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婚約破棄宣言をされても、涙より先に笑いが込み上げました。【リメイク版】

作者: 一ノ瀬和葉
掲載日:2026/09/10

私の名はセシリア・エルディア。

 エルディア公爵家の長女として生まれ、物心つく前から王太子リオネルとの婚約者として運命を背負っていた。


 外から見れば、それは誉れ高い人生の始まりであるはずだった。だが幼い私にとって、それは牢獄の扉が開かれるのを待つ日々に過ぎなかった。心の奥では、小さな私の魂がずっと囁いていた。


 ――私は自由になりたい、と。


 それは贅沢な願いだったのかもしれない。公爵令嬢として不自由のない暮らしを与えられ、王太子妃という輝かしい未来まで約束されている。周囲から見れば、私ほど恵まれた人間はいない。


 それでも私には、自分で選んだと言えるものが何一つなかった。何を学ぶか。誰と話すか。どんな本を読むか。将来どこで暮らすか。すべてが「王妃になるため」という一つの目的に従属していた。


 だから私は、いつか"自分で自分の道を選べる日"を、ずっと夢見ていた。


 ◆


 そして学園に入学すると――事件は起きた。

 リオネル殿下が心を寄せたのは、辺境伯の娘リリア・ハートフィールド。


 彼女は庶民に近い出自ゆえに礼儀を欠き、言葉遣いも危うい。私とは真逆の存在だった。だからこそ殿下にとって、とても眩しい存在に映ったのだろう。殿下にとって彼女は「自分を飾らず慕ってくれる天真爛漫な少女」だったのだ。


 対照的に、私は「冷たく、感情のない婚約者」として映ったのだろう。

 噂はすぐに形を持ち始めた。


「セシリア様がリリア様に意地悪をしている」 「嫉妬に狂った悪役令嬢だ」

 根拠はない。ただ都合のいい物語が転がっていただけ。


 けれど、殿下はそれを信じた。


「セシリア、君はリリアに冷たすぎる」

「……殿下、私は何もしておりません」


「態度が問題なのだ。君の無愛想さは、王妃にふさわしくない」

 そう告げられたとき、私は理解した。


 ――この婚約は、遅かれ早かれ終わる。


 そして迎えた舞踏会の夜。

 会場へ向かう馬車の中で、私は窓の外を眺めていた。今夜、何かが起こることは分かっている。ここ数週間、リリア嬢と殿下の噂はあまりにも露骨に広がっていたし、私への非難も不自然なほど一方向に傾いていた。


 ならばせめて、自分の最後の言葉くらいは自分で選ぼう。

 泣くのか。怒るのか。 弁明するのか。 それとも――笑うのか。

 私は膝の上で手を組み、ゆっくりと息を吐いた。不思議なことに、怖くはなかった。


 馬車が王宮の門をくぐる直前、私はふと父の言葉を思い出した。


「今夜は余計なことをするな」


 あれは忠告だったのか、それとも諦めだったのか。どちらにせよ、私はもう尋ねる気にはなれなかった。


 御者が扉を開ける。降りようとした私の前に、いつもの侍女が小さく頭を下げた。


「お帰りを、お待ちしております」

 たったそれだけだった。けれど、胸の奥が少しだけ緩んだ。


「ええ。あなたには、明日の朝も紅茶を頼むわ」

「もちろんです」


 その返事を聞いて、私は馬車を降りた。


 広間へ向かう廊下には、すでに人が集まり始めていた。

 私を見て、会話を止める者。わざと聞こえる声で笑う者。逆に、気まずそうに頭を下げる者。誰もが今夜の結末を知っているようだった。私は一人ずつ顔を見ないようにした。


 顔を見れば、昔の思い出まで一緒に浮かんできそうだったから。


 そして時は満ち、殿下は群衆の前で高らかに「婚約破棄」を宣告した。


「セシリア・エルディア、公爵令嬢との婚約を――ここに破棄する!」

 リオネル殿下の声が舞踏会場に響きわたる。


 ざわめく群衆。震えるリリア。  すべてが、殿下が望んだ舞台装置だ。


「君はリリアを妬み、彼女のドレスを汚したり、舞踏会から締め出そうとしたりした! そのような卑劣な令嬢を、未来の王妃として迎えることなどできぬ!」


 会場からは「まあ!」と小さな悲鳴。


 誰一人、証拠を求めようとする者はいない。正確には、疑っている者がいないわけではなかった。会場の端では、何人かの貴族が互いに視線を交わし、小声で何かを確かめ合っている。けれど、ここで王太子殿下の言葉に異議を唱えることは、王家の判断そのものに疑問を呈することになる。


 しかもリリア嬢の周囲には、すでに「ドレスを汚されたところを見た」という侍女の証言まで用意されているらしい。


 真偽はともかく、話として成立する材料だけは揃っている。会場の隅で、伯爵夫人が侍女に小声で尋ねていた。


「本当に、その侍女は見たの?」


「……そう聞いております。ただ、王太子殿下がすでに確認されたとか」


「そう。なら、今ここで口を挟むのはやめておきましょう」


 そのやり取りが、妙に耳に残った。証拠がないのではない。調べる前から、調べる必要がないことにされている。


 少し離れたところでは、別の貴族が青ざめた顔で従者に囁いている。


「リリア嬢の侍女が証言したのなら、表向きは筋が通る。だが……公爵家まで敵に回す話だぞ」


「だから黙っているんだろう」


 私は聞こえないふりをした。この場で真実を叫んでも、誰かが私のために剣を抜いてくれるわけではない。むしろ、声を上げた者が次の標的になる。


 私は深呼吸を一つ。  そして静かに答える。


「承知いたしました、殿下。ご決断、心よりお慶び申し上げます」


「なっ……」  


 リオネル殿下の声が裏返った。


 期待していたのは、泣き叫ぶ悪役令嬢の姿だったのだろう。リオネル殿下の握り拳が微かに震え、唇が引き攣る。


 だが、その隙を埋めるように、リリアが小さく震える声で言った。


「……わ、わたし、本当は……セシリア様が、少し怖かったのです。目が、いつも冷たくて……」


 その言葉と同時に、リリアの瞳の奥に光る真っ直ぐさが、会場のざわめきをかき消した。まるで小さな花が嵐の中で揺れるように、その存在だけで空気を和らげる力を持っていた。


