第三節③
13/10/01 誤字脱字の修正
第三節 つめたいもの、温かいもの〔続き〕
「徹ちゃん。あたしの離れていた間に何かあったのかな?」
疾うに病室に着いて、仁枝を見つけていても良い頃合いだというのに、病院の玄関近くの横断歩道で、仁美は足を止めていた。
徹を見つけて駆け寄った仁美は強張る顔から一変して、徹の良く知る表情になった。
「ああ、何年前だったかな。女の子が車のサイドミラーに引っ掛けられたんだ」
「そんなのあたし、知らないよ? 何で病院に近付こうともしなかった徹ちゃんが知ってるの?」
「仁枝さんが教えてくれたんだよ」
「でも……。お母さんはどうして知ってたんだろう?」
「病室が同じだったらしい」
「そっか、それなら――って。そんな話、徹ちゃんにしなくてもいいのに」
何でだろうと、なお徹に理由を問おうとするのを、徹は仁美の左手首を掴んで、病室に向かった。
「仁枝さん」
「あら、珍しいわね、徹君」
「お母さん? ベッドにいなくて良いの?」
扉脇のプレートに『岡本様』とある部屋にノックして入ると、ちょうど仁枝が花を差し替えているところだった。
仁美はそんな仁枝の様子に驚き、近付き、ベッドに視線を向けて、息を飲み込んだ。
「徹君は、確か二度目よね。私の退院後は初めて」
「はい。いつもは、約束に翻弄されていたから」
「今年は良いの?」
「いえ、ここに来て、伝えることが一番大切なことだと分かったんです。繰り返して、ようやくだけど」
「それはごめんなさいね。あら?」
仁枝は、徹の右手に暖かみのあるチェック柄のそれを見つける。
「その手にあるのは、シュシュかしら?」
「髪が伸びた時に買うって、約束していたんです。俺のセンス、どうかな?」
「そうなの。その色なら、あの子にも合うと思うわ」
「良かった。ここにきて、仁枝さんに駄目出しされたら、どうしようかと思ったんだけど」
「杞憂よ。徹君はずっと磨いてきたんだから、色は問題ないわよ」
仁枝の評価に、徹は安堵した。
「でも、本当にあなたたちは約束ばかりね」
「それを言うなら、『私たち』じゃない?」
「――そうね。約束を結んでいれば、弘光さんは傍にいないといけないからね」
「俺もそれは思ってました。でも、空しくなって……」
「徹ちゃん。あたし、ここに……」
ベッドの向かい側で、仁美は透けていた。ニット帽、ジャンパー、マフラー、手袋が見えなくなっていた。
「さっきの運ばれた女の子って……」
「仁枝さん。話し掛けても大丈夫かな」
「あの子も喜ぶと思うわ」
「いや、たぶん驚かれるかも」
「それならそれで良いじゃない」
「ですね」
徹は仁枝にことわり、ベッドに寄った。膝を折り、急に回らなくなる口に、ひと呼吸置いて、話し出す。
「ずっと、ごめんな。仁枝さんが倒れて大変な時期だったのに、自分のことしか考えられなかった。整理の付かないまま、俺の気持ちを積んじまって、今までのような日常に逃げたかったんじゃないか?」
「分かったよ、徹ちゃん。そっか。事故に遭ったのは、あたしなんだ……」
「約束をしたんだ、仁枝さんと。入院中はなるべく二人でいたいって。家族だもんな。当然だと思って、俺頷いたんだけど、いつも近くにいた仁美がこのまま戻って来ないんじゃないか、って恐かったんだ」
「そっか」と、一段と透けた仁美が応える。
「それで、話せるうちと早まったことを。俺――」
「今もそう思ってる?」
仁美の言葉に応じるように間を置いて、徹は続けた。
「仁美。俺な、やっぱりお前のことが好きなんだわ。仁枝さんも元気になったから、じっくり考えてくれよ。もう、人の目を気にして気持ちを誤魔化すのは止めるから」
