13.猪の焼肉
大物獲ったぞー!!!
という気分にはならず、私はテンション低いまま、穴の中を見下ろしていた。
両腕と上半身にやけども負ったし、痛いし、結局大豆は戻って来ないし。鶏の傷がなおるわけでもないし。
はあ……。
猪は、落とし穴の中で動かなくなった。
念のため穴の外からつついてみたが、無反応だ。石を投げても、火であぶってもピクリともしない。
そこでようやく、私は穴の中に下りてみた。
触ってみると、呼吸をしていないことがわかる。
仮死状態かもしれないから、きちんと殺しておかないとね。
一度穴から出て、黒曜石のナイフを取りに戻ってから、再度穴の中へ。
夜中だから手元が見えづらい。どうにかこうにか喉っぽいところを見つけ、ナイフで削ぐように掻き切る。
猪の毛を掴みながら、ぐ、ぐ、と喉のナイフに力を入れていると、思いがけずするりと毛が抜けた。んん? 脱毛? 換毛期?
他の部分もちょっと探ってみる。頭の方、抜ける。背中の方、ちょっと抜ける。尻の方はあんまり。
……お湯がかかったところが、抜けやすくなっているのかな?
そういう性質でもあるんだろうか。
まあ、その辺は後でいいや。
とにかくとどめだけ刺して、後は陽が昇ってから考えよ……。
というわけで、猪の解体の開始です。
穴の中から引きずり出し、畑とは別の場所に横たえる。事前に大豆土器と折られた茎で周囲を囲んでいるので、雑草の茶々も入らない。
用意するのは黒曜石ナイフと、水の入った土器。火の入ったかまど。あとは解体した後の物を入れるための器をいくつか。
改めて見ると、やっぱりでかいなこの猪。よくぞ倒せたものだと、自分で自分に感心する。
狼もかなり大物だったけど、やっぱりサイズ的には猪より小さくて、スマートさがある。
それに比べてこの猪は、いかにもなパワー系というか、タンクタイプだ。重装歩兵って感じで、安易な大豆が効かないのも頷ける。
この猪に、貧相な黒曜石ナイフで歯が立つのか? などと今さらながら不安になる。
いったい解体までにどれくらい時間がかかるんだろう。数時間? 丸一日? 普通の解体を知らないから見当もつかない。
血なまぐさいだろうし、体力使うだろうし、この時点で憂鬱の極み。
すでにいろいろあって全身血なまぐさい感じになっているけど、それとこれとは話が別。
でも、仕方がないから覚悟を決めます。
こんな大きな猪を腐らせるなんて罰があたるからね。
と、当たり前のように食す前提で考えている。もしかして私染まってきてますかね?
本来の私は、半引きこもりのネットゲーマー。血は苦手だし、痛いのは苦手だし、動物を殺すのなんてもってのほかだった。それがどうしてこんなに逞しくなったのか。
懐かしい日々に思いをはせても、猪の解体ははじまらない。
生き残るためと割り切って、とにかく思うままにやってみよう。
解体に先立って、真っ先にすることはなんだろう?
よく聞くのは、血抜きという言葉だ。
でもどうやって抜くの? どうやったら抜けたってことになるの?
初っ端からわからないから、早々にパス。
大丈夫かこれ。
次は、内臓を抜こうと思う。
魚を捌くときも、内臓は最初に引きずり出すものだ。傷みやすい場所だし、手を付けやすい場所でもある。
手順が合っているかわからないけど、やって損はしないはず。
というわけで内臓の摘出。内臓を捌くには、腹側を裂く必要がある。
昨晩、喉につけた傷を起点に、腹に向けてまっすぐに裂き下ろす。
これ、切れないナイフでやる作業じゃない。地獄みたいな時間をかけつつ、ひいひい言いながらやっとこさ股間まで裂く。
あ、この猪、オスだ。
しかし特に感慨も抱かず、真っ二つに切り広げます。
腹の真ん中に穴をあけた後は、観音開きみたいにべろんと開けられるよう、足の付け根と肩にもナイフを入れていく。骨に沿うように、これまたひいひい言いつつ切る。
この時点でもう、全身血まみれ。そのうえ汗まみれだ。
朝の涼しい時間から始めた作業だけど、すっかり真昼の炎天下に変わっている。休み休みやっていたとはいえ、腹を開くだけでここまでかかるのか。
夜は灯りがなくて作業ができないから、明るいうちにキリのいいところまでは終わらせたい。ちょっとペースを上げなくては。
一休みのあと、気合を入れて内臓を引っ張り出す。
目に映るそれっぽいものは出せるだけ出したけど、どれがどれかはさっぱりだ。パッと見てどれってわかるものが、小腸と心臓くらいしかない。
胃はこれかな? 牛の胃は、昔は水筒代わりに使っていたって聞いたことあるけど、猪も使えるのかな?