 私はその場面を一瞬だけ見つめる。理屈では割り切れる感情だとしても、彼女の可憐さ、純粋さは否定できない。


 ――確かに、この舞台で輝くべきは彼女だと、誰もが思うだろう。


(上手いわね。これで“私は何もしてない”と言っても、全部否定される)


 案の定、殿下は彼女の肩を抱き寄せ私を睨みつけた。その仕草を見て、私はようやく確信した。これは恋人同士の幸せな場面を見せつけるためだけのものではない。


 殿下は、私を悪役に仕立てることで、自分が婚約者を捨てた側だという事実を正当化しようとしている。


 もし私が泣き崩れれば、「冷たい婚約者から解放された王太子」という物語が完成する。


 私が怒れば、「最後まで王太子に逆らう悪女」という物語になる。


 どちらを選んでも、彼らにとって都合がいい。だから私は、そのどちらも選ばなかった。私が笑えば、少なくともこの舞台の結末だけは、彼らの思い通りにはならない。リリア嬢が「計画通り」と言った表情で唇の端を少し上げ、私に目を合わせる。


「聞いたか! リリアは恐れていたんだ! 彼女の優しさゆえに口にしなかったが、君の冷酷さは皆が知っている!」


 ……ほんと、完璧な筋書きね。


 だから私は、一歩前に出て、はっきりと言った。ここで反論すれば、殿下の用意した舞台をもう一度演じることになる。証拠を並べて争うことも、皆に理解を求めることもしなかった。今の私にとって大切なのは、彼らの物語を覆すことではなく、その物語から降りることだった。


「殿下。リリア様。どうぞ末永くお幸せに。――もっとも、私の悪名が王国中に広まったあとで、まだ“純白の恋物語(ラブストーリー)”が続くかどうかは、存じませんが」


 会場が一瞬、静寂に包まれた。


 殿下の顔が赤く染まり、リリアの肩が小さく震える。誰もが言葉を失い、その場に張り付いたように視線を泳がせる。まるで世界が、この一言の重みだけで止まったかのようだった。


 私は深々と一礼した。


「それでは、私はこの場を失礼いたします。二度と、あなた方の舞台に上がるつもりはございませんので」


 ――それが、私の婚約破棄の幕引きだった。


 舞踏会の翌日から、噂は稲妻のように王都を駆け巡った。


 朝食の席に着いたとき、新聞には早くも小さな記事が載っていた。


 王太子と公爵令嬢の婚約破棄。


 理由として書かれているのは、私がリリア嬢を虐げていたという、昨夜の主張そのものだった。父は記事を一瞥しただけで、何も言わなかった。父の向かいには、昨日まで私に仕えていた侍従が立っていた。


 彼は新聞を受け取ると、ためらいがちに口を開いた。


「旦那様、南地区の商会からも問い合わせが来ております。公爵家が王家と対立するのか、と」


「返事は不要だ」


「しかし、お嬢様への中傷まで放置するとなれば……」


 父の指が机を二度叩いた。

「放置しているのではない。今は動く時ではないのだ」


 私はそこで口を挟んだ。

「お父様。私についての記事ですが、訂正はなさらないのですか」


 父はしばらく沈黙したあと、淡々と答えた。

「王家が公に決めたことだ。今さら騒ぎ立てれば、公爵家と王家の対立と受け取られる」


 それは父なりの現実的な判断だった。私を信じているとも、疑っているとも言わない。ただ、家を守るために沈黙する。その言葉を聞いて、私はようやく理解した。


 この世界では、正しいことと、正しいと主張できることは別なのだ。だからこそ私は、自分の人生だけは他人の判断に預けないと決めた。


「やはり公爵令嬢セシリアは悪役だった」

「リリア嬢を虐げた挙げ句、殿下に見放された」

「断罪の場でも冷笑を浮かべたらしい」


 ――面白いことに、私は実際には泣きも叫びもしていないのに、人々の話の中で私はすでに「醜態をさらした哀れな女」になっていた。


(噂というのは便利なものね。事実なんて誰も求めていないのだから)


 その結果、私のもとを訪れる令嬢はいなくなり、友人と呼べる存在も一人残らず去った。


 数日後、屋敷の裏口から小さな包みが届いた。差出人の名はない。中には、学園時代に私が貸したままになっていた栞と、短い紙片が入っていた。


『本当は、あなたがそんな人ではないと思っています。でも、今は会えません。ごめんなさい』


 私はしばらく紙片を見つめた。

「……それで十分よ」


 侍女が不思議そうに私を見る。

「お返事は?」


「いらないわ。いつか、自分の足で会いに来られる日が来たら、そのとき話しましょう」


 以前の私なら、全員に誤解を解いてほしいと願っただろう。けれど今は、誰かが自分の立場を守るために離れることまで責める気にはなれなかった。


 以前から私の周囲には、王太子妃になる公爵令嬢と親しくしておきたいという打算も少なからずあった。だからこそ婚約が破棄された瞬間、彼女たちにとって私との友情は、危険な賭けへと変わってしまったのだろう。


 私を嫌っているというより、王家の不興を買うことを恐れて離れていった者もいる。それを思えば、誰一人として残らなかったことも、さほど不思議ではなかった。社交の場に出れば、さりげなく距離を取られ、目を合わせれば扇子で口元を隠して笑われる。


 ――そう、私は完璧に孤立した。


 けれども。 「……静かでいいわね」皮肉ではなく、心からそう思った。


 婚約者という名の鎖に縛られていた頃は、「王妃にふさわしく」と四六時中、監視されているようだった。笑顔ひとつにも気を使い、失言を恐れて口を閉ざし、常に正しくあろうとした。


 今はどうだろう。

「悪役令嬢」という烙印を押された私は、何をしても悪く言われる。ならば逆に、気を張る必要などないのだ。紅茶をどれだけ飲もうが、侍女と世間話で笑おうが、


 ――もう「王太子の婚約者」として咎められることはない。


(悪評も、自由の対価と思えば安いものだわ)


 もっとも、婚約を破棄されたからといって、私が本当に何の義務もなくなったわけではない。私は今もエルディア公爵家の娘であり、社交界から完全に姿を消せば父の立場にも影響する。それでも、少なくとも「王太子妃になるための私」を演じ続けなくていい。