「お母さんね。三年が経った辺りで心棒が折れそうになったの。お父さんも戻ってこない上に、あなたもでしょう? でも、それを伝えたら徹君が言ったのよ」
仁枝の言葉を継ぐように、徹が直ぐに震える口を開く。
「『仁美なら、俺のそばで笑っている。事故に遭ったことなんか知らないと、毎年プレゼントをねだりに来るんだ』」
「って。お母さんね。それを聞いて、バカらしくなっちゃったわ。カエルの子はカエルって、言葉の通りで。だから、仁美。あなたも私の子らしく、約束は守りなさい。で、徹君は、もっと気持ちに自信を持ちなさい。そもそもお寝坊のこの子がいけないんだから」
仁枝の涙混じりの言葉の終わりを待って、さらに徹がしっかりとした言葉で継ぐ。
「だからさ、そろそろ起きろよ。母さんとの約束を守らせてくれよ」
「いつも四人で囲んだパーティーで、香純さんに向かって見せていた、恒例の『お手手つなぎ』のことかしら? 二人してはにかむ姿が微笑ましかったのよね」
徹は仁枝の確認に、目を覚まさない仁美から視線を外さずに頷いた。
「香純さんの性格からすると、背中を押したのかな。きっかけ作りだったのかも知れないわ。だから、わざわざお墓まで見せることはないと思うわ。でもね、仁美。徹君は私との約束も守ってくれたんだからね。あなたが約束を守らないなんて、お母さん許さないんだから」
その晩が如何に聖夜であろうと、徹や仁枝の言葉を受けて仁美が涙を流すことも、目蓋を開くような奇跡は起きることはなかった。
ただ、脳波計を刻む針の動きが前日までよりも単純かつ規則正しくなっていたことに、翌朝になってから巡回の医師が気が付いた。
仁枝に代わり、一晩を隣りで過ごした徹は、それがどういうことか分からなかったが、良いことなのだろうと漠然と受け止めた。
そして、それが気のせいなどではないことに気が付くや、逸る気持ちを押さえ込んで、神妙な面持ちで医師の退室を心待ちにした。
静かに繰り返されていた呼吸に、小さく「ん」と音が溢れたのを徹の耳朶が触れた。徹は仁美の口元をじっと見つめて、そのシュシュの飾られた右側に、仁美の立ち姿を再び見た。
「もう。やっと気が付いたんだ、徹ちゃん」
「え、仁美?」
昨日まで一緒だった仁美とは、その装いは全く違っていた。とくに、シュシュを着けているところなど。
しかし、首肯する仁美に、徹はその理解を超えて「何で? あれ? だって」と毀れかけていた。
「ふふ。徹ちゃんのバカは安心するなぁ。体が硬いの。寝過ぎだよね、きっと」
「だ、だからって誰かに見られたら」
「大丈夫だよ。あたしは事故に遭ったの。徹ちゃんだけがそれを知らないで、あたしを見つけてくれた」
「そ、それは仁枝さんが教えてくれなかったからで――」
「うん。だから、あたしは徹ちゃんにしか見つからないよ」
「そう、だな」
「でね、お母さんはああ言ったけど、やっぱり香純さんに見せに行こう? いっぱい大切な服で厚着してさ。一日遅れちゃうけど、許してくれるよね?」
仁枝にベッドで眠る仁美の左手を繋がされた徹は、この一連の驚きにも解くことなく、ただ握る力を込めた。
「……美ぃには母さん、優しかったからな」
「うん。温かい……徹ちゃんの手だね」
恥ずかしがりながらも、喜色満面に破顔した徹は、ナースコールをしようと立ち上がろうとした。
しかし、仁美が僅かに左手を引き、待ったを掛けた。
「何で? 皆に知らせないと」
医師の退室を待ったことを棚に上げて正論を告げる。
