです。二.〇を割ったことがない。ついでに言うと、虫歯もないし、持病の類も一切ない健康優良児だ。スギ花粉以外はアレルギーもない。
見たところ、このあたりは広葉樹が多いみたいだし、花粉症の恐れもなさそうだ。
などと思いつつ、延々と草を刈る。ようやく洞穴の姿も見えなくなった。四方八方森に囲まれているが、刈られた草の道があるので、帰り道は一応わかる。
この辺の草は、恐ろしいほど刈りやすい。今まで出会って来た草は、どれもこれも抵抗が激しく、全身をくねらせたり噛みついたりと、草らしからぬ暴れ馬だった。
だけど、この森の草はほとんど抵抗しない。草に紛れた虫もいないし、足を刺すミミズもない。
そういえば、頭上の木々が妙におとなしい。
いつもなら、虫を落としたり根で足を引っ掛けたりと、いやがらせに余念がないはずなのに。
大豆効果……でもなさそう。大豆は巨体ほど効きが悪い。草ならまだしも、私の背丈よりも高い木では、一粒二粒の接触など効果がないはずだ。
――――じゃあ、なんで?
疑問に思ったときには、手遅れだった。
洞穴から離れた森の奥。ふと、木々の切れ目に出くわした。
そこは、円形の広場のようだった。だけど、自然に作られた場所じゃない。
雑草すらも生えない地面が、そのことを教えてくれる。
むき出しの地肌の上には、ひとつの巨木が生えていた。
森の木々を圧倒するような、異常な木だ。無数の幹が絡み、捻じれて枝を広げている。
なのに、葉は一切茂らない。裸の木の枝は、普通の木よりも色濃く、まるで黒に近い――――紫色だ。
おぞましい。
それしか感情が浮かばなかった。
あれはおぞましい存在だ。人の世界にはあるまじき、異形の超越者――――。
あ、これSAN値削れてるやつだ。
ヤバいと思うのに、体が動かない。恐怖はもちろんあるんだけど、それだけじゃない。あの気色悪い木に対する、畏敬とか魅力とか、なんだか感じちゃいけないものまで感じている。
一時的狂気に入ったのに、心が冷静さを保ったままのような、ひどく中途半端な状態だ。
この世界で身に着けた特殊能力の一つ、『絶対発狂しないウーマン』が変に働いちゃってる感じ。恐怖に偏って逃げ出すでも、魅力を覚えて突撃するでもなく、どっちにも転ばずに立ちすくんじゃってる。
でもこれ、絶対『逃げる』の一択でしょ! はよ逃げよ! 今ならまだ間に合う!
あんな気持ち悪いやつに、魅力なんてないから! それは魅了とか、そっち系だから!
必死で心を化け物から引き離し、足を引いたときには、すでに『それ』は動き出していた。
捻じれた木が、逆側にひねり始める。絡み合う無数の幹がほどけ、花開くようにその『手』を広げた。
や、やばい……!
魅了を振り切り、慌てて森へ逃げ出そうとする私に、化け物の手が伸びてくる。黒いほどに濃い紫の手が、私の足を絡めとり、私はその場につんのめった。
顔面から転び、ぶつかった地面の土は、ねちょりとしていた。あの化け物の体液だ。
――――ああ、なるほど。
この辺りの木々が大人しかったのは、そういうわけか。
小動物がかからなくなったのも、大型獣がいなくなったのも、すべてはこの化け物が近くに来ていたから。
そんなこと、今さら理解しても遅い。
私の体は触手に絡み取られ、引きずられていた。
背後には、口を開いた触手の本体がある。
指で土を掴み、もがいて暴れても、びくともしない。
無駄な抵抗を続ける間にも、私は触手に近付いて行く。
息がかかる。血の匂いがする。無感情な化け物のおぞましい存在感がある。
でも、もうどうすることもできない。
えっ慢心していたから?
してたよ。
大豆もあるし、どうにかなるって考えてたよ。なんだかんだでここまで来たし、何とかなるって思ってたよ!
