わたしの現実
入院生活が普通の生活だった。殆ど学校になんて行ったことがない。
でも、別に哀しいと思ったことはない。この世に生まれてこられただけで、ありがたいって……思っている。
彼を初めて見た時、病院にそぐわない今風の男子だな、と思った。格好いいけど、何だか冷たそうに見えて。
それから、お姉ちゃんの学校の生徒だと気付いた。彼が写真で見たことのある制服を着ていたから。
お姉ちゃんは高校の保健の先生だ。わたしとは年が十も離れている。でも、お姉ちゃんに聞きたくても、彼の名前を知らない。知ったところでどうにもならないのだけど。
なんとなく、気になっただけ。多分そのまま、二度と会うことはないのだろうと思った。
二度目に彼に会ったのは、意外にもそれからすぐ三日後だった。時刻はこの間とほぼ同じ。
元気そうに見えるけど、どこか具合が悪くて通院しているのかもしれない。わたしは、彼のことが気になり、緊張しながらそっと後をつけた。
彼の目的はお見舞いだった。病室を少し覗くと、彼がお祖母さんらしき人と話をしている。
病室のプレートには、呉羽みさこと名前がある。彼も同じ呉羽というのだろうか?
その後も、何度も病院で彼を見かけた。気持ちが悪いことをしているという自覚はあったけど、いつも彼とお祖母さんが話しているのを見ていた。彼は、入院中の小さい子供と話していることもあった。
いつの間にか、わたしも彼と話してみたいと思うようになっていた。でも、頭の中で、ただ考えているだけ。こんな幽霊みたいなストーカーと、誰が話したいだろう? 彼はずっと病院に通っていたけど、拒絶されるのが怖くて、わたしはいつまでも話しかけることができずにいた。
数週間が経ち、急激にわたしの状態は悪化した。
どうやら、わたしはもう長くないらしい。
それでも、ここまでよく頑張ったと思う。難しい心臓の病気で、小さいころから、長く生きられないってずっと聞かされてきたから。
両親も、お姉ちゃんも、泣いていた。
死に近いところで生きてきたせいなのか、死が目前に迫っているのに、何故か怖いとは思わなかった。
ただ、彼と二度と会えなくなるのかと思うと、少し哀しかった。
わたしを彼の中に残したい。
不意にそう思った。
よく死ぬ気になれば何でもできるって言うけれど、死ぬことが確定したわたしは、きっと、それ以上に何でもできるはず。
お姉ちゃんに事情を説明すると、すぐに呉羽くんが通う高校の制服を用意してくれた。
それと、普通は、そんなこと許されるはずないけど、特別に校内に入る許可も貰ってくれた。
お姉ちゃんとは、名字が違うから(お姉ちゃんは結婚している)呉羽くんにわたしたちが姉妹だと気付かれることはないだろう。外見も全然似てないし。
これまで、ずっと自分の変な名前が大嫌いだった。一度聞いたら忘れられないような、本当に変わった名前……。でも、だからこそ今は感謝している。そして、より印象付けるには、自分で自分の名前を言うのが最もいい方法だと思った。頭が悪いと思われるかもしれないけれど、自分の名前を声に出してみると、その響きはとても明るくて軽かった。重いよりもずっといい。わたしは、呪文のように「はるれ、はるれ」と、何度も練習する。
お姉ちゃんに借りた、リップグロスを塗って、鏡を見る。そこには、自分じゃない自分がいた。今まで、こんなに自分のことをじっと見たことなんてない。服装も変なところがないか、入念に確認して、わたしは彼のもとに向かう。
「初めまして。霜上はるれです」
できるだけ明るい声でそう言った。
「どうでもいいけど、はるれってもの凄く言いにくいよ。舌噛みそうでイラッとする。何とかならないの?」
呉羽くんが言った。本当に吃驚するくらい、思ったことをストレートに言う。不機嫌さも隠そうとはしない。つまり、自分をよく見せようと思わないのだ。偽りのわたしとは、まるっきり正反対だった。
間近で見る呉羽くんは、寝惚け顔でも格好いい。……病気とは関係なしに、ふわふわ、倒れそう。大好きな彼の瞳には、やっぱりいつもと違うわたしが映っていた。
告白の前に、まず説明。わたしが消えても呉羽くんには悲しんでほしくない。そのために、とっておきの嘘を考えた。
地底人。そう、わたしが地底人だったら、急に消えたとしても不自然ではないはず。
けど、得意げにそう言うと、何故だか呆れられてしまった。
今時、地底人はないらしい。仕方なしに、呉羽くんの案に乗って(?)即刻、未来人という設定に変更した。
呉羽くんは優しかった。呆れた顔をしていても、結局わたしの我儘に付き合ってくれる。
「手を繋いでいいですか?」わたしがそう聞くと、呉羽くんは決まって左手を差し出す。彼と手を繋ぐと、いつだって満ち足りた気持ちになる。
わたしはときどき呉羽くんの上に乗って、彼の心臓の音を確認する。
正常な彼の心音。彼は今、生きていて、彼が見つめているわたしも、まだ、生きているのだと実感できる。
ある日、いつものように屋上で寝ころんだ体勢で、呉羽くんが聞いてきた。
「なあ、未来人……。未来ってどうなってんの?」
「内緒です」
わたしは返す。
「あ、そ。まあ、科学は更に発展してるだろうな。一人一人飛んで移動できる乗り物とかあったり……いや、人間自体が、もう自分で飛んでるかな」
「……呉羽くんは想像力が豊かですよね。なんか、そういうの生かして、クリエーターとかなれそうですね」
「何それ? そんな能力無い。ただ単にゲームしすぎなだけ」
呉羽くんは笑った。
未来の呉羽くんを想像してみた。なんとなく、彼は、ずっと変わらないと思う。変わらないで、幸せになって欲しい。
また、発作が出てしまった。最近、ずっと小さな発作を繰り返している。苦しいより、呉羽くんの前で、嫌だな……と思う。
「ごめんなさい、呉羽くん」
「何で謝るんだよ?」
彼はそう言った。そして、わたしの背中をさすってくれた。
「はるれは、大丈夫です。未来に戻ったら、良くなるから。だから、心配しないでくださいね」
わたしは、精一杯笑顔を作る。
呉羽くんは何も言わず、背中をさすり続けた。
嬉しかったけれど、呉羽くんと別れるのが辛くなる。
怖くないと思っていたはずなのに、今は、死がとても怖い。怖くて仕方がない。
呉羽くんと付き合い始めて、一か月が経った。
彼といつまでも一緒に居たいけれど、限界が近づいている。
これ以上、もうみっともない姿は見せたくない。
わたしが彼に残したいのは、綺麗な思い出だけ。そのために、彼が悲しまないように、いつ消えてもいいように、できるだけ痕跡を残さないようにしてきたのだから。
たぶん、次に大きい発作が起きたら、わたしは……。
薄れゆく意識の中で、どうしてだか少しだけ眩しい。
地底人じゃなくて、未来人に変えて良かったと思う。だって、未来に帰るのは本当だから。
いつか、生まれ変わることができたなら、迷惑かもしれないけど、また呉羽くんを探したい。
ねえ、呉羽くん……。
そのときは、今度こそ、はるれのこと、ちゃんと愛してくれますか?
二人が結婚していたら『くれははるれ』なんて余計、変な名前になってたな、なんて考えてしまいました。
短いお話ではありましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




