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原料屋

夜市

作者: 十浦 圭

オリジナルキャラクターである原料屋のシリーズです。そのうちシリーズとして全話まとめようかなと思っていますが、これ単体でも読めるようにしてあります。

 ごちゃごちゃしたその通りは闇の中でぼんやりと光っている。両側にはずらりと出店が並び、赤い提灯が連なって小さく揺れている。行き交う人々のざわめきの向こう側には、木々の影が薄く沈んでいた。精々数メートルの幅の細い通りは一本道で、緩くうねりながらどこまでも続いていくようだ。

 人々のざわめきの中を、原料屋窓也は出店を眺め眺め歩いていた。くるくると跳ねた黒髪、和柄の面、書生姿に、背中ではお約束のつづらが揺れている。でこぼこの土の道に、軽やかなブーツの踵がざり、と音を立てる。

「よう、兄さん。いかす面だね」

 首を傾けるようにして見れば、窓也の視線の先で爺さんがしわくちゃに笑った。彼の背後にはずらりと面が下げられている。翁、おかめ、ひょっとこ、狐、魚、戦隊ヒーロー、なぜか西洋人形の顔まであった。隅の暗がりの方には、なにやら呪文のようなものが書き連ねられた面がひっそり紛れている。

「どうだい、替えに一枚。この狐面なんざ」

「今ので満足してるよ」

 窓也は面の下で笑ってひらりと手を振った。商売根性旺盛な者ばかりが集うこの夜市では、こうして声をかけられることは珍しくもなんともない。残念そうな男に背を向け、さて歩き出そうとした途端。

 どん、と背中にぶつかった何かの衝撃に窓也は振り向いた。

「ご、ごめんなさい!」

 高い声の謝罪が黒い空に閃いた。こぼれそうに見開かれた瞳の中で薄い虹彩が揺れている。年の頃は十ほどだろうか。利発そうな顔立ちの、黒髪に黒い目の少年が立ちすくんで窓也を見上げている。

「構わない。君はどこか怪我は?」

「あ、ううん、大丈夫、」

「そりゃよかった。気を付け、」

 ろよ、と続けながら踵を返そうとして、再び窓也はがくんと体を揺らした。見下ろせば、空色の羽織の袖を小さな手がしかと掴んでいる。

「……」

「あの、」

 沈黙を落とした窓也に、どこか必死な顔で少年が口を開いた。

「人を、男を探してるんだ!」


 氷柱が割れるような切実さで、少年の声が宙に響く。

「大事な、とても大事なものを騙されて、盗られてしまって、すごく大事な物なんだ。あれを奪われたまま母さまのところになんか行けない」

 握られた手の中で、羽織がくしゃりと形を変えた。

「探してるけど全然見つからなくて。僕一人じゃあ、もう無理なんだ。

僕、探すうちにたくさんの人にぶつかってしまったけれど、ああして怪我の心配してくれたの、お兄さんだけだった。だから、だからお願いだよ。僕、あれが返ってくるならなんでもするから、だから僕のこと、」

 手伝って、と続けようとした少年の薄い唇に、ふいに人差し指が押し当てられた。手袋の布の感触に、きょとんと少年が瞬く。

「そんなことを簡単に言うもんじゃないぜ。こんな場所では、尚更だ」

 苦笑の色を軽く刷いた声音が降り、唇から指が離された。

「俺で役に立つかは分からないけど。何を探してるのか、どうして失くしたのか、とりあえず詳しく教えてみてくれよ」

 ぱあ、と明るくなった少年の顔を見て、今度こそはっきりと、窓也は苦笑を漏らした。


 通りの隅で語る二人のうえで行燈が不安定に揺れている。それに合わせて、地面に落ちた影がゆらゆらと揺らいだ。どこか近くで、華やいだ女の笑い声が弾けるように響いて、空に消えた。