と思ったけど、ちょっと水筒にはサイズが小さいな。
取り出した内臓類は、まとめて土器の中にぽい。
あとで洗って、食べられるかどうか判定しよう。
残るは肉だ。あと皮と毛だ。
毛については、昨日のことがちょっと気になる。
もしかして、お湯をかけると抜けやすくなったりしません?
思いついたら即実践。
お湯を沸かしている間、ためしに猪の剛毛を引っ張ってみる。
やっぱり抜けない。そうそう簡単に抜けられたら、そりゃ猪だって困るか。
この毛、保温とかなにかに使えないかな?
と思って全身を撫でまわしてみるけど、剛毛すぎてちくちく痛む。毛皮にしたら滑らかになるかな? でも毛皮の作り方がわからんな。ここまで血まみれに汚して、きれいになるのかしらん。
などとやっている間にお湯が沸いたので、かけながら毛をむしってみる。
黒曜石ナイフと併用しながら、順々に毛をそぎ落としていく。うーん、たしかにちょっと抜けやすくなった気もする。採用。
全身の毛を削いだ後は、体内の洗浄だ。
川の水を汲んで、内臓に水をぶちまけては流し、ぶちまけては流し。取り損ねた臓器や血がどんどん流れ出る。洗っても洗っても終わる気がしないので、適当なところで切り上げる。
で、ここから先が大仕事。
猪の体を解体するのだ。
とりあえず、邪魔そうな頭を落としてみようと思う。
黒曜石ナイフで地道に皮を切っていくけど、これがまたしんどい。切れが悪いだけじゃなくて、肉と血の脂でえらく手が滑る。切り方が悪いのか、ナイフの切れもどんどん悪くなっている気がする。
それでもどうにか頭の肉を落としたけど、今度は骨にぶつかってしまう。
これは……ナイフじゃ切れんぞ……。
腕力では……いや、無理だこれ。あの巨体を支えるだけあって、さすがの骨だ。
だからといって、頭が骨一本でくっついているのもめちゃくちゃ邪魔。ひいひい言いながらここまで落としてきた苦労も無駄になる。
どうしたものか。
ちょっと悩んだ結果、やっぱりパワーで解決することにする。
川原から大きめの石を二つほど調達し、ひとつは猪の首の下にセット。もう一つは手に持って、猪の首の上から思い切りドスン。
石と石に挟まれた骨が軋み、ひびが入るのが見える。繰り返しゴツゴツやって、ようやく頭を落とすことができた。
頭一つでこれ。
これから全身があるかと思うと憂鬱になる。
無心に解体作業を続けて数時間。
とりあえず五分割――つまり、頭・四肢・胴体がバラバラになったときには、もうすっかり夜になっていた。
大豆の守りがあるとはいえ、所詮は茎。
夜になると森の生き物も活発になる。相当な力仕事で疲労もそろそろ限界だ。
猪の体はその場に置いて、腐りやすそうな内臓だけは洞穴内に持ち帰り、今日の作業は終了。
あー疲れた。お腹減った。
だけど私の食事より先に、ちょっと確認することがある。
鶏はまだ、洞穴の奥でうずくまったままだ。
目も開けようとはしない。息はしているけど、浅くて短い。
つややかだった羽毛は荒れ、抜け始めているようだ。
猪に踏まれた傷は治らない。血こそ止まったものの、白い羽にこびりついたまま、少し嫌な臭いを放ち始めている。
鶏の傍には、小さな器が二つある。
片方は水。
もう片方は、あるだけの大豆と枝豆を盛った餌入れだ。
朝のうちに用意した山盛りの餌入れは、少し減っているように思える。私が見ていない間に食べてくれていたのだろう。
そのことに、ちょっとほっとする。食べる元気は、まだあるようだ。
私は鶏の隣に座り込むと、その小さな頭を撫でた。
いつも噛みついてくる鶏も、今だけは大人しく撫でられ続けている。
夏の夜風が、洞穴内に吹き込む。
昼の暑さを忘れるような、冷たい風だった。
〇
解体二日目。
今日も上天気で、あっという間に食べ物が腐りやすそうな気候だ。
鶏の様子は気になるけど、食事と水を与える以外にしてやれることもない。気持ちを切り替えて、猪に集中する。
大まかにパーツ分けはしてあるので、次はさらなる細分化と、その先。肉の処理に移る。
これだけ肉があると、当然ながら一日二日では食べきれない。加えてこの陽気だ。放っておけば腐るのは必定。
だから、保存食にしたいと思う。
ソーセージやハムなんて贅沢は言わない。塩ないし。
とにかく水分を抜くだけ抜いて、乾燥肉にしてしまうつもりだ。
例によって乾物の作り方なんか知らないけど、そこらへんは想像でカバー。
洗濯物的にイメージして、薄くして、風に当てて干せばいいんでしょう?
