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7.VS狼

 おわってなかった。


 絶対死んだと思ったのに、生きてた。



 理由は今、私の頭の下にもぐりこみ、もがいている鶏がいるからだ。

 この雌鶏が、私の頭と水面とを引き離してくれている。人の頭は重いのだろう。何度も重みに負け、沈んでは浮き上がる、を繰り返している。


 ――げ、解毒……。


 私は力ない体に鞭打って、どうにか右手を動かした。ジーンズのポケットから大豆を掴み出し、のろのろと自分の口元に運ぶ。その些細な動きだけでも半端なくしんどい。何時間もかかった気がする。

 鶏は、その間も私が溺死しないよう、頭を支え続けていた。


 生の大豆を口に入れ、噛むことなく喉の奥に流し込む。

 もやしよりも効果は薄いが、それでも徐々に体に力が戻ってきた。


 苦心して身を起こすと、辺り一面暗くなっていることに気がつく。

 夜だ。

 空には月があり、おぼろに周囲を照らしている。鶏が疲れ切った様子で水から這い上がり、全身を震わせた。ありがとね。かしこいね。頭なでてあげようね。

 噛むなや。




 ともあれ、なんとか生還。

 しかし残念。これでほっと一安心とはいかない。


 月明りの下、低い唸り声が聞こえる。

 常に大豆を所持し、周囲を警戒し、慎重に行動していたつもりだった。

 ――――が、やはりと言うべきか。いつかこんな日が来るとは思っていたが、ついに出くわしてしまった。


 野犬――いや、狼の群れだ。


 狼たちは、ゆっくりとした動きで川原に下りると、私と鶏を取り囲んだ。

 そのまま、じりじりとにじり寄ってくる。私の大豆を警戒してか、足取りは慎重だ。だけど、確実に私を仕留めようとしている。


 ポケットに大豆は、あまりない。

 川原への道のりでだいぶ使ってしまったため、残数は十もないくらいだ。投げつければ一時的に追い払うことはできるだろうが、それだけだ。仕留められるわけでも、致命傷を与えられるわけでもない。せいぜい、ひるませる程度。これでは、洞穴へ戻る間に追いつかれる可能性がある。

 対する狼は、今いるだけで三匹。

 一対一ならまだしも、同時に相手にして勝てる数じゃない。大豆を投げたところで、全匹同時に当てられるコントロールは私にはない。一匹ひるませる間に、他の狼が飛びかかってくるだろう。


 切りぬける方法が浮かばない。だけど、のんびりもしていられない。

 私が初日に見た狼の群れは、もっと多かった。

 放っておけば、他の狼が応援に来るかもしれない。


 どうする……?

 私になにができる? どうやったら逃げられる? 考えろ。


 どうする?

 どうする。


 ――――――どうする。




 息を吐き出しながら、私は一度目を閉じた。

 それから、ぐっと奥歯を噛みしめ、覚悟を決める。

 足元で震える鶏を拾い上げ、ポケットの中の大豆に手を伸ばす。一粒だけは鶏に渡し、残りは手のひらで握りしめる。

 相手は三匹。

 



 人間の身体能力で、他の野生生物に勝っている点は、投擲力だと言う。

 私は運動が得意な方ではないけれど――――十も投げれば一つくらいは当たるだろう。



 狼が動き出すより先に、私はポケットの中の大豆を投げつけた。

 全弾、一匹狙いだ。半粒ていどは直撃し、狼が悲鳴を上げる。

 一匹が怯んだ隙に、私は駆けだした。できれば大豆の道を戻りたいが、月明りではどこを走っているのかも判別ができない。元の洞穴の場所がわからないまま、とにかく走る。

 残る二匹の狼は、間髪を入れずに追いかけてくる。


 私は鶏を頭上に退避させ、残る大豆を両手に握りしめた。

 これは、投げる用ではない。走りながら命中させるなんて器用な真似、私にできるはずがないのだ。

 かといって、逃げ切る自身もない。足は速い方ではなく、半引きこもりの大学生に体力なんてあるはずもない。


 私は確実に襲われる。

 狼は、必ず私に食らいつくだろう。


 だから、その確実性を頼ることにした。



 狼が牙を剥く。すぐ後ろにいることには気がついていた。

 どこから齧ろうか思案しているのだろう。足か、首筋か――――。


 いや。


 私は、大豆を持つ手を握りしめた。背後の狼に向けて、誘うように突き出して見せる。

 狼にとって噛みやすいように――――できるだけ、噛みついてもらえるように。


 狼の視線が、私の動きを追って腕に向かう。狼の喉の奥から、グルルと低い唸り声がする。

 あの狼は、きちんと覚えているのだ。

 ――――この手が、大豆を投げられることを。



 狼の一匹が私に向かって飛びかかる。

 狙いは腕――私の右手首だ。

「――――――ぐうう……!!!」

 痛い。痛い。死ぬほど痛い!