 私が欲しかった自由とは、何をしても許されることではない。自分の好き嫌いを、自分の言葉で決められることだった。


 だが、私の冷静さは周囲にとってはかなり意外だったのだろう。噂は私の話題で持ちきりだった。


「セシリア様、落ちぶれて泣き暮らしているらしい」

「いいえ、屋敷で笑っているそうよ。不気味だわ」


 ……侍女によるとどうやら私は今、「泣き崩れる悪役令嬢」から「笑う悪役令嬢」へとアップデートされたらしい。その言葉を聞いて、私は思わず笑った。


「人というのは、随分と忙しいものね」


「お嬢様、笑い事ではありません」

 侍女は心配そうに眉を寄せる。


「もし本当に危険な噂まで広がったら、外出も控えたほうが……」


「そうね。でも、ずっと屋敷に閉じこもるつもりはないわ」

 私は窓の外を見た。


 婚約者を失ったからといって、私まで世界を失ったわけではない。むしろ今まで知らなかった場所へ行ってみたい。王妃になるために必要だからではなく、私が興味を持ったから。そんな理由で何かを選ぶことが、こんなにも贅沢なことだったのかと、少し可笑しくなった。


 その頃、王宮でも小さな動きが起きていた。


 リリアの侍女の一人が、私のドレスを汚したという証言を撤回したのだ。


 ただし、本人が自分から申し出たわけではない。別の侍女が、夜遅くにこっそりと宰相家の使用人へ話したらしい。


「ドレスには、リリア様自身が触れていました」


「なぜ今になって?」


「……怖かったのです。あの場で違うことを言えば、殿下の命令に逆らうことになりますから」


 その話はすぐには表に出なかった。証言をひっくり返せば、王太子の判断そのものを覆すことになる。だから大人たちは、誰もが慎重だった。けれど、噂の中には少しずつ亀裂が入っていった。


 しばらくしてもう一通の手紙が届いた。


 差出人は――侯爵家の令息、アルノー・ヴァルディエール。


 私は彼の名を以前から知っていた。社交界で目立つ人物ではないが、侯爵家の嫡男として政治や歴史に詳しく、学園でも教師たちから一目置かれているという話を聞いたことがある。


 何度か同じ場にいたはずなのに、言葉を交わしたことはなかった。だからこそ、今回の手紙には少し意外なものを感じた。私の噂を聞いただけで近づいてくる者なら、いくらでも疑う理由がある。けれど、彼ならば少なくとも私を王太子の元婚約者という肩書だけで見てはいないのかもしれない。


 内容は簡潔だった。


『舞踏会でのご対応、見事でした。もしよろしければ、お茶の席を共にいかがでしょう』


 ……まったく。  婚約破棄から数日で、新しい誘いとは。


(さて、これは私の物語に新しい幕が開いた、ということかしら?)


 手紙を受け取った日の午後、私は応接室で紅茶を片手にその文面を読み返していた。婚約破棄の一件以来、私に接触してくる貴族は皆無だった。


 にもかかわらず、彼だけはこう記していたのだ。


『あの日のご対応、見事でした。殿下と令嬢に侮辱されながらも、毅然と振る舞われたその姿に敬意を表します』


(……見事、ですって?)


 王都中が私を「笑う悪役令嬢」と呼んでいるのに、彼だけは違う見方をしているらしい。正直なところ、半分は好奇心に押されて、私は誘いを受けることにした。


 ――指定された茶会の場は、王都の郊外にある侯爵家の別邸だった。


 馬車を降りると、思っていたよりも静かな庭が広がっていた。庭師が手を入れてはいるものの、王宮の庭のように「見せるため」に整えられたものではない。少し伸びた草も、季節を終えた花も、そのまま残されている。


 私はその光景を見て、なぜか肩の力が抜けた。案内された応接室にも、王宮のような豪華さはなかった。


 使い込まれた机と本棚、それから窓辺の小さな花瓶。人が暮らしている場所なのだと思えた。

 アルノーが私をここへ呼んだ理由も、少しだけ分かった気がする。ここでは誰かに見せるための「公爵令嬢」ではなく、一人の客としていられるのだ。


「ようこそ、セシリア様」

 現れたアルノーは、穏やかな微笑を浮かべた青年だった。


 殿下のように煌びやかな美貌ではない。だが彼の瞳は真っ直ぐで、相手を品定めするような妙な嫌らしさがない。


 私の家族の視線は常に不快なものだった。


 父は「公爵家の名に恥じぬように」と私を値踏みし、母は「王妃にふさわしい振る舞いを」と欠点を探し続けた。笑みを向けられても、それは娘としてではなく、飾り物を磨く眼差しに過ぎなかった。


 私が何を好み、何を嫌うのかを尋ねる者はいなかった。私という人間ではなく、「王太子妃」という役割を形作るための材料としてしか見られていなかったのだ。


 だからこそ、真っ直ぐな瞳で私を見た彼の存在は、ひどく眩しく映った。


 私は席を勧められても、すぐには腰を下ろさなかった。


「一つ、聞いてもよろしい?」


「もちろんです」


「私をお茶に誘ったのは、殿下に反発したいから?」


 アルノーは少し考えた。

「それだけなら、もっと目立つ方法を選びます」


「……なるほど」


  「それに、私は以前からあなたを見かけていました」


「私を?」


「学園の図書室です。誰もいない窓際で、古い地図を眺めていたでしょう」


 私は目を瞬いた。

「覚えていませんわ」


「でしょうね。私も声をかけませんでしたから」


「なぜ?」


「楽しそうだったので。邪魔をする理由がありませんでした」


 思わず笑ってしまった。

「それで、今さら?」


「あなたが一人になったからではありません。今なら、私の話を聞いてくれるかもしれないと思っただけです」


 その答えに、妙な引っかかりが残った。彼は私を救おうとしているのではない。私の選択に、勝手な意味を足そうともしていない。だからこそ、もう少し話してみたいと思った。


「お誘いに応じてくださり、光栄です。お噂を耳にしてから、どうしてもお会いしたく思っておりました」


 私はわずかに眉を上げた。

「……私と? 殿下に捨てられた、悪役令嬢と?」


 皮肉を込めて言ったつもりだったが、彼は首を横に振った。


「いいえ。殿下に捨てられたのは、セシリア様ではなく、本当は殿下自身なのでしょう」


 一瞬、言葉を失った。

 私の中にあった小さな棘を、するりと撫でて外すような言葉だったから。


 彼は続けた。

「社交界は噂に踊らされます。けれど、あの日のあなたの微笑み――あれは虚勢ではなく、誇りそのものだったと思います。それを理解した者も、少なからずいるのですよ」


 彼は、ただ私を持ち上げているわけではなかった。あの日、私が殿下の言葉を受け入れた直後、会場の何人かが戸惑った顔をしていたことまで覚えているという。私が泣かなかったことを「強い」と褒めるのではなく、その場で何を選んだのかを見ている。