「なるほど」

 ぽつりと窓也の呟きが落ちた。

「はぐれてしまった母親を探していたところに、手伝ってやろうと声をかけて来た男がいた。言葉巧みに語る男の口車に乗せられて、その宝石を奪われてしまった、という訳だ」

「あの男、酷い詐欺師だ」

 頬を赤くして少年が意気込んで言った。

「腰からたくさん鈴を下げていた。煙のにおいのする毛皮を着てて、眼鏡の裏でへらへら笑うんだ。母さんのいる場所を教えてやるって言った癖に」

「恐らく転売屋だな。半分詐欺師に足を突っ込んだ、もぐりの商売人だよ」

 まあ、そもそもこの市にいるのはそんな人間ばかりだが、と自嘲のように続けて、窓也が軽く肩をすくめる。

「宝石のことをもう少し聞かせてくれるか」

「うちに伝わる家宝なんだって。大きな紫の宝石で、光に透かすときらきらして綺麗なんだ。紫の女王って名前らしい。僕の手のひらくらいあるんだよ」

 ひらりと手を振って少年が言った。空を見つめて、遠い記憶を懐かしむような声音。

「どんなに大変な時でも手放したらだめだって母さまはいつも言ってた。絶対に失くしてはいけないって。絶対、絶対、絶対、絶対、ぜったいなんだって」

 それなのに、と言って俯いた少年の白い頬に、ほのかに落ちた光がゆらゆらと斑模様を描いた。元は良い物だったのだろう白いシャツと半ズボン革の靴はくたびれて砂塵に汚れており、しかし少年のたおやかな四肢の白さと妙なアンバランスさを醸し出している。服装に漂うどこかレトロなデザインもそれに拍車を駆けていた。

しげしげと少年を眺めて、窓也が小さくなるほど、と呟いた。

「オーケイ、大体分かった。転売屋を探して、宝石を取り返せばいいんだろう。そう難しくもなさそうだな」

 あまりにあっさりと告げられた言葉に、少年が勢いよく顔を上げる。頬の模様がたちまち四散し消えた。

「それって、」

「手伝うよ。大した手間でもなさそうだ」

 途端に小さく声を上げて、居ても経ってもいられないという風に、少年はその場で片足ずつ、ぴょん、ぴょん、と飛び跳ねた。

「ありがとう、お兄さん本当にありがとう!僕、お礼になんだってするよ!」

「礼なら宝石が返ってからにした方がいいぞ。もう少し君は言葉を惜しむべきだ」

 少年の反応に面の下で笑いを漏らして、窓也が黒い手袋を嵌めた手を差し出した。

「原料屋、窓也だ。よろしく」



 まずは()石屋(しや)だな、と呟いて歩き出した窓也の背を、少年は慌てて追いかけた。

 それまで焦るばかりで満足に見ていなかった店を、幾分余裕を取り戻した大きな目が見渡す。薄鼠色の影を背負って、独特の空気を纏った人間たちが通りを行き交っている。

「宝石屋って、宝石のお店ですか」

「まあ、そうだな。宝石屋なら一人あてがあるから、尋ねれば市場に流れたかどうかはすぐに分かるだろ。ただ、転売屋はどちらにせよ探さなきゃならないだろうな」

「どうして。そりゃ、僕はあの男に文句を言ってやりたいけど」

 宝石を取り戻すだけなら必要ないのではないのだろうか。首を傾げた少年をちらりと見て、窓也が肩をすくめる。

「君は、この市がどんなものかは知ってるかい」

「さあ、分からない。気が付けばここに居たから…」

 見下ろしていた視線をすい、と前へ向けて窓也が歌うように口を開く。

「ここの入口はそう簡単には見つからない。どこにあるか、中でどんな時間が流れているか。いつだって来てみなければ分からないんだ。まことしやかに囁かれる噂を選り分け、情報を掴み、複雑な手順を踏んででも俺たちが集まるのは、ここではあらゆる世界、あらゆる時代、あらゆる場所の、あらゆる物が手に入るからなんだ」

「あらゆる場所の、あらゆる物」

 ぽかんと繰り返す少年の声が夜空に溶ける。空は黒一色で塗り潰され星ひとつ見えない。

「ここに入った者は、必ず一度は取引をしないと出られない。行われる取引は正当なものではならない。そういうルールなんだ。他にもいくつかルールがあるけれど、それらは絶対に守られなければならない。ルールを守らない者を、市は許さないんだ」

 人混みの気配に混じって、ざわざわと遠く木々のさざめきが聞こえることに、少年は初めて気が付いた。

「俺たちはこの市のことを、生きた夜市、と呼んでいる」

 ざり、と音を立てて窓也が足を止めた。はっとした少年の視線の先に、キラキラと光る店先があった。掲げられた板には宝石屋の文字が躍っている。



「よう、親父」

 ラフな口調で窓也が話しかけたのは、汚い箱に腰かけた中年の男だった。頭には巻かれたタオル、くたびれたTシャツとジーンズは煤のようなもので何か所も汚れていて、とてもではないが宝石を取り扱う人間には見えなかった。百歩譲っても発掘する側の人間だ。

