第三節②
第三節 つめたいもの、温かいもの〔続き〕
「ホラよ」
「キャッ!」
仁美の後ろに回って、徹は頬に缶を当てた。デフォルメの施された蜜蜂がレモンを運んでいる絵がプリントされている。
「いっつもやってたのに、本当にダメなんだな」
「こんなの慣れるはずないじゃない!」
仁美は怒って乱暴に缶を奪い取る。
「なら、いつも自分で買えよな。品を変えないからって頼むなよ」
「嫌よ。動くと暑いから」
「お、おい……」
「何よ」
「もういい。で、次はどこ行く?」
「あたしが全部決めるの?」
「ああ、決めてくれ。次はどこに行きたい? 約束は日没だからな、まだまだ大丈夫だぞ」
日没までは、あと八時間はある。
「あたしを八時間も連れ回す――ううん、あたしが連れ回すの、八時間も? 長過ぎだよ、徹ちゃん。あたしの思いつく場所なんかぁぁぁぁ、少ないから……」
徹は仁美の方に、じと目を向ける。
「俺は、行きたい場所を訊いたはずだけど?」
「あ、うん。そ、それはね」
「な~んてな。仁美が思いつく場所なんだろ、きっと意味はあるんだよ。八時間だって、悩む時間も考慮しているんだ」
「徹ちゃん、それどういうこと?」
仁美には、自分の希望通りの場所に行くことで、大切なものが手にはいるか経緯がまったく分からないと首を傾げる。
「気にするなよ。おかげで仁美に飲み物を奢ってあげられたから」
「嬉しいの? 奢らされたのに?」
仁美は徹を不思議なものを見つけたかのように、目を見張った。
「そんなに珍しいかよ」
徹に言われても、仁美はうんうんと頷く。間を置いてから慌てて視線をそらした。僅かな時間だったが、徹は長く感じたようだ。
「カエルになった気分だったぞ」
「ガマの油?」
徹がその通りと鼻息を荒くする一方で、「けろけろ。徹ガマけろ」とか何やらおどけて笑う仁美の姿。
「さて。で、次はどうする、仁美?」
「…………」
仁美は目を落として考えるが、この時間にもう一人絡んでいることを思い出して、答える代わりに問う。
「あたしの行きたいところに連れて行ってくれるのは、この後にあたしをどこかに連れて行くつもりだからかな?」
仁美は訊くが、返事は無かった。仕方なく、嘆息してから言った。
「……学校、屋上に行きたい、かな」
「高校、だよな」
「うん。それでね、景色を見るの」
「今日から冬休みに入ってると思ったんだけど、入れると思うか?」
徹は今日という日を思い出して、仁美に尋ねる。
「そう言われてみれば。じゃあ、校門か柵を越えて行こうよ、徹ちゃん?」
「あれ、仁美さん。何か怒ってるのかな?」
「それはねぇ」
「いや、それ以上は言わなくていい。壁は高いけど、駄目もとで行ってみるか」
「じゃあ、バスで行こうよ」
「いつもそうだったからな。分かったよ」
仁美に行き先を任せたのだから、それに従うまでと、徹は了承した。
今、徹のいる場所からバス停までは大した距離ではなかった。時間だって、四年間世話になった経験から急ぐ理由はなかった。
だから、少しばかり先のバス停に目を遣り、そのまま目を剥き、駆け出した。
「徹ちゃん。今日は祝日ダイヤだよ?」
仁美に呆れられながら、徹はどうにか間に合ったが、運転手の好意による部分が大きいことも疑う余地はなかった。
「乗り賃は貸しな」
「明日は大雪かな」
「このどんよりとした雲を見て、その予測は普通じゃないか?」
二人分の運賃を投入し、隣りの仁美に話し掛ける。
表示された投入運賃を見て運転士は何かを言っていたが、徹は仁美との会話に一所懸命になって「いいですから」と適当に応えた。
この時期に登校する奇特な者などいないかと思えば、スポーツバックを背負うジャージ姿の学生が数人いた。
徹は「あー……」と視線を惑わせ、振り払うかのように左右に顔を振った。
「徹ちゃん。どうしたの?」
「俺は危なくない。危なくないんだ」
「何のことか分からないけど、その言葉がスッゴく危ないよね」
結果から言うと、徹は屋上には行けなかった。校門は開いていたが、グラウンドを一部学生に利用させていただけで校舎内へ繋がる扉、手の届く窓は全て施錠されていた為だ。
バスに揺すられること、数十分間――高校までやって来た徹は手の届く範囲の確認を成果のないまま終わらせた。
仁美はいつの間にか離されていた手を胸の辺りで組み、かすかに震える手を押さえていた。
「……ごめんな、仁美」
徹はあえてその様子には触れなかった。代わりに、仁美には届かないほど小さな声で呟いた。
小学生の頃に病気を患った仁美に自分が思わず口にしてしまった汚い言葉と、手を払い除けてしまった行動に、そして自分のわがままに振り回され続ける仁美に、加えて仁美たっての願いの一つも叶えられないことに、徹は背を向けて唇を噛んで謝った。