 褒められること自体が嬉しいのではない。

 初めて、自分の選択を自分のものとして見てもらえた気がしたのだ。


(……理解、ですって?) 私の胸の奥で、なにかが小さく揺れた。侍女の前で無邪気に笑うのとも違う、妙に落ち着かない感覚。


 胸の奥がざわつくようで、息を整えなければ落ち着かない。けれど、それが不快かと問われれば、答えに窮する自分がいる。


 こんな感覚……初めて……


「だからこそ、もしよろしければ……少しずつで構いません。あなたの時間を分けていただけませんか」

 紅茶の湯気の向こうで、彼の真摯な眼差しが私を射抜く。


 私はカップを置き、深呼吸をした。


 ――婚約破棄で幕を閉じたはずの私の物語は、どうやらまだ続くようだ。


「……面白いお話になりそうですね。よろしいわ、アルノー様」

 こうして私は、思いもよらぬ縁へと歩み出したのだった。


 ◆


 アルノーとの茶会は、驚くほど心地よい時間だった。彼は最初から私の婚約破棄について根掘り葉掘り尋ねたりはしなかった。王太子の元婚約者に会うのだから、それを話題にするのが普通だと思っていた私は、逆に拍子抜けした。


「どうして何も聞かないのです?」

 そう尋ねると、アルノーは少し考えてから答えた。


「話したくなったときに話していただければ十分です。噂を確認するためにお招きしたわけではありませんから」


「でも、私についての噂はご存じなのでしょう?」


「ええ。だからこそ、噂だけで判断するのはもったいないと思ったのです」

 その答えに、私は少しだけ驚いた。


 彼は私を理想化しているわけでも、同情しているわけでもない。

 《《知らないから知りたい》》。 ただ、それだけなのだ。

 その距離感が心地よかった。  堅苦しい話題も、遠回しの探り合いもない。


 彼はただ、季節の花や書物の話をし、時折さりげなく私の意見を尋ねる。

(……なんて穏やかなのかしら)


 思えば、殿下と過ごした時間は、常に緊張と虚飾で彩られていた。「王太子妃としてあるべき姿」を演じることが求められ、私自身の声など聞かれることはなかった。


 だがアルノーは違った。私が少し辛辣な意見を述べても、彼は笑って受け止める。それどころか「もっと聞かせてください」と身を乗り出してくるのだ。


「……本当に、変わった方ですわね」


「変わっているとよく言われます。ですがセシリア様にそう言われるのは、光栄です」

 冗談めかしたやり取りに、つい口元が緩んだ。


 私の笑みに気づいたのか、彼もまた柔らかな笑みを返す。

 不思議なことに、その笑顔には下心も打算も見えなかった。


 その前に、私はアルノーに一つだけ頼みごとをした。

「次に会うとき、私に何か本を一冊選ばせてくださらない?」


「もちろんです」


「王妃教育ではなく、私が読みたい本を」


「では、僕からは口を出しません」


「本当に?」


「ええ。でもあまりに難しい本を選んできたら頭を抱えます」


「まあ。では、あなたを困らせるくらい難しい本を探してみますわ」

 そんな約束をしてから、私達は図書館へ向かった。


 王都の大通りから少し外れた場所に、その図書館はあった。高い天井に陽光が差し込み、古い本の匂いが漂う、社交界の華やぎとは無縁の、落ち着いた空気に包まれた空間。


「ようこそ、セシリア様。ここは私が一番好きな場所なんです」

 アルノーは少年のような笑顔を浮かべていた。


 私は本棚を見上げた。背表紙の並ぶ光景に、不意に胸が高鳴る。


「……すごい。まるで宝物庫みたい」


 思わず零した言葉に、アルノーが小さく笑った。


「セシリア様にも、そう見えるのですね。どんな本に興味がおありですか?」


「そうね……政治書も嫌いではないけれど、できれば歴史書や神話のほうが」


「でしたら、こちらへ」

 彼は私を案内し、重厚な棚から分厚い本を取り出す。


『古王国年代記』――その表紙を見た瞬間、心が跳ねた。


「これ……子どもの頃、ほんの少しだけ読みかけて、続きを許されなかった本だわ」


「許されなかった?」

 首を傾げるアルノーに、私は苦笑する。


「王妃教育の役に立たないと言われてね。以後は取り上げられてしまったの」


 そのとき、彼の瞳が少しだけ怒りを帯びた。

「……なんてもったいないことを」


 一瞬、胸の奥が熱くなった。誰も気にも留めなかった私の小さな興味を、彼は真剣に惜しんでくれた。


 二人で並んでページをめくる。書物の中の英雄譚に夢中になるうち、時間を忘れていた。気づけば窓の外は茜色に染まり、図書館の空気が柔らかく揺らいでいる。


「……こんなに楽しい日は、久しぶりだわ」

 思わず漏らした言葉に、アルノーは静かに微笑んだ。


「私もです。セシリア様と語り合える時間が、こんなにも心地よいとは」

 紅茶の席とは違う、知と静寂を分かち合う時間。


 別れ際、私はふと口をつく。

「今度は……私の方から、ご案内してもいいかしら?」


 アルノーが目を瞬かせ、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。

「ええ、もちろん。どこへでも」


 ◆


 私は彼を王都の裏通りへと連れていった。


 大通りの煌びやかなレストランとは違い、石畳の細道を抜けた先にひっそりと佇む店。

 外観は質素だが、店内には温かな灯りがともり、香ばしい匂いが漂っていた。


「……ここは?」  

 不思議そうに首を傾げるアルノーに、私は小さく笑った。


「子どもの頃、侍女に連れられて一度だけ来たことがあるの。

 その時だけは、牢獄から抜け出せた気分になれた……そんな場所よ」


 王妃教育に追われていた日々。  決められた振る舞いと堅苦しい食卓。


 けれどこの店では、余計な礼儀作法を求められず、ただ料理を味わうことが許された。その記憶は、私にとって密やかな宝物だった。


 レストランに入り、木製のテーブルに腰を下ろすと、香草の効いたスープと焼きたてのパンが運ばれてくる。湯気が立ちのぼり、ほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。