「なんだあ、原料屋。久しぶりだな。とうとう何処かでおっ死んだかと思ってたぜ」

 ガラガラとした声で男が笑う。

「そっちこそ、まだ現役張ってたのか。そろそろ自分の腕前に見切り付ける時期になったんじゃないのか?」

 店先に置かれた宝石を覗きこみながら窓也がさらりと言い返す。その横で少年は思わず目を見張った。

店先にはまるで樹木のような水晶の柱が幾本も置かれていた。透き通る水晶のそれぞれの中に、色鮮やかな宝石が幾つも埋まっている。

「わあ!」

 灯りを反射していくつもの輝きを放つその美しさに、少年が思わず身を乗り出した。細い体に宝石屋が目を丸くする。

「おい、連れか。珍しいこともあるもんだ。女からコッチの方へ、宗旨替えかよ」

「こっち?」

 ことんと首を傾げる少年に、窓也が溜息を吐いた。

「あんまり口を開かない方がいいぞ。育ちが滲み出てるぜ」

「うるせえよ変人男。てめえの格好見直して言え」

 悪態を吐く男たちのやり取りを少年は目を丸くして見ている。ちらりと苦笑して窓也が崩していた姿勢を正した。

「ちょいと石を探してるんだ。見かけてないか」

「訳アリか」

 窓也の様子を受けて、男の声も少しばかり背筋を伸ばす。

「紫の女王って美人に心当たりは?」

「紫の女王だあ?大物じゃねえか」

「僕、僕がそれを探してるんだ!」

 思わず声を上げた少年に男が同情したような顔を向けた。

「残念だがな、そういう話は聞いてないぜ。少なくとも宝石関連の市場には上がってねえ。加工業者が直接買い取ったか、転売屋や、こいつみたいな原料屋が握ってるかってとこだろう」

 大して目新しい情報は混じっていない。勢いを失くし、乗り出した体を引いた少年の後ろで窓也がなるほど、と呟く。

「手っ取り早く捜すにはアレしかないか」

 呆れた顔の男と、ぽかんとした顔の少年が同時に窓也を見た。対象的な二つの視線の先でにやりと窓也が笑う。

「案内人を創ろう」



 宝石屋を離れた窓也は確固たる足取りで先を進んでいる。少年は小走りでその横に並んだ。

「案内人を創る、ってどういうこと?」

 よくあんな面倒なことをするな、とぼやいた男の口調を思い出しながら、少年は隣を見上げた。ああ、と応えた窓也は心なしか愉快そうに見える。

「記憶葉と探知糖、セントエルモの火で創るんだ。欲しいものがある場所へと案内してくれる」

「人を、作るってこと?」

 驚きの声を上げて、少年はふと空想した。暗い部屋の中、大きな鍋と手術台の傍らに立つ窓也の姿。窓から差し込む月明かりに影が長く伸びる…。小さく青い顔をした少年に窓也が声を上げて笑った。

「そう大層なもんでもない。簡単な式みたいなもんさ」

 だが、手持ちの材料だけじゃちょっと決め手に欠けてな、と続けた言葉が、前方の店を指した。

 風もないのに小さくはたはたと揺れる幟と、透明な光を湛えた大きな水槽。

「次の目的地に到着だ」

 藍色の幟には白抜きの文字で金魚屋、と書かれている。



 簡素な造りの屋台の中央に人間の背丈ほどもある水槽が据えられている。その中を大小も模様も様々な金魚がすいすいと泳いでいた。水槽はその一つだけ、代わりだとでも言うように、左右と奥の壁にはべたべたと金魚の写真が貼られていた。

「今晩は」

 窓也の声に、長椅子に腰かけた婀娜っぽい和服の女が目を上げた。切れ長の視線がぬるりと二人の顔を滑った。

「いらっしゃい。いい夜だねえ」

「ああ、金魚にはもってこいの夜空だ。ということで一人、貰えるかな」

「どんな娘がお好みかい?」

 何がおかしいのか、少年を見た女が着崩した紅色の着物を揺すって、唇を持ち上げて笑った。なぜだかいたたまれなくなって、少年は目を逸らした。

「大した用じゃない。案内を頼みたいのさ。小指の先ほどの、空を読む、可憐な、気性の優しい子はいるか」

 ああ、と納得したような声を漏らして女がのろりと手を上げた。傍らに置かれた竹のさじを持ち、白い腕が無造作に水槽に突っ込まれる。水面が大きく波打ち、赤い球体のような金魚たちが右に左に大きく翻弄される。

