0.プロローグ
数分前までの私は、ごく一般的な大学生だった。
大学生活も二年目。親元を離れての一人暮らしもすっかり板に付き、単位とバイトに追われつつ、ネトゲに明け暮れる日々の中に、大豆の入り込む余地はなかった。
なかったはずだ。
あの日、世界が崩壊するまでは。
崩れ落ちた世界から投げ出された私が、この、『大豆以外がすべて敵と化した世界』に来るまでは――――。
〇
そして今まさに、私は大豆に守られていた。
場所は小さな洞穴の奥。足元には、私自身が作り出した血だまりと、無数の大豆があった。
私は冷たい岩壁にもたれかかり、重たい体を抱えて喘いだ。呼気は短く浅い。深く息を吸い込むことができなかった。
入り口から吹き込む風が、洞穴の湿った空気を巻き込み、傷ついた私を打つ。右腕は動かない。洞穴の天井から垂れ落ちる水滴に交じり、腕をえぐる傷口から、ぽつりぽつりと血が落ちる音がする。痛みはもはや麻痺していて、ただ熱だけがあった。右手の指は一、二本足りない。どこに落としてきたのか。あるいはもう、『やつら』の腹の中にでも収まっているのだろうか。
風が吹くたび、木々のざわめきと共に、入り口にいる者たちの唸り声を運んでくる。顔を上げれば、岩壁の割れ目から、外の景色が目に映った。
まだ日は高い。明るい日差しが、洞穴の周囲を照らしている。生い茂る木々と深い茂み。そして、洞穴の前を何度も往復する、巨大な――体高一メートルはあろう野犬の群れがあった。
口元は血に濡れ、目には狂気が宿っている。鼻の頭には皺が寄り、何度も洞穴の中を睨んでは、「早く出て来い」と言わんばかりに、低い唸り声を上げていた。
だが、やつらは洞穴の中には決して入ってこようとはしない。入り口は広く、遮るものもない。入ろうと思えば簡単に入ることができるはずなのに、野犬たちは苛立たしげに、入り口の前を往復するだけだ。
理由はわかっていた。確証はないが、確信していた。
野犬たちが中に入ってくることができない理由。
それは、この洞穴のそこかしこに、大豆が転がっているからだ。
野犬は大豆を踏み越えることができない。だから後は、私と野犬の根競べだ。
――早く諦めてくれますように……!
心の中で祈るように叫びつつ、私はその場にずるずると座り込んだ。
足元の血だまりが、ぬちゃりと私と大豆を濡らした。
〇
どうしてこんなことになってしまったのか。
洞穴の中。考えても仕方はないと知っていながら、私はここに至るまでを思い返していた。
ほんの少し前まで、私は洞穴とも森とも大豆とも無縁の、関東近郊にある学生街で一人暮らしをしていた。
六畳一間のアパートは、狭く古く、そして家賃が安かった。大学までは徒歩五分。これなら朝の一限も余裕である。
その日の朝も、私はいつも通り昼に起きた。せいぜい午後の講義には顔を出そうと、出立の準備をしていたことを覚えている。
朝ごはんの代わりに飲んだ、インスタント味噌汁の味。窓から差し込む真夏の日差し。動くだけで汗ばむ蒸し風呂のような部屋で、着替えた服もすぐに汗まみれになったこと。鮮明に思い出せる。
うんざりしながら、私は夏の太陽を睨みつけた――その瞬間、突然の激痛に倒れたことも。
身に覚えのない痛みに、声を上げることさえもできなかった。視界がかすれ、奇妙に歪んでいく。視界の喪失と共に、指先から、足の先から体が消えていくような感覚があった。体だけではない。私が触れる床の感触、夏の日差し、吸って吐く空気さえも希薄になっていく。
まるで、世界ごと消えていくような――――。
どこで意識を失くしたかはわからない。
気がつけば、私はこの奇妙な洞穴の中にいた。
その時の私は、五体満足だった。
服は意識を失う直前のまま。ジーンズに半袖のTシャツという、量産型大学生の見本のような格好をしていた。ただし、それ以外にはないもなかった。鞄もない。部屋の物も一切ない。手にしていたはずの味噌汁の椀すらない。むしろ服を着ていたことに、なにかしらの慈悲を感じたくらいだ。
なにもない代わりに、周囲には大豆が散らばっていた。洞穴の奥から入り口まで、隙間なく――というほどではないが、かなりの量があった。
もっともこの時点では、私にとって大豆はさほど重要ではなかった。それよりも、現在置かれている状況を把握したくて仕方がなかった。
だから私は、ここがどんな場所かも想像しないまま、安直に外へと出てしまったのだ。
洞穴の外は、見たまま森だった。木々は深く、足元の茂みは高い。室内にいた私は裸足であり、草木を踏むたび足の裏が痛んだ。空から木漏れ日は差すが、それ以外の灯りはなく、人の気配もどこにもない。
わけもわからないまま、私は誰かを求めて声を張り上げた。
それがよくなかったのだろう。
声を聞き届けるものは、人とは限らないのだ。
はじめに訪れたのはリスだった。木々の枝を伝い、私の傍まで駆けてくるリスの姿は愛らしかった。だが、それ以降に愛はない。
リスは私の正面まで来ると、そのまま私に飛びつき、ためらいなく耳たぶを食いちぎった。悲鳴を上げてリスを叩き落とせば、すかさず虫が飛んでくる。甲虫が弾丸のように飛んできて、私の額に体当たりをし、よろめいた先でふくらはぎを蛇が噛む。慌てて逃げ出そうと踵を返したところで――――あの野犬の群れに出くわしてしまった。
そこから先は、私の姿が物語る通り。
利き腕に食いつかれ、指を噛み千切られた。腕は歯の形にえぐり取られ、溢れる血が野犬の口を濡らした。腕の感覚は失せ、痛みと熱だけが鮮明だった。野犬の力は強く、振り払うこともできない。
それでも、私がどうにかここまで逃げることができたのは、ひとえに大豆のおかげだった。
洞穴の中に落ちていた大豆が、たまたまポケットの中に入り込んでいたのだ。私はほぼ無意識に、ポケットの中の大豆を握りしめ、私に噛みつく野犬に投げつけた。
野犬は悲鳴と共に飛び退り、私の体を解放した。他の野犬も、大豆を手にした私から距離を取る。足の動きは慎重で、落ちた大豆を遠巻きに避けているようだった。
――たかが豆粒に?
なぜこれほど警戒するのか。そんなことを考える余裕はなかった。私は手の中の大豆を野犬たちに投げつけると、無我夢中で走った。
踏みつけた草が私の足の裏を傷つけても、血が流れても、立ち止まることはなかった。息も絶え絶えに、ただ逃げ続け――――私はどうにか、洞穴の奥まで戻ってくることができたのだ。
静寂の洞穴の中で、私は理解した。
入り口から先へ進むことのできない野犬たち。焼けつくように痛み、爛れた足の裏。リスでさえもが牙を剥く修羅の森。唯一の安全圏たる、大豆散らばる小さな空間。
この森は――この世界は今、大豆以外のすべてが私の敵なのだ。