「とても美味しいです!」

 一口含んだアルノーが、心からの感嘆を洩らした。彼の表情はいつもより柔らかく、まるで少年のようだった。


「気に入ってもらえたなら嬉しいわ」

 私自身もパンをちぎり、スープに浸して口へ運ぶ。じんわりと広がる温かさに、胸の奥が満たされていく。


「なるほど、牢獄からの解放……確かにわかる気がします」

 アルノーは目を細めて私を見た。


「誰にも縛られず、ただ食事を楽しめる時間。確かに今思うと貴重な時間ですね」


「ええ。だからこそ、この店は私の秘密の場所だったの」


 私はスプーンを置いた。

「あなたは、私が自由になれば幸せになれると思っている?」


「分かりません」

 即答だった。

「……意外ですわ」


「自由になったからといって、何もかも上手くいくわけではないでしょう。私はそれを知っています」


「では、なぜ私を誘うの?」


「あなたが自分で決める人だからです」


「それだけ?」


「それだけで十分だと思います」

 私はしばらく彼を見つめた。


「あなた、意外と頑固ね」


  「よく言われます」


「それなら、私も一つお願いがあるわ」


「何でしょう」


「私を“可哀想な元婚約者”として扱わないで」


 アルノーは少しだけ目を細めた。


「承知しました」


「それと、何か違うと思ったら遠慮なく言って」


「それは難しい注文ですね」


「なぜ?」


  「あなたが怒ると、とても怖そうなので」


 私は声を上げて笑った。


「それを本人に言う人は初めてですわ」


 その言葉に、アルノーは少し真剣な眼差しを向けてきた。

「では、こうして招かれた私は……セシリア様にとって特別、ということですね?」


 思わず息を呑む。冗談めかした口ぶりのはずなのに、真摯な瞳が私を射抜いていた。頬がわずかに熱を帯びるのを感じ、慌てて視線を逸らす。


「……そういう解釈をされると、困るわ」


「ふふ、困らせてしまいましたか。ですが、嬉しいのです」


 彼の穏やかな笑みを前に、私もつい口元を緩めてしまう。


 ――このひと時が、どれほど貴重で幸せなものか、心のどこかで理解していた。


 食後、店を出ると夕暮れの空が広がっていた。


 今日は確かに、私の物語に新しい色を添える一日だった。心が軽くなるのを感じ、気づけば日記に彼の話題を記している自分がいた。


 その夜、私は日記を開いた。以前なら、王妃教育の予定や翌日の社交行事を書いて終わっていた。けれど今夜は違う。


「歴史書を読む。北区の図書館へ行く。……それから」 ペンが止まった。「自分で見て、自分で決める」 その一文を書いてから、少しだけ笑った。


 大げさな誓いではない。ただ、明日の予定を自分で決めるだけだ。それなのに、胸が妙に軽かった。


 翌朝、私は侍女に告げた。

「午前の礼儀作法の復習は取りやめてちょうだい」


「え?」


「代わりに図書館へ行くわ」


  「王妃教育の時間ですが……」


「もう王妃になるための勉強ではないでしょう?」


 侍女は少し驚いたあと、笑った。

「では、お嬢様がお読みになりたい本を探しましょう」


  「ええ」


 馬車に乗るとき、私は自分の胸が高鳴っているのを感じた。


 ――だが、世の中はそう簡単に私を放ってはくれなかった。


 ある日、屋敷に戻ると、侍女がそっと耳打ちした。

「お嬢様…社交界で、新しい噂が広まっております」


「またですか。今度はどんな愉快なお話?」


「……セシリア様が“次なる婚約者を見つけた”と」


 私は思わず紅茶を吹き出しそうになった。


 アルノーとの時間を、誰かが見ていたに違いない。

「まだ何も決まっていませんのに……まったく、噂好きなこと」


「けれど、殿下の元・婚約者に新しい縁談が持ち上がるなど、皆が色めき立つのも無理はありません」

 私は肩をすくめ、笑った。


(皮肉なものね。婚約破棄で“笑う悪役令嬢”と呼ばれた私が、今度は“再婚を狙う女”になるなんて)


 けれど、心のどこかで――その噂を完全には否定できない自分がいた。アルノーの真摯な眼差しを思い出すたびに、胸の奥がほんのりと熱を帯びるのだ。


 ◆


「セシリア、最近楽しそうだな」

 そう声をかけられたのは、まさかの王宮だった。


 ある舞踏会に招待され、しぶしぶ出席した私の前に、王太子リオネル殿下が現れたのだ。


 私は会場に入る前、鏡の前で一度だけ自分を見た。髪も、ドレスも、以前と変わらない。違うのは、それらを「王太子妃にふさわしいか」という基準で確認しなくなったことだった。


「お嬢様、緊張なさっていますか?」


「少しだけ。でも、帰りたくなったら帰るわ」


「……それは以前なら、なさらなかったことですね」


「そうね」

 私は笑った。


「今日は私が私のために来たのだから」


 ――そして、彼の隣には当然のようにリリア嬢がいた。


 相変わらず小鳥のようにか弱げな笑みを浮かべ、殿下の腕に寄り添っている。


「……殿下。私と会話をなさる必要はございませんでしょう」


「そうもいかない。お前の噂が、あまりに広まっているからな」

 殿下の目が細められる。


 その奥には、あの時の断罪の場では見せなかった苛立ちがあった。


「――そんな顔をしても、私には通じない」

 心の中でそう呟き、私はゆったりと構える。


 苛立ちを隠そうと眉をひそめる殿下の横顔を、冷静な視線で追いながら、微かに笑みを浮かべた。


 殿下にとっては、私のこの余裕がさらに苛立ちを募らせるのだろう。だが、それもまた、舞台の一部に過ぎない――私が望む通りの筋書きだ。


「アルノー侯爵令息と親しくしているそうだな」


 その問いに、私は少しだけ違和感を覚えた。婚約を破棄した相手が、なぜ今さら私の交友関係を気にするのだろう。


 けれどすぐに思い至る。殿下にとって私は、失った相手ではなく、「自分の意思で手放したはずの相手」なのだ。それが他人の隣で穏やかに笑っている。


 自分の判断が間違っていたのではないかという疑念を、彼は認めたくないのかもしれない。そして、その疑念こそが苛立ちとなって表れているのだろう。


「お噂は自由ですわ。事実を確かめるのは、ご自身でどうぞ」

 私が涼しく返すと、リリア嬢が慌てて口を挟んだ。


「セシリア様……っ。そんなふうに殿下にお答えしては……。どうか、殿下を挑発しないでくださいませ」

 挑発? 私は笑いそうになった。


 あの日、殿下が一方的に私を断罪した時――その彼が、今や私の噂ひとつで落ち着きを失っている。


「挑発だなんて。私はただ、自分の時間を楽しんでいるだけです。殿下とリリア様がそうしているように」

 殿下の顔がかすかに歪む。


 それを見て、私は確信した。


(……あら、これは嫉妬かしら?)