 やがて竹のさじが、小さく丸い朱色の魚を掬い上げた。先ほどまで元気に泳いでいたはずの金魚は、とろり、とさじの先で横たわったまま身動きもしない。死んでしまったのだろうか。少年はじっと金魚を見つめた。女は白い顔に何の表情も浮かべず、さじと揃いの竹のカップの水面へ、金魚をぽとりと落とした。

「ほ。一匹五百賃さ」

「どうも」

 巾着を探る窓也の横から、少年はカップを覗きこんだ。水槽のそれとは違うどろりとした透明の液体の中に、ゆらゆら揺れながら金魚が浮かんでいる。小さな小さな体は球体に近く、腹の方に白と金のちらちらとした光が差していた。

 ちゃり、とコインの擦れる音に少年はふいに我に返った。どうやら支払は済んだらしい。少年を見下ろして窓也がたぷん、とカップを揺らしてみせた。

「これでオーケイ。…ただし、ここじゃ商売の邪魔だな。少し広い場所へ移ろうか」



 金魚屋から少し離れた、開けた場所で窓也が立ち止まる。ここでいいか、と呟いて懐を探った指が取り出したのは、精巧な造りの煙管だった。吸い口と雁首、火皿は渋みがかった金色、管部分の羅宇は飴色の滑らかな木だ。組木細工のような細かな細工模様があしらわれている。

「綺麗な煙管だねえ」

「へえ、煙管の良し悪しが分かるのかい」

 感心した声を上げた少年に、窓也が面白そうに言った。

「僕の父さまも昔吸っていたんだ。すごく、すごく昔の話だけれど…」

 空を見上げて少年はぼんやりと言った。書斎の奥まった場所に流れる煙、黄昏が近づいた中でぼんやりと霞んでいた父親の記憶。

「俺は煙管には詳しくないんだ…これは質よりも頑丈さを求めて買ったんだが、まあ得てして良いものは強いってことなんだろうな」

 つづらを探りながら窓也の声に、少年が、はっと我に返る。いつの間に取り出され地面に並べられたのか、ビニールに包まれた青く薄い葉、小瓶の中に砕かれた鈍色の欠片、翡翠色の透き通ったライター。

「さて、原料屋窓也の案内人創りだ」

 どうぞごろうじろ。黒い手袋がそれらを器用に持ち上げるのを、少年は見上げた。



 そっと静かに青い葉が取り出される。しゃり、と音をたてて落ちたビニールに目も向けず、窓也の指が慎重に、葉を煙管へと詰めた。

「記憶葉は扱いが難しいんだ」

 ほう、と息を吐いて、小さく窓也が笑う。吸い口に敷くようにして詰められた葉の上に、鈍色の欠片たちがきらきらと落とされる。翳されたライターがかちりと音を立てて上げた炎は、その本体に似て緑がかった透き通る蒼い色だった。

「さて」

 ライターを一旦置いて、窓也が煙管とカップを持ち上げた。ゆらゆらと液体の中を漂う金魚を見つめ、カップを傾け、傾け。

 どろん、と煙管の火皿に金魚が落ちる。

「よし」

 満足そうに言って、再び取り上げたライターの炎を金魚の尾に近づける。少年が固唾を飲んでそれを見つめるのを、窓也がちらりと横目で見た。

「いくぞ」

 蒼い炎がちり、と尾を焼いて、次の瞬間燃え移った火が火皿の中で踊り始めた。

 葉のせいか欠片のせいか、細い煙の隙間から時折ぱち、と七色の火花が上がる。

「綺麗だなあ……」

 初めての不可思議で美しい炎を見つめる少年に、窓也がつと煙管を渡した。

「? なに?」

 渡されたそれを小さな手のひらに持て余して、不思議そうな目が窓也を見上げる。面の下で窓也は小さく微笑んだ。

「君は母さんのことがとても好きだったんだろう」

「うん、そうだよ。強くて、優しくて、いつでもとても綺麗だった」

「ああ、うん。じゃあ、母さんのことを思って、その煙管を強く吹いてみてくれるか」

「吹くの?」

「ああ」

 一瞬躊躇って、少年が煙管を見つめる。火皿には蒼い炎がちらちらと光っている。ちらりと横目で窓也を見上げて、やがて意を決した小さな口が、吸い口をかちりと噛んだ。

 ふう!と吹きこまれた息が管を通って炎を煽る。きらきらきらきら、と火の粉が舞いあがり、ぶわりと大きく上がった白い煙の隙間を縫って、赤い影がするりと宙に浮きあがった。



「わあ!」

 少年が宙を仰いだ。煙管の火皿の中は空になっている。吹かれた煙の臭いと、ちかちかと光の残滓が煌めきながら消えていく中、空中でひらりと振り向いたのは赤い打掛を羽織った小さな女性の姿だった。