「頭の中がスッキリしているの。本当に、安心してるんだと思う。バカとかが理由じゃないよ」
「仁美?」
「あたしね。徹ちゃんと手を繋ぐの、嫌じゃないよ。でも、恥ずかしがりだったから、女の子と手を繋いでばかりいるの、嫌なのかな、って。その上、病気にもなっちゃったから」
突然、訥々(とつとつ)と打ち明け始める仁美に、徹は姿勢を正すとその他一切のことはまとめて棚に陳列させた。
「だから、香純さんから『徹とお手手繋いでやって』なんて言われた時は、慌てちゃった」
「いや、あれは俺が悪かったから」
「ううん。違うの」
果たして、クリスマス――その昼に仁枝がやって来るまで、徹は仁美の病室で過ごし、その後は大目玉を喰らった。
一旦徹に席を外させ、仁美を抱きしめながら、駄目な母親だと泣いて謝った。
「バカ。あなたがいつまでも起きないから、お母さん諦めちゃいそうだった。でも徹君が待って欲しいって。進学もやめて、バイトで治療費の一部と約束をずっと……」
「……ん」
「仁美のバカァ……」
その後、医師と看護士が仁美の状態を検査に遁走し、慌しい時間は数日に渡って続いたものの、瞬く間に過ぎていった。
「ごめんね、徹。……結局、一日どころじゃなかったね。それに着膨れることも、約束守れなかった」
病院に来た徹に、開口一番に仁美は謝り、仁枝は窘めた。
「徹君。服はね、色を変えれば良いってものでもないの。成人している娘に、ジャンパーはセンスがなさ過ぎ。色はすっごく良いのよ。だから、もっと精進なさい」
仁美の服装は、肌着はともかく、上はタートルネックの服に、ファーの付いたダウンジャケット、下は綿パンに、ムートンブーツという珍しく薄めのもので、一つ一つの細かな名称を知らない徹が思ったことは、とにかく軽そうだな、であった。
「仁枝さんにも言われたけど、墓の前に行かないと駄目なんて、母さんは言ってないし。そもそも出来ない約束はしないんだろ? この間のは、母さんなら許してくれるだろうって、俺は同意しただけだよ」
「そうだよ。でも、徹は覚えていないんでしょう? 違うの」
何日遅れようとも、歩き出さないことには進まない。徹はぶっきらぼうに右手を差し出すが、手袋を取って差し出した仁美の手もまた同じだった。自身の右手をポケットに収め、真っ赤に顔を染め上げて歩き出す。
「クリスマスとは誰も言ってなかったと思うけど、お墓まで手を繋いで行くのはね、徹ちゃんとの約束なんだよ。だから、あたしは必ず守りたいんだよ」
「そんな約束……いつ?」
初めて聞くことだと、徹は――サイドにまとめた髪にシュシュが映えている――仁美を見て、頭を右斜め上に捻った。
「本当に覚えてないんだ、徹。香純さんが亡くなった年のことだよ。『付き合って』って、あたしに言ったんだよ。ドキッとしたのに」
「お、おい。それは、告白とかじゃなくて」
「分かってる。でも、寒いから『手を繋いで行こう』とか、あたしに向かって『近くに居て』って。覚えてない?」
「それは……言ったかも知れない」
徹は仁美に訊かれて、当時の心うちを思い出す。
「母さんと同じ病気で、あの頃はまだ手術のずっと前だったから、恐かったんだ。だから」
「うん。あたしも徹と一緒にいたかった。あたしに何かあっても、大丈夫なように」
「じゃあ……」
「あたしの気持ちがいつでも届くように。それは、病気で弱っていたからじゃない。あたしも大好きだよ、徹ちゃん」
徹は母親の墓前に立つ。隣りには長く伸びた髪をシュシュで纏めた仁美を連れ、繋ぎ合った手底の温もりを互いの心と共に、通い合わせる。
掌中の珠を確かに見出だし、二人はこの春を迎えた。