その間に、仁美の髪の毛がわずかに長くなる。マフラーに掛かるか掛からないかの長さから、覆う程になっていた。
この時が来ることを学んでいた徹は、これより先、如何なる恥も甘んじて受けなければいけない分水嶺に、またやって来ていた。
「やっぱり駄目だったか。ごめんね。じゃあ、まだ早いけど、次はお墓に行こうよ」
駆け出そうとした仁美の裾を、また掴み損ねることのないように、慎重でありながら大胆に、徹はようやく取った。
「いや、先に女の子のところに行くから、お墓はいつもの時間に」
「じゃあ時間まであたしはどこに居れば良いかな?」
「俺と一緒に来てほしい」
「ちょっとぉ。待って。待ってよ。あたしと徹ちゃんはただの幼馴染みじゃない。何で、あたしが着いていかなきゃいけないのよ」
「仁美にも、聞いてほしいからだよ」
徹は白い息で頬の赤みを隠そうとする。
「なによ、徹ちゃんは自分の気持ちも一人じゃ伝えられないの?」
「そんなにお子ちゃまなの?」と追い討ちを掛けるように下から徹を覗き込んだ。
対して、徹はそっぽを向いても、震える声で、途切れ途切れでも黙らずに答えた。
「恐、いよ。だって、俺の、せいで。俺は、だって。いつも……に、逃げてたから」
徹は言葉にならない多くの気持ちを熱い吐息として漏らした。その全ては自身の鼻を、目元を湿らせる。その後も口ぱくは続いたが、そんな徹の姿を知らない仁美は、その様子に何もなかった。
「――だから。仁美、次は病院に行かないと」
「病院に? どうして?」
「覚えてるだろ、仁枝さんの入院した病院だから」
「え? お母さんは……そうだよ! あたし、過労で倒れて入院したお母さんにお遣い頼まれてたんだよ。着替え取りに――って。徹ちゃん、ごめん。先行くね。お墓はその後に一緒に行くから」
「ありがとうな。俺も後から行くよ」
「ううん。だって、あたしも約束したから。ちゃんと守りたいの」
徹の言葉を受けて、仁美は急に取り乱した。どうして、こんな取り返しの付かないことを忘れていたのだろうか、と。
そして、「約束は守りたい」と告げて、手にしていた着替えを入れた鞄をいつの間にか抱えて曲がり角の向こうに消えるのを、徹は見送った。その後で、電柱に寄り掛かり、空を仰ぐ。
相変わらず、かなりの厚みのありそうな灰色の雲が立ち込めている。夜は雪か、さもなければ冷たい雨かという空模様だ。
「謝ってばっかりだな、俺たち。でも、俺よりはずっとマシなんだよな、仁美は。大体が、俺が誤ってばかりいたせいなんだから」
徹にとって、クリスマス・イヴは楽しみに待つ日ではなかった。
「仁枝さんと居た方が良かったんだ、家族なんだから」
家族が一緒に過ごせるのならば、幼馴染みの仁美を巻き込むのはおかしい。仁枝の元に居候し、留守にして長い弘光の部屋を借りる徹も、家族の一人として数えられていることを知っていても――。
徹は首を振る。
「やっぱり恐いんだ。でも、駄目なんだよ。それじゃぁ、駄目なんだよ。俺は。もう目を覚さないと」
昨晩とは違う仁美の様子を、見る以上に感じた徹は、一足早く墓前にやって来ていた。
そして、『渡辺家之墓』と彫られた石に、徹は手を合わせて話し掛ける。
「母さん。毎年毎年みっともない姿を見せてごめん。でも、今年は安心してよ」
「信じられるものですか」――そう母親に言われている気がして、徹は十数年前に亡くなった香純のことを思い出していた。
髪をゴムバンドで纏めては、後ろに流していた香純は、重い病気にあっても接触や空気では感染しないことを盾に、徹に毅然とした母親の姿を見せていた。
「母さんには甘えていたのに、同じ病気を患った仁美の手を払い除けた時の母さんは本当に怖かった……」
徹は、香純から頭に拳骨を落とされた箇所を触れる。
「今もことあるごと、というか名前を語気荒く呼ばれると夢現に関係なく、押さえちゃうんだ」
「それは、あなたがバカだからよ? もう分かっているんでしょう?」
徹は、香純の言葉を幻聴し、苦笑する。
「だから、そろそろ行くよ。たまには来てくれると楽なんだけど」
「お母さんにはこの石をどける力なんて無いんだよ。呼吸する筋力も無かったんだから、あなたが来なさい。手を繋いでもらってね」
「またまた。本当に痛かったんだぞ、拳骨」
「骨張ってはいたかもね。でも仕方なかったの、そういう病気だし、あなたが悪いんだし」
「じゃあ、また後で」
良いように会話を交わし、気持ちを和らげた徹は、仁美の後を追うように病院に向かって駆け出した。上着ポケットから取り出したワシャクシャとした髪留めを右手に握り込んで。