 ふわりと背中まである黒髪が風に広がる。たなびく裾は金魚を連想させ、慈愛に満ちた微笑みは、顔立ちは違えども、母親のそれに違いなかった。

「ほら、案内を始めた」

 目を丸くしたままの少年の目前で、やがてひらりと女性が体を返した。ふわふわと宙を泳ぎながら何処かへと向かい始める。ゆったりと歩き出した窓也に、慌てて少年も足を踏み出した。



「びっくりしたなあ…」

 ざわめく人々の頭の横を、ふわふわと案内人が飛んでいく。美しくはあるものの、知らない者が見ればぎょっとしそうな光景だったが、雑踏の中で大きな声を上げる者は誰もいなかった。思わず、と言う風に言った少年の声が雑踏に紛れて落ちる。

「まあ、初めて見れば誰だって驚くさ」

 笑いを含んだ窓也に少年が頬を膨らませる。

「言ってくれれば僕だってあんなに驚かなかったよ」

「悪かったよ」

「笑いながら言っても説得力ないです」

「でも、この景色は悪くないだろう?」

 穏やかに流れる言葉に、少年は再び案内人へと視線を戻した。空中をひらひらと軽やかに泳ぐ赤色。時折ちらりと後ろを振り返って二人の姿を認めて、ふと安心したように優しく微笑んだ。ふわりと花が咲くような、暖かさ、優しい香り。

ふと遠い目をして、少年が小さく呟いた。

「母さまは、僕を怒っていないかなあ」

 灯りに照らされて、道はどこか赤みがかったセピア色を含んでいた。幾本もの足が踏むたびに、小さく砂塵が波を描いた。

「どんな人だったんだ」

 静かな声が続きを促した。

「さっきも言ったけど、すごく優しかった。僕が悪いことをした時、最初、とても悲しそうな顔をして、それから、どうしてそうなったのかを聞くんだ。でも、もう僕は、母さまが悲しそうな顔をするからすっかり後悔してしまっていて、ごめんなさい、ごめんなさいって謝ってた」

 ゆったりとした歩調で二人は歩き続ける。穏やかな景色の中を、ひらりひらりと赤い金魚の女性が泳ぐ。

「僕のうちは商家だった。大きな通りの突き当りに店とうちがあって、父さまが生きていた頃は、毎日たくさんの人がお店にやってきてた。珍しい壺や、時計や、着物や、色んな綺麗なものがあって、僕はお店で遊ぶのが大好きだったんだ」

 少年は遠い記憶を思い返してぼんやりと言った。異国の情緒を濃く漂わせる品々の間を、今よりもまだ幼かった少年ははしゃいで駆け回った。いつだって、後ろで見つめる父と母の慈愛の微笑みを見ずにして少年は知っていたのだ。

 けれど、それもある日を境にしてすっかり変わってしまったのだった。

「父さまが亡くなって、変な人たちがたくさんお店に来るようになった。変な人は段々怖い雰囲気になっていって、お店のものをどんどん何処かへ持って行ってしまった。母さまはすっかり疲れて、痩せてしまっていた。あんなに綺麗だったのに」

 それでも母親は宝石だけは手放さなかった。

『これだけは守らなきゃいけないのよ。残されたのは、これだけだもの』

 傷んだ指先で紫の塊を撫でながらうっとりした顔で母親が言った。ストーブの灯りがやつれた頬をほのほのと照らしていた。

「でもとうとう、奴ら宝石に目を付けたんだ」

 少年は忌々しげに口を歪めた。

「追いかけてくる奴らから逃げて、母さまと僕は走った。ずっと走って走って、いつの間にか青空に煙突がたくさん立ち始めてた。見慣れた土の道が黒い道に変わっていて、そこも僕らは走った。やがて僕はいつの間にかひとりぼっちで走っていた」

 母親に託された宝石を抱いて少年はがむしゃらに走った。駆けて駆けて駆けて、いくつもの街を駆けて、追って来る腕の何本を見て。

「そして気が付いたら僕はこの市に来ていたんだ」

 何か食べ物の焼けるいい匂いが漂っていた。楽しげに、時に怒声も混じる人々の気配がぽっかりと黒い空の下で動いている。その人の波の中で、すん、と少年が軽く鼻を鳴らした。