でもこれ、慎重だったからどうにかなるレベルじゃないじゃん!
背後を見ると、無数の触手の中央に、大きく開いた化け物の口が見えた。
口の奥は暗くて見えない。だけどその口の中に、人のような歯と舌が見える。
鋭くもない前歯。臼のような奥歯。足先がもう、歯の内側にある。
生きたまま噛み砕かれた狼のことを、私は少しだけ思い出していた。
こんな気持ちだったのだろう。
こんな痛みだったのだろう。
触手の口の中、私は自分の半身が、ゴキリという音とともに失われるのを感じた。
〇
化け物は私を咀嚼し、飲み込む前にペッと服だけを吐き出した。
その際に、骨だか肉だかも紛れていたのだろう。
私はいくらもなく、服の傍で再生した。
だけど、中途半端な再生なんて、余計に辛いだけだ。
触手はすぐに私を捕まえて、また口に放り込む。そのたびに私は死に、生き返り、また死んだ。
何回死んだんだろう?
もうやだ。
頭がおかしくなりそうだけど、おかしくならない。
もうやだ。
二度三度と死を繰り返すたび、体の再生が遅くなっていく。再生しかけの体でも、化け物は躊躇なく私を口に運ぶ。痛い。痛みはいつまでたっても慣れることがない。
もうやだ。やだやだやだ!
いっそ狂ってしまえばいいのに。だけど私の頭は、いつまでたっても化け物への恐怖と痛みを確かに知覚し、この先の逃げようのない絶望を理解させる。
あはははは! って笑いながら死んでいける方が絶対に幸せだ。痛みや死に慣れることができるなら、少しはましだったかもしれない。
もうやだ。
やだ。
痛い。やだ。怖い。痛い。助けて。誰か。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いやめて痛いもう死にたくない――――――!
生き返る場所は、化け物の口の中だったり、今回みたいに、口の外だったりする。
もう、自分がどこから再生しているのかわからないや。
私はすぐに捕まって噛み千切られ、また半分になった。運がよかったのか悪かったのか、食われた半身が少なめで、死ぬより先に体の回復がはじまっている。
私は化け物から逃れるように、上半身だけで這いずるように逃げ出した。
もう、死んで五、六度くらい。死んでいる時間がどんどん長くなり、体の回復も鈍い。これが、逃げる最後の機会かもしれない。
だ、大豆…………。
腕だけで這いつくばっても、化け物から逃げきることはできない。
もしかしたらの一縷の期待をかけて、私は捨てられた服に向かった。
唾液でべとべとのジーンズのポケットには、護身用の大豆が入っていた。
服を捨てたのは、もしかしてこれがあるからじゃないか?
化け物は大豆を恐れて、服だけを吐き捨てたのでは?
死んでいる間に、私はそんなことを考えていたのだ。
私はジーンズから大豆を握れるだけ握り出し、渾身の力で化け物に投げつけた。
コツンコツンと大豆が化け物に当たる。
いくつかは、大きく開いた口の中に入る。
だが、びくともしない。
ああ。
ああ、もう……。
そんな気もしてたけど、これで本当に絶望だ。
ああ…………。
化け物がまた、私を捕まえ、なんの情もなく口に放り込む。
触手に捕まれた腕が、口の中の私と歯で切り離される。
激痛に声のない悲鳴が出る。
叫んだところで、誰にも聞こえない。誰も助けない。森にこだまするだけだ。
臼歯が私の頭を乗せる。
もう一つの歯が迫ってくる。
あと何度死ぬんだろう。
それとももう、永遠にこのままなんだろうか。
もう、やだ。
もう………………。
う、
うわあああぁああああああああああああああああああ!!!!!
誰か!
誰か助けて!!!!
痛い! もうやめて!!
許して!!!
やだやだやだやだ!!
嫌だ、やめて、や――――。
誰も聞かない。誰も助けない。
私はあと、何度死ぬの?
臼歯に挟まれ、私の頭がプチンと潰れた。