うん。この巨大な猪を。
ここからさらに細かくして、薄くして、干す。道具は石と黒曜石のみ。作業者、私一人。なお、半身やけど付き。
……正気か?
ひいひいひいひい。
炎天下にやる作業じゃない。
全身から汗は噴き出すし、肉の脂で手は滑るし、黒曜石ナイフは割れて二代目になるし。
半分も解体しないうちから、腕の力が入らなくなった。全身から血と脂のにおいがする。汗くせえ。脳みそ蒸発しそう。
それでもどうにか骨から肉を削ぎ、肉を刻んでいく。
最初は丁寧に、白い骨が見えるように削いでいたけど、だんだんきつくなって適当になる。
肉を刻む方も似たようなもので、最初に比べてどんどん分厚くなり、最終的にはブロック肉か? という大きさになる。気にしたら負けだ。
出来上がった肉は、土器の表面やかまどの上に張り付ける。さんざん草を生で食べてきた身だ。衛生的なことも気にしたら負け。土に直置きよりましだし、かまどの傍なら火で殺菌されるでしょ。
そんなこんなで切り分けて肉にしてみると、元の猪よりもずっとサイズが小さくなった。
骨がかなりかさばっていたみたいだね。後ろ足の骨なんか、ほれぼれするほど太くて丈夫だ。
これ、加工できないかな?
土器より頑丈だし、木の枝みたいに腐ることもない。長さもあるから、刺してよし、叩いてよしの武器になりそう。
なので、骨類も捨てずに一応ストック。肉が削ぎきれていない骨もかなりあるし、食用も視野に入れておこう。
で、肉の方。
少なくなったと言ってもやっぱり多くて、たぶん数キロ単位で肉がある。ブロックみたいな肉が、かまどの周囲をぐるりと囲むだけでは飽き足らず、土器の上もほぼ占拠した。
無駄な板とか器とか、たくさん作っておいてよかった。人生、なにが役に立つかわからないもんだね。
肉のおかげで、食事の心配はめちゃめちゃ遠ざかった。その点は猪に感謝。
代わりに、大豆の方が危機的状況なので、感謝はチャラだ。むしろこの無残な肉姿になっても、まだ憎しみがある。
せいぜい腹の足しにでもなりやがれ。ペッ。
ふと吹いた風の涼しさに、私は作業の手を止めた。
顔を上げて空を見れば、そろそろ日が暮れるころだった。太陽の日が斜めに差し、森が濃さを増している。
――疲れたな。
ナイフを置いて伸びをすると、骨がバキバキと音を立てた。連日の肉体労働で、かなり疲労がたまっているらしい。肉もあらかたバラしたし、残るは頭と前足二本くらいだ。今日はここまでとしよう。
日のあるうちに川の水を汲みなおし、手足と顔を洗う。
脂のぬるぬるが落ちないので、石鹸が欲しい。猪の脂があるから、馬油石鹸の要領で作ろうと思えば作れるかな?
と思えども、その手の贅沢品は調達の優先度が低い。今はとにかく、生存第一。
生存といえば、そろそろ腹が減ってきた。朝起きて枝豆を食べたきり、ずっと作業詰めだったのだ。
で、今は解体した肉がある。
憎い猪のバラバラ死体だ。そろそろ、復讐の仕上げに火あぶりといっても良いのではなかろうか。
私の提案に、私の腹が賛成する。
数か月の雑草生活に、すっかり食欲を忘れていた腹が、久々にぎゅうと鳴ったので、今日の晩御飯は焼肉だ。
日暮れのかまどに火が入り、周囲をぼんやり明るくする。
枯れ枝を投げ入れて火を大きくした後、私は骨付き肉を火にかざした。
たしか、肋骨の骨だったはず。骨を持ち手に火であぶると、徐々に熱を持ち赤い肉が色を変えていく。肉汁がしたたり落ち、ジュッと心地よい音を立てた。
日暮れの野原で、かまどで直火焼き。なんともワイルド。原始的なあぶり焼きなのに、私の腹は期待に鳴りやまない。
肉の良い匂いが食欲を刺激する。ただでさえ空いていた腹が、ますます減ったような気がした。
もう火は通ったかな? というところで火から取り出す。
だいたい四か月ぶりくらいの肉だ。塩がないのが惜しまれるけど、そんなの関係ないほどに体が肉を求めている。
つばを飲み込み、前のめりになりそうな体をおさえ、いざ実食!
いただきまーす!
熱々の肉を噛み切り、口に入れた瞬間に肉汁が広がる。味付けはないけど、血の味だろうか、鉄のような野趣あふれる肉そのものの味がある。
草とは違う、確かな噛み応え。豚よりも少し肉が固いかな。でも、その抵抗もまた心地よい。力を入れて咀嚼し、飲み込んだ感覚は――――。
うん、毒だ。
たまらずリバース。
胃の中身をすべて吐く勢いで戻したのに、全身から脂汗が止まらない。
猪の毒ってなんだよ!