「大丈夫さ」

 傍らから降ってきた窓也の穏やかな声に眉を下げたまま少年が顔を上げた。

「君の母さんもきっと君と同じくらい、君に逢いたいだろうと思うぜ」

「そうかな」

「そうさ」

 ほら、と言って黒い手袋が示した先、赤い案内人の女性が少年を振り向いて留まっていた。白い肌の細面がほんのりと笑みを浮かべた。

 赤いひらひらを纏った腕がすうっと上がり、道端を指した。小さな唇がほろりとほころんで何かを呟いた。

「あ……」

 そして案内人はすう、と空中に溶けて消えてしまった。光の残滓がゆっくりと溶けて消えてゆくのを少年は見上げた。

 案内人が指した先の店を見て、窓也がさて、と呟いた。

 みすぼらしい簡易な出店の薄暗がりに、毛皮を着た男が丸まるようにして座っているのが見えた。



 ざ、と音を立てて男の前にブーツが立ち止まった。数瞬遅れて、隣に小さな革靴が並んだ。俯いていた男が顔を上げる。泥のような黒い髪と髭が顔を半分も覆っている。腰からぶら下げたものがごちゃごちゃと地面に横たわっている。屋台の中にはたくさんの箱や置物や金属や植物や、ありとあらゆるガラクタがひしめきあっていた。

「なンだい」

 濁った声で男が面倒くさそうに呟いた。和柄の面と青ざめた少年の顔が男を見下ろした。

「こいつか」

問いかけるように、首を捻って窓也が少年を見下ろした。

 ああ?と猜疑の声を上げる男を少年はじっと見つめた。そしてはっきりと頷いた。

「こいつだ。こいつが、僕の宝石を奪った!」

「なるほど」

 頷き返す窓也と先程の少年のやり取りに、初めて男が表情を変えた。


「あんたを探してたんだ。この子から宝石を不当に奪ったと聞いてね。この市でのルールはあんたも知ってるだろう。よければぜひ、あんたとこの子の取引を、俺に教えちゃくれないか」

「オマエ、あンときのガキか」

 顎をしゃくった窓也にゆらゆらと男が立ちあがった。ずずずと影が不気味に男の背後へ伸びた。

「ありゃ正当な取引だったぜ。不当なンてとんでもねエ話さ。オレはコイツに情報をやった。コイツはオレにこれを渡した」

 ごそごそと背中に回り、やがて現れた男の手に宝石が一つ納まっていた。きらりと妖しい光を放つ紫の結晶。

 紫の女王。

 ほう、と窓也が隣で感嘆の息を吐いた。かあっと頭に血が昇って、少年は思わず叫んでいた。

「僕はそれをあんたにやるなんて言ってない、一言だって言ってない!」

「言っただろう、母親に会えるなら出来ることはなんだってやるって言っただろう!ここでは言葉だってリッパな代価だ!オレはオマエに情報を与えた、オマエはオレに確約した、なんでもやると。だから石はオレへの支払いだ、何の問題もない。オレの勝ちだ!」

 ははははあ、と笑った男を見上げて少年は顔をくしゃりと歪めた。大きく開いた口の中には一つ歯が足りない。その手の中で宝石は変わらず穢れを知らず輝いている。

 大事な、大事な宝石なのに。母さまの大事な宝石なのに。こんな奴に!こんな奴に!

 少年の瞳にうっすらと水の膜が張りかけた時、緊迫した空気を裂くように窓也の冷静な声が落とされた。

「それで、あんたはこの子に何をやったんだ?」

 はた、と上げていた手を降ろして男が窓也を見た。両手を握りしめた少年が、縋るように隣を見上げる。そのどちらの視線をも無視して、窓也が肩をすくめた。

「母親に会わせてやるって言ったんだろう?でもこの子は未だに母親に出会えていない」

「会わせてやるなんて言っちゃアいねエさ。安心させてやる、母親の居る場所を教えてやるっつったんだ」

「それで?教えてやったのかい?」

「もっちろんさあ!でなければ石を受け取ったオレが、ココにこうして無事でいられる訳がない!」

 得意満面で言った男に、窓也が小さく笑った。

「それはどうかな」

 くるりと半身を返して、窓也が少年を見下ろした。急に自分を見下ろした面に、少年はびくりと肩を揺らした。

「君はこの男に何を聞いたの」

「……母さまの場所を教えてやるって」

「それで、なんと?」

「……光のほうだって。遠くに差し込む光の満ちた、幸せな場所にいるんだって」

「それを、君は知らなかったのか?」

 え、と呟いて少年は窓也をまじまじと見た。屋台の内に立つ男も訝しげに窓也を見つめた。

「君の母さんがここにいないこと、君は知らなかったのかい」

「母さまがいないこと…?」

「はぐれてしまった母さんが光の満ちた幸福な場所にいると、君はこの男に聞くまで知らなかったのか?君が手にした情報はその情報は、本当に、宝石と引き換えに初めて手に入れたものだったのか?」