 リリア嬢を選んだはずの王太子が、今さら私の笑顔を気にしている。なんと身勝手なことだろう。


「セシリア。忘れるな。お前はかつて、王太子妃となるはずの身だった。軽率な振る舞いは許されん」


「まあ。殿下に婚約を破棄された女に、まだそんな責任があるとお考え?」

 会場のざわめきが大きくなる。


 人々は、かつての「断罪の再演」を期待して耳をそばだてている。


 ――けれど今度は、私がうつむく番ではなかった。


「ご心配なく。私は私の道を歩みますわ。殿下がどなたをお選びになろうと」


 そして、横からすっと手が差し出された。  アルノーの手だった。


「失礼。セシリア様をお借りしてもよろしいですかな、殿下?」

 その言葉は、礼儀正しい申し出には聞こえなかった。

 侯爵家の嫡男であるアルノーが王太子の前に出るということは、周囲の貴族にも明確な意思表示として受け取られる。


 彼は、私の意思を確認するように一瞬だけ視線を向けた。

 だから私は、迷わずその手を取った。 王太子の表情が凍りついた。


 私は微笑み、アルノーの手を取った。


「ええ、ぜひ。……《《殿下に見せる涙》》は残っていませんもの」


 その瞬間、私の背後で人々の囁きが渦を巻いた。舞踏会の主役は、王太子でもリリアでもなく――「笑う悪役令嬢」と、彼女の隣に立つ侯爵令息となったのだ。


 私はふと肩の力を抜いた。舞踏会の煌びやかな装飾も、ざわめきも、今や単なる背景に過ぎない。


「さあ、アルノー。そちらへご案内くださいな」


 言葉をかけると、彼は静かに笑いながら私の手を引いた。その仕草には、押しつけがましい保護も、過剰な配慮もない。ただ、私を一人の人間として扱う誠実さだけがあった。


 会場のざわめきや王太子の苛立ちは、まるで遠い世界のことのように思える。


 ――ここにいるのは、私と、私を理解してくれる人だけ。


 アルノーの腕に寄り添い、新たな物語の始まりを感じながら舞踏会の会場を後にした。


 ◆


 舞踏会の喧騒から離れ、アルノーの屋敷へ行き、静かな書斎に二人で腰を下ろした。暖炉の火が揺れ、外の街灯もほのかに映る室内は、王宮の煌びやかさとはまるで別世界のようだった。


「……落ち着く場所ですね」

 私は小さく息をつき、カップの紅茶を手に取る。


「王宮や舞踏会では、常に誰かの視線に晒され、心を休める暇もありませんでした」


 アルノーは私の言葉を静かに受け止め、ゆっくりと語り始める。

「私も、子供の頃は同じようなものでした。侯爵家の跡取りとして、常に『完璧であれ』と求められ、少しでも失敗すれば父に叱責される。友人との遊びも、自由な時間もほとんどありませんでした」


 その言葉に、私は思わず視線を上げた。でもアルノーの境遇が私と似ているから惹かれるのではない。似ている部分があるからこそ、むしろ私たちは互いの違いも理解できるのだ。


 私は人の期待から逃げることを選んだ。


 彼は期待される立場に残りながら、その中で自分の生き方を探している。同じ傷を持つから同じ人間なのではない。違う道を歩んできたからこそ、違う人として相手を尊重できる。


 私はそんな関係なら、悪くないと思った。王太子の威圧的な視線や、社交界の噂に疲れていた私にとって、この告白は不思議な安心感をもたらす。


「……そうだったのね」


「ええ。母は厳しく、父は期待を押し付ける。私はいつも、家族の理想の形に沿うだけの存在でした」

 アルノーの瞳が少し陰る。


「だから、セシリア様が舞踏会で毅然として立っていたのを見たとき……あの強さ、冷静さは、誰にも媚びない、真の誇りだと感じました」


 アルノーの家族への怒りを感じると同時に、胸の奥がじんわり温かくなる。


 ――誰かに理解される。  長らく忘れていた感覚が、ゆっくりと戻ってくる。


「……それなら、少しは心を開いてもいいかもしれませんね」

 私の自然に零れた言葉に、アルノーは微笑んだ。


「では、もっと近くで話しましょう」

 彼は少し身を乗り出し、私と肩が触れる距離に座った。指先がかすかに触れ、心臓が跳ねる。


「……こうして、隣にいてもよろしいのですか?」

 冗談めかす私に、アルノーは真剣な眼差しで答える。


「もちろんです。セシリア様の意志に反しない限り、私はここにいます」


 握り返される手の温もりに、胸が軽く震える。


 ――この距離感、この静かな時間だけで、心の奥の孤独が少しずつほどかれていく。


「あなたの過去を聞いて、少し理解できました。あなたも私と同じように、自由を奪われてきたのですね」


「ええ。だからこそ、今こうして互いを尊重し合える時間が、何よりも大切に思えます」


 暖炉の火が柔らかく揺れる書斎で、二人の距離は言葉と触れ合いによって自然に縮まった。


 ――このひとときが、私たちの新しい物語の、静かで確かな始まりなのだと、私は実感した。


 ◆


 舞踏会の一幕は、翌日には王都中の話題となっていた。


 けれど、その翌日にはさらに別の噂が出た。

「セシリア嬢はアルノー卿に王太子への恨みを吹き込んでいるらしい」


「逆でしょう。あの場でアルノー卿は、彼女が帰りたいと言えば帰すつもりだったそうです」


「それでも侯爵家が王家と距離を置くのは危険だ」

 噂は一つにまとまらない。


 私はそのことを、以前より面白いと思うようになった。誰もが同じ話を信じる必要などない。ただ、自分で見たものを自分で考えてくれればいい。


「王太子殿下が声を荒げたのをご覧になった?」


「ええ、それをさらりと受け流して、侯爵令息の手を取ったあの姿……!」


「“笑う悪役令嬢”どころか、もはや“微笑みの淑女”ですわね」


 私が歩くたび、耳に入るのはそんな囁きだった。


 皮肉なものだ。

 ほんの少し前までは断罪された哀れな令嬢として笑いものにされていたのに。


(でも……悪くない気分ね)