 ――――だけど狙い通り。

 狼は、私の手を食いちぎらんと、私の手首ごと――――大豆を握ったこの手を口に含んだ。



 手首の筋が食いちぎられ、血が吹き出すとともに、私の右手は力を失くした。

 握りしめていた手のひらは開かれ、大豆がぽろりと転がり落ちる。

 手は狼の口の中。転がる大豆は、私の手首と共に、狼の喉の奥へと落ちていく。


 大豆を嚥下した瞬間、狼が断末魔に似た吠え声を上げた。

 体外に接触するだけで悲鳴を上げるような代物だ。この世界の生き物にとって、大豆はいわば毒のようなもの。

 毒を直接体内に摂取すれば、どうなるかなんてわかりきっている。


 狼は甲高い声で鳴きながら、その場でのたうち回っていた。息苦しそうに喘ぎ、舌をだらりとたらし、時折けいれんをする。

 なんなんだこの大豆の威力は。ヤバいものでも入っているんじゃないだろうか。


 と、じっくり観察している暇はない。

 狼はもう一匹いるのだ。

 私は倒れた狼を背に、再び駆け出した。




 残るは一匹。

 最後の狼は、鬼気迫った様子で私を追いかけていた。

 仲間の二匹がやられたのだ。仇討ちでもしようというのだろう。


 そして賢い狼は、私がなにをしたのかも理解しているらしい。

 残った腕で狼の噛みつきを誘導しても、もう同じ手に乗ってはくれない。


 狼は後ろ足で強く地面を蹴ると、大豆を握った左手を避け、私の左腕に噛みついた。


 ――――や、やば……!


 この狼は、私が左手にも大豆を握っていることに気がついていた。

 それでいて、この腕が大豆を投げられることもわかっていた。だから危険な腕を潰してしまおうと言うのだ。

 理解し、予想し、この狼は本当に賢い。


 牙を立て、鼻の頭にしわを寄せ、狼は私の腕を食いちぎらんと力を籠める。私の腕は、痛み以外の感覚を手放し、力も入らなくなる。

 左手が開かれ、握りしめた大豆が転がり落ちる。

 狼がそれを見て、にやりと笑ったような気がした。


 ――く、くそ……っ!


 私の両手は使えない。大豆はズボンのポケットの中。攻撃手段がなにもない。

 こ、こんなことなら、口の中に大豆をくわえておけばよかった。

 今のこの距離なら、頭上に直撃させてやることができるのに……!



 …………口に、くわえて?

 いる。



「に、鶏っ!」


 私が叫ぶより早く、頭上から白いかたまりが落ちてくる。

 大きな羽を広げ、爬虫類めいた鋭いかぎづめを、まっすぐ狼の顔に向け――――その爪で、勝利を確信していた狼の目をえぐりとった。

 狼が悲鳴を上げたその瞬間。大きく開かれた口の中に、鶏が顔を突き入れる。

 そして、くちばしにくわえたままの大豆を、その喉の奥に放り込んだ。




 私の足元で、狼が横たわり、苦痛に身をよじらせている。

 目からは血を流し、なにが起こったかもわからないような顔で、荒い息を吐き出す。


 そんな狼を下に見ながら、私は息を吸い込んだ。

 狼以上に私もボロボロだ。結局、両腕とも動かなくなってしまった。めっちゃめちゃ痛いし、血の出方が半端ない。これは失血死もありうるで。


 ――――でも。

 立っているのは私だ。

 初日に痛い目にあわされただけに、得も言われぬ感慨がある。やっと……やっと一矢報いてやった。

 息を吐き、脂汗をぬぐ――ぬぐうための手はないのでそのまま流し、私は体から湧き上がる興奮に身を震わせた。


 よっしゃああああ! 勝った!!!

 この私が! 狼に! 勝った!!!!


 ガッツポーズする力もないが、気持ちだけはガッツポーズ。

 ざまあみろ! 私の腕を都合三本駄目にした報いだ!

 わはははは!



 おまけに運が良いことに、大豆の道まで再発見した。

 少し離れた場所に、草木のまったく生えていないむき出しの地面が見える。

 こんな森の中に道を通したっけ? なんて細かいことは気にしない。

 草木が生えていないってことは、大豆があることには間違いないのだ。

 なんたるラッキー。これは天が私に味方しているな? 今ここで死ぬべき人間じゃないってことだ。



 などと慢心する私の上で、鶏が頭を小突いている。

 思えばこの鶏が最後の狼を仕留めたのだ。ねぎらってやる必要があるだろう。

 それはそれとして、この雌鶏、妙に戦いなれていませんかね?

 大豆を落とすタイミングも最適だったし……。


 そもそも鶏は、私の中で完全に戦力外だった。

 大豆をあげたのも、単にねぎらうつもりなだけだった。それを武器に使うなんて、まったく私としては予想外。

 ぶっちゃけ、左腕を噛まれたときは終わったと思った。どっちも手のひらを飲み込ませるつもりでいたから、学習されたらおしまいだったんだよね。


 だからこの鶏がいてくれなかったら――――いたっ、いたたたた。

 褒めようとしてんのになにすんじゃい。


 頭上の鶏がすごい勢いで私の頭を蹴る。それ、さっき狼の目をえぐったやつだよね?

 いたたたた! なんなの!?



 なんなのかは、すぐにわかった。

 私の立つ、もはやどことも知れぬ森の中。

 茂みから、木陰から。姿はないが、無数の唸り声が聞こえてくる。


 狼の悲鳴が呼び寄せたのだろうか。

 まるで仲間を呼ぶような雄叫びが、夜の森に響き渡る。


 狼の群れの仲間たちだ。




 もはや、大豆はほとんどない。

 それどころか、使用可能な腕もない。


 狼の足音が、近づいてくる。


「ひ…………っ」


 私はひきつった悲鳴を上げると、一目散に走り出した。

 逃げる先は、もちろん大豆の道のある方向だ。


 あの道をたどれば、元の洞穴に戻ることができるはず――――!



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