 ぽかんと少年は瞬いた。そして、ぐるりと回りを見渡した。

 影のような、どこか存在感のない奇妙な人々。立ち並ぶ出店たち。ゆれる行燈。

 夢中で駆けてきた街並み。あれはいくつあっただろう。古めかしい通りが少しずつ様子を変えていった。煙管がタバコへ、馬車が自動車へ。立ち並ぶ屋根が煙突へ。

 どうして母さまと離れてしまったのか。はぐれた白い手が何処へ行ったのか。

 宝石を握って駆けて駆けて。逃げなきゃと思い詰める裏側でなんとなく分かっていたこと。必死に考えないように気づかないようにしていたこと。

「……本当は知っていたんだ」

 ぽつり、と少年の声が落ちた。

「ほんとは分かってた。母さまはここにはいない。母さまはもう先に行ってしまった。僕もそこに行かなきゃいけないって。こいつに言われる前から、ずっと前から、僕は知ってたんだ。でも怖くて、気付かないふりをしてた」

 こくり、と細い喉が動いた。

「僕も、母さまも、もうずっと前に死んじゃったって」

 あっけにとられて少年を見ていた男が、ふいに何かに気が付いたようにぎょっと体をこわばらせた。瞬時に窓也が手を広げて、朗々と声を上げた。

「そういう訳だ、転売屋。あんたの渡した情報をこの子は最初から持っていた。既に持っている情報へ、全く同じ言葉を重ねるのは、対価としての宝石に釣りあうのか?これは搾取でも盗難でもなく、取引と呼ぶことが出来るのか?」