 もちろん、すべてが歓迎の声ではない。

「王太子を挑発するなんて愚かだ」と陰口を叩く者もいる。


 だが、私をあからさまに侮辱する声は、もうほとんど聞こえなくなっていた。


 ――そして、その変化をもっとも敏感に察したのは、リリア嬢だった。


「セシリア様……皆さま、あなたを褒めてばかりです。わたくしは……っ、殿下の婚約者なのに……」

 ある茶会で、彼女は思わず泣きそうな声を漏らした。


 隣にいたご婦人方は顔を見合わせ、困ったように視線を逸らす。


 その瞬間、私には理解できた。


(ああ、この子は――光を独り占めしていたはずなのに、初めて影の冷たさを知ったのね)


 かつて私が味わった孤独を、今度はリリアが味わい始めているのだ。


「リリア」

 私は彼女に歩み寄り、穏やかに声をかけた。


「ご安心なさい。殿下の隣に立つのは、あなたです。わたくしはただ……自身の道を歩いているだけ」

 彼女の瞳が大きく揺れる。


 それは嫉妬か、不安か――本人にも分からないのだろう。


 一方、アルノーはと言えば、そんな騒ぎをよそに私の隣に自然に立ち、茶を注ぎながらこう囁いた。


「人の評価など、風のようなものです。追いかけても捕まえられないし、背を向けても勝手についてくる」


「……貴方は本当に、変わっているわ」


「ええ。だからこそ、あなたと話が合うのです」


 紅茶の香りに包まれながら、私は思った。

 ――社交界の風がどう吹こうと、もはや恐れる必要はない。


 アルノーは茶を差し出す手を少し長く止め、私の手元を見つめた。


「……セシリア様、こんな風に自然に笑うあなたを見られるのは、嬉しいことです」


 私が顔を上げると、彼の瞳には真剣さと優しさが混ざっていた。言葉にはない誠実さが、静かに胸に響く。


「アルノー……私、以前は誰かに心を許すことすら怖かったのです。殿下や社交界の視線に、いつも縛られていましたから」


 吐き出すように話すと、彼は軽く頷き、手をそっと重ねてきた。


「だからこそ、今こうして隣にいるあなたの笑顔を見られることが、私にとっても特別なのです」

 指先が触れるたび、心の奥で小さな温かさが広がる。


「……ふふ、貴方は本当に、私を安心させるのが上手ですね」


「ええ、あなたの安心が僕の安心にもなりますから」


 紅茶の湯気が立ち上る静かな空間で、自然に肩が触れ合う距離。社交界の喧騒は遠く、二人だけの時間がゆっくりと流れる。私は小さく笑みを返し、彼の手に軽く触れた。


 アルノーの存在は、単なる傍観者ではなく、私を理解し、支えてくれる人。その事実が、私の胸に静かな力を与えた。


「……これからも、あなたと一緒に過ごす時間を、大切にしたい」

 つい零れた言葉に、彼は柔らかく頷く。


「もちろんです、セシリア様」

 微かな沈黙が心地よく、笑い声や囁きも、ただの背景になってしまうほどの静けさ。


 ――社交界の風がどう吹こうと、私の隣には、私を理解してくれる人がいる。


 紅茶の香りと指先の温もりに包まれ、私は小さく息をつき、深く心を落ち着ける。紅茶の香りとアルノーの手の温もりに包まれた穏やかな時間から、日常は静かに戻っていった。


 社交界のざわめきや囁きも、二人だけの世界ではただの背景に過ぎない。しかし、舞踏会での「笑う悪役令嬢」との評判は、王都の人々の記憶に鮮明に残っていた。


 私が屋敷で微笑みながら紅茶を楽しむ姿を見聞きした者たちは、徐々に噂を膨らませ、勝手に物語を紡ぎ始めていたのだ。


 ◆


 ――そして十日後。  この十日間、王都の空気は少しずつ変わっていた。


 私を面白がって称賛する声だけではない。「王太子の婚約破棄は本当に正しかったのか」「公爵家を一方的に切り捨てて、王家は大丈夫なのか」

 そんな声まで、貴族たちの間で囁かれるようになったのだ。


 アルノーが私の隣に立つことも、その噂に拍車をかけた。侯爵家が公爵家と王家の間に入ることは、それだけで政治的な意味を持つ。私自身が何かを仕掛けたわけではない。ただ、自分の人生を生きようとしているだけだった。


 けれど政治の世界では、本人にその気がなくても、人の選択そのものが意思表示として受け取られる。――だから王宮が動いたのだろう。


 王宮では、別の動きも始まっていた。国王の執務室で、宰相が書類を一枚差し出す。


「陛下。各領から、婚約破棄の件について問い合わせが届いております」


「内容は?」


「エルディア公爵家を王家が一方的に切り捨てたのではないか、と。加えて、王太子殿下の判断を不安視する声も」


 国王は眉を寄せた。

「たかが一令嬢の噂ではないか」


「最初はそうでした。しかし侯爵家のアルノー卿が公然とセシリア嬢と行動している。それが話を変えています」


 国王は黙って書類を眺めていた。


「今、セシリア嬢を責めれば、王家が一人の令嬢を追い詰めているように見えます」


「では、どうしろと?」


「会って確かめるべきでしょう。あの子が本当に王家を敵に回そうとしているのか」


 国王はしばらく黙り、やがて頷いた。

「召喚状を出せ」


 その噂は、一気に王都を駆け巡ることになる。屋敷の門番までもがざわつき、使用人たちがひそひそと話す声が廊下に響いた。


「セシリア嬢が侯爵家に正式に求婚されるらしい」


「いや、まだ話は出ていない。ただ……王宮がついに動いたそうだ」


 私のもとに届いたのは、王家からの正式な召喚状だった。


 “セシリア・エルディア、王城に出頭せよ”


(また、あの場所に呼ばれるのね……)


 かつて断罪の場で涙を流さず、笑いを選んだ私が、再び王城に足を踏み入れることになる。今回は、どのような筋書きが待っているのだろうか――胸の奥に、微かな緊張と期待が入り混じる。


