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1.生大豆(1)

 洞穴の外からは唸り声が聞こえるけれど、ひとまずここは無事らしい。

 となれば、まずは現状の確認である。黙って怯えているだけだと発狂しそうだしね。

 むしろ発狂した方が幸せかもしれないが、今時点で未発狂なあたり、そんな未来は来ないのかもしれない。


 そういうわけで身体チェック。

 服は真夏の大学生さながら。Tシャツにジーンズ以外に特筆することがなにもない。いや、ある。全身血まみれで、重いしねっとりしている。

 その原因は、主に右腕の傷である。外の光に透かして見るに、ヤバい傷口である。狼の歯型に食い破られ、骨までは達していないものの、肉がもろ見えで語彙力が死ぬほどヤバい。指二本食いちぎられ、中指は皮一枚、残っているのが不思議なくらいだ。

 足は裸足で、切り傷だらけなうえに膿んでいる。これってたぶん、普通に草で切ったという状態じゃない。毒草でも踏んだのだろう。傷口の色も変わっていて、やけどみたいにひりひりする。

 それから、リスに噛まれた耳。血は止まっているけれど、触ってわかるくらいに千切られている。ピアスの穴すらあけたことないのに、大穴が開いてしまったものだ。

 虫の体当たり――はたいしたことない。代わりに、左足にある蛇のひと噛みはちょっと不味そう。あの場を逃げるときはどうにかなったけど、ここにきてほとんど動かない。熱を持っているのが自分でもわかるし、傷口付近が赤く腫れあがっている。触った感じ、傷口の歯型は二つ。二つってことは、毒持ちの蛇だ――ってどこかで聞いたことがある。

 これでもかという満身創痍。相当失血して血も足りないし、痛みすぎてもう痛いのかもわからないし、体だって動かせるのは、首と左手、右足くらい。

 どうしてこんなに冷静でいられるのか、我ながら不思議だ。まあ、追い詰められすぎると却って頭が働くこともあるし、こうなった以上は頭だけでも冷静でいないといけないのかもしれない。


 その頭もチェック。

 私の名前、結城ゆうきみのる、オーケーオーケー。

 性別女。年齢は二十歳目前の十九歳。親元を離れて一人暮らしの大学二年生。家族構成は両親、兄ひとり、弟ひとり、愛犬一匹。得意科目は理科だったけど、大学に入ってからそう得意でもないと気がついた。

 趣味はネトゲ。好きな食べ物はカレー、嫌いな食べ物は納豆。昨日の夕飯はインスタントラーメン(塩)。

 うーん、記憶はバッチリ。ここに来る直前のことも覚えている。夏の暑さと、突然の激痛。今まで病気らしい病気もしたことがなく、虫歯一つなかった健康優良児だったはずなのに、あれはいったい何だったのだろう。正直、今の全身致命傷だらけよりも、あの痛みの方がきつかった。

 で、それから後。ここに至るまでの記憶が全くない。ここはどこ? 私は誰――かはわかっているな。


 じゃあ次。周辺チェック。

 私のいる洞穴は本当に小さい。六畳一間の私のアパートよりも小さい。壁は三方を岩に囲まれ、一方だけ出口につながる穴が開いている。出口はかなり広く、幅二メートルくらいはあるだろう。外からも内からも丸見えなおかげで、野犬たちがなかなか諦めてくれない。

 内部は湿っていて、水のしたたる音が絶え間なく響く。壁や地面は水に削られたせいか、意外に滑らかだ。地下でもないし、鍾乳洞とは少し雰囲気が違う。こういうのを、風穴というのだとどこかの修学旅行で聞いたことがある。

 空気は冷たく、とても夏とは言えない。これは洞穴の中だからなのか、季節自体が夏ではないのかはよくわからなかった。外に出て、暑いと感じなかったから、私の記憶している季節とは異なっているのかもしれない。

 もしもこれから冬に向かうのだとしたら、私の格好は割と致命的だ。今まさに失血死の危険があるけど、無事に生き延びたとしても、今度は凍死が待っている。

 いや、凍死以前にもっと明確な死の危機があった。

 外の野犬の群れだ。群れは四、五頭くらいで、多少のサイズ差はあるけれど、どれも私の知る犬よりもかなり大きい。

 犬種は――なんだろう。ハスキーに少し似ている? でももっと精悍な顔つきで、全体的に筋肉質だ。毛並みは茶色っぽくて、見た目からしてごわごわしている。

 犬――じゃなくて、もしかして狼?

 野生の狼なんて日本にいたっけ? いたら大騒ぎになってるよね?

 ……じゃあここ、どこ?


 考えてもわからないので、次!

 最後は大豆だ。

 これ見よがしに落ちている大豆を一つ手に取ってみる。指でつまんで光にかざしてみる。かじってみる。固い。

 どこをどうとっても、一般的な大豆だ。しかも乾燥しているやつ。自分で調理したことはないけど、実家にいたころに母が買っていたのを見たことがある。

 特別ななにかは感じられない。大豆以上でも、それ以下でもない。

 しばらく迷ってから、一粒外に放り投げてみた。野犬がキャンと鳴いて、後ずさった。洞穴の入り口に落ちた大豆を、野犬たちが遠巻きにする。

 ――なんなんだこれは。

 いや、本当になんなんだ。いったい大豆が何をした? なぜ野犬はこれほど大豆を恐れる?


 総じて、最初に戻ってくる。

 ここはいったいどこなんだ。


 あれこれ考えているうちに、外は日が暮れかけていた。

 私はぐるぐる回る頭を抱えて、一人腕を組む。自分の置かれた状況が、『ヤバい』以外の何一つわからない。

 ここは日本でさえないのか。どうして私はこんなところにいる。大豆はどうしてここにある。うーんうーんと唸りつつ、頭をもたげたとき、私はふと気がついた。


 腕を組んでいる。

 元気な左腕と、動かなかった右腕を肘から曲げ、重ね合わせている。

 右腕に目を落とせば、斜めの夕日に照らされて、自分の傷口を見ることができた。

 獣の歯型に皮膚がえぐられ、血にまみれたむき出しの肉が見えたはずのその傷は――――今はふさがっている。

 血は止まり、肉の上を薄い皮が覆う。傷跡こそ残っているものの、あの生々しい惨状はない。動かす際に違和感はあれど、痛みさえもほとんどない。


 慌てて、もう一度全身を見回す。

 足の裏の傷は癒えている。蛇の噛み跡もない。食いちぎられた耳たぶ――ある。ちぎられた後もなく、戻っている。

 失った指は、さすがに生えて来ないようだ。だが、傷口はふさがっていて、こちらも痛みはない。


 ――ええ……。


 私は暗くなっていく洞穴の中、声を上げることすらできなかった。

 唖然とする私の目の前で、腕に残った傷跡さえも、じわりじわりと消えて行った。

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