 ぱあん、と両手が打ち合わされた。

「さあ、夜市の裁断を」



 それは一瞬だった。

 窓也の言葉を聞くなり、男は大きく唸り声を上げてその場から駆けだそうとした。足元の品物が蹴り飛ばされてバラバラに倒れた。

「違う、俺は、そんなつもりじゃ、違う…!」

 突然足元を見下ろして男が闇雲に両腕を振り回した。緩んだ手のひらから宝石が地に落ちてこんこん、と転がった。

 男のくすんだブーツに絡みつくように、黒い影が伸びあがった。

「返す、石なら返す!やめろ!やめろ!」

 影はもう腰まで這い上がっていた。上ずった声で男が叫ぶ。身じろぎもせず、目を見張って少年は男を呑む影を見ていた。

 ずお、と音を立てるほどに素早く、影が男を包み込んだ。

「やめろ!取引は、取引はとりやめ…」

 言いかけた声はぷっつりと絶えて、男を包んでしゅるんと影は消えた。

 後には屋台だけが残された。先程男が蹴った箱がバランスを崩してカラン、と倒れた。呆然として立ち尽くす少年の横で窓也が屈んで、落ちた宝石を拾い上げた。

 灯りに翳したそれを見て、小さく窓也が笑った。

「やっぱり、綺麗だ」



 渡された宝石を大事そうに抱きしめて、少年は窓也を見上げた。

「お兄さん、ありがとう。本当に、色々、」

 声を詰まらせて、少年は俯いてはにかんだ。どうお礼を言っていいのか分からない。それでも、どれだけ自分が彼に感謝してるかを伝えたかった。

「大したことはしてないよ。俺じゃなくても出来ることばかりだった」

 そう言って手袋の手のひらが少年の髪をくしゃくしゃと撫でた。わわ、と呟いて、少年がくすくすと笑う。

「僕、お兄さんに何をあげればいいかな」

 ふと困ったように少年が首を傾げた。

「取引は公平じゃなきゃいけないんでしょう。お兄さんは僕を手伝ってくれたのに、僕は何も支払えない」

「いいんだ。俺はただ手伝っただけだし」

 当てがないこともない、と続ける言葉の意味が分からずこてんと首を傾げる。気にするな、と言って窓也がまた笑った。

 随分時間がたったような気がしたが、空は変わらず黒のままだった。ざわざわと遠くで人々のざわめきがうねるのを少年はぼんやりと聞いた。

 きっと。ふいに少年は思った。きっと自分が去ってもここはずっとこのまま、何も変わらずあるのだろう。ずっと前からずっと先まで、何も変わらず。不思議な影を孕んだまま。

「さあ、行くんだ」

 ふいに窓也の手が背中を押した。

「君はもう取引を終えている。自由に母さんのところに行けるさ」

 顔を上げた先に光があって、少年はぱちりと目を瞬いた。この市に入ってから初めて見る、鮮烈な光だった。

 ああそうだ、この先に母さまがいるんだ。今から、僕はこの先に行くんだ。遠くに満ちた光の、幸せな場所。

 母さま。

 駆けだした少年の体がすうっと透けていった。三歩目が地面を踏む頃には体を透かして向こう側の景色が見えていた。たん、と地面を蹴って、四歩目が空にかかる。

 するり、とふいに手から宝石が落ちた。影になった少年は気が付かない。抱えた腕の中には、少年と同じように半透明の宝石の姿が残っている。実体のある方の、落ちた宝石が地面に跳ねてごろん、と鳴った。

 半透明な手で、同じく透明になった紫の女王を抱えたまま、少年は天へと駆け昇っていった。それを見上げて窓也は小さく目を細めた。

 溢れる光を受けて心底嬉しそうに微笑んだ、透明な少年の横顔。

 やがて少年の姿が見えなくなり、静謐な空気がすっかり市のざわめきに紛れてから、窓也は地面へと腕を伸ばした。

 持ち上げられた手の中に、紫を濃くした宝石が収まっていた。



「よう、さっきぶりだな」

 ふいにパイプで出来た屋台の柱を黒い手袋が掴んで、ひょい、と面が顔を覗かせた。うお、と声を上げて宝石屋が身を引いた。

「なんだてめえ、驚かすんじゃねえよ」

 この野郎、と悪態を吐きかけた口がふいにあんぐりと開かれる。

「おいおいおい。お前さん、それ、見つけたのか」

 見開かれた目の先で窓也の指が紫の女王をくるくると弄んでいる。

「少年の姿がないが…ぶんどって来たのか」

「なんであんたはそんなに俺を悪人にしたいんだ」

 呆れた様子で窓也が肩をすくめた。ひらひら、と宝石を振ってみせて、それに合わせて宝石屋の視線がうろうろ動くのに笑った。

「あんたはこの宝石の正体を知ってるだろう」

 ああ、と神妙な顔で男が頷く。

「紫の女王。その名も高き呪いの宝石だろう。俺も初めてお目にかかる。さっきの子は、知らなかったみたいだが」

「そうだな」

 あっさりと窓也が頷く。

「母親が知ってたかどうかは分からんが、あの子は宝石の呪いを知らない。宝石の負の面を知らない彼は、正の面だけのイメージを持って行った。残された呪いの石と実体は俺が貰ったって訳だ」

「貰ったって、取引は成立してるのかよ」

「もちろん。そんな危ない橋は渡らないさ」

 鼻白んで足元を覗きこむ宝石屋に、窓也が小さく笑った。

「取引は、最初の会話で彼が「なんでもする」って言った時に成立してたんだ。対象が“何でも”なんだから、彼は俺の要求を選ぶことが出来ない。で、俺は仲介屋を探し、宝石を取り返すのを手伝った。自分の報酬を要求する権利は完璧だった」

「最初から狙ってたのかよ」

「まあ、落としどころはこの辺りだろうと思ってたさ。あの子が幽霊なのは姿を見ればすぐに分かった。どうやら紫の女王の呪いを知らないのも分かった。宝石を手に入れられれば成仏するだろうというのも分かった」

 このペテン師め、と宝石屋が罵るのに、心外だな、と窓也が肩をすくめる。

「あのまま取引もせず宝石を奪われたまま彷徨ってたら、いずれあの子はこの夜市に栄養として美味しく頂かれてたに違いないんだぜ。それにあの子が宝石のイメージだけじゃなく、実体ごとあの世に持って行ってしまう可能性もあったしな」

「はん。俺が見たところじゃ、その美人さんはこの一件で、ますます呪いを濃くして、力と美しさを増したようだがな」

 見下ろす窓也と見つめる宝石屋の視線の先で、宝石はきらきらと光を放っている。薄く透明がかった部分はいつの間にか内側の紫に侵され、けぶるように妖しい魅力を振りまいていた。ほう、と宝石屋が感嘆の息を吐く。

「呪いの宝石だ。だが、だからこそ美しい」

「確かに、その通りだな」

 珍しく素直に頷いて、ふいに窓也がつい、と宝石を男へと差し出した。訝しげな表情で顔を上げる宝石屋に、面の下でにやりと笑う。

「さて、百戦錬磨の宝石屋。あんたなら、これをいくらで買い取る?」

 ぽっかりと広がる黒い空の下で、夜市は変わらずざわめきを湛えている。


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