 ◆


 当日、王城の広間に通されると、すでに王太子とリリア嬢が並んでいた。その隣には、初老の国王と冷ややかな王妃の姿。


 王妃は私を見ると、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。


 私は一歩近づいた。

「以前、わたくしが王妃教育で提出した論文を覚えていらっしゃいますか?」


「古代税制についてのものね」


「……覚えていらしたのですね」


「私はあなたの母親ではないもの。けれど、教師だった以上、教えたことは覚えています」

 王妃は小さく息を吐いた。


「あなたは昔から、決められた課題より自分で見つけた題材のほうが熱心だったわ」


「では、あの頃から私は自由を欲しがっていたのかもしれませんね」


「そうかもしれないわね」

 王妃はそれだけ言って、視線を逸らした。


 私はそれ以上聞かなかった。それでも、その短いやり取りは不思議と心に残った。


 昔と変わらない冷たい表情。けれど、その指先は扇を強く握っていた。私はそれを見逃さなかった。


「王妃殿下」


「何かしら」


「お久しゅうございます」


「……ええ」

 短い返事だった。 それ以上、彼女は何も言わない。


 けれど、私が王太子妃教育のために毎週呼び出されていた頃、誰より厳しい課題を出してきた人でもある。嫌われていたのだと思っていた。でも今となっては、少しだけ違ったのかもしれない。


 さらにもう一人――私を支えるように、アルノー侯爵令息が立っていた。


「セシリア・エルディア」

 王の声が響く。


「お前が王都で大きな噂の渦を起こしていること、我らも耳にしておる」


「恐れ入ります。ですが、わたくしはただ……己の道を歩んでいるだけにございます」


「道を歩むのは結構。しかし、その姿が王家の威信を損なうとなれば、看過できぬ」


 私は黙って王の顔を見た。 私が笑っていること自体が問題なのではない。婚約破棄の後も私が失墜せず、むしろ人々の同情と支持を集めていること。さらに侯爵家の嫡男が私を公然と支持していること。


 それが王太子の判断に疑問を抱かせ、王家への不信につながり始めている。王が恐れているのは、私という一人の令嬢ではない。王家が「誤った判断をした」と人々に思われることなのだ。


 リリア嬢がすかさず声を上げた。

「そうです陛下! セシリア様はわたくしと殿下のご婚約を陰から嘲笑い、社交界を惑わせておられます!」


(嘲笑っているのは、どちらかしらね)

 私は口をつぐみ、静かに視線を落とした。


 その代わりに、アルノーが一歩前に出る。


「陛下。失礼ながら、セシリア嬢は断罪の場においても毅然とし、今も自らの誇りを守っておられる。彼女の存在が人々に光を与えているのは、陛下もお認めになるはず」


 王妃がわずかに唇の端を上げ、国王も少し穏やかな表情になる。


 広間の空気は張り詰め、誰もが次の言葉を待っていた…


 ――その時。  広間の視線が一斉にこちらへ集まった。


 誰もが、また王太子と元婚約者が争うのだと思っている。私はそれを感じながらも、足を止めなかった。私は広間を見回した。


 何人かの令嬢は目を伏せ、何人かは興味深そうにこちらを見ている。以前なら、その視線一つで背筋を正していた。


 けれど今は違う。


「セシリア、聞こえているか」

 王太子の声が飛んできた。


「ええ。よく聞こえておりますわ」

 私は扇を閉じた。


「ですから、殿下のお好きなようになさってくださいませ」

 ざわ、と人の気配が動いた。


 怒鳴らない。言い返す必要もない。私がここで選べるのは、私の態度だけだった。


 王太子が、耐えきれぬように声を荒げた。

「セシリア! 貴様はなぜ、いつも笑っていられるのだ!」


 その叫びは、嫉妬と焦燥に満ちていた。自分の言葉で傷つけた相手が、別の誰かに認められ、以前より自由に笑っている。それは王太子としての自尊心を、ひどく刺激するのだろう。


 だからこそ、私はもうその感情に付き合うつもりはなかった。私は思わず、唇の端を上げてしまった。


「殿下……。お忘れですの? あの日、私は涙より先に笑いがこみあげた女ですわ」

 広間にざわめきが走る。


 そして私は気づいた――これこそが私の答えなのだと。


「……笑う、だと?」

 王太子リオネル殿下の顔は紅潮し、拳は震えていた。


「婚約を破棄されたお前が、どうして笑っていられる! 誇りも未来も失ったはずだろう!」

 広間に殿下の叫びが響く。


 リリア嬢は青ざめ、国王と王妃は沈黙し、廷臣たちは固唾を呑んで見守っていた。


 私は、静かに息を吸った。かつてなら、この瞬間に「正しい答え」を探していただろう。


 王太子に対して失礼ではないか。 国王の前で無礼ではないか。公爵令嬢として相応しい言葉か。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど今、胸の中に浮かんだのはたった一つだった。


 ――私は、私の人生を生きたい。 それだけだった。

 ――あの日、涙を選ばず笑いを選んだ自分を裏切らぬために。


「殿下。わたくしは、選ばれませんでした」

 その一言で、広間がざわめく。


「けれど……選ばれなかったからといって、わたくしの価値が消えるわけではありません。むしろ、選ばれなかったからこそ――わたくしは、自分自身を選ぶ道を得たのです」


 王太子の目が大きく見開かれる。リリア嬢は唇を震わせ、国王と王妃は互いに視線を交わした。


「セシリア嬢」

 アルノーが一歩進み出て、私の隣に立つ。


「だからこそ、私はあなたを敬愛する。あなたは誰にも縛られず、自分の足で歩んでいる。その姿を、私は誇りに思う」


 廷臣たちの間から、低いどよめきが起こった。


「なるほど……」

「悪役令嬢などではなく、まさしく――」


 振り返れば、リオネル殿下の顔は苦渋に歪み、リリア嬢の瞳には不安の影が揺れている。


 そして、私の隣には確かな温もり――アルノーが立っていた。彼の手が私の手に触れた。


 けれど、彼は私を前へ押し出そうとはしなかった。 決断するのは私。


 彼はただ、その決断の横に立っている。それが分かった瞬間、私は不思議なほど安心した。


 私はもう、誰かに選んでもらう必要はない。誰かに救ってもらう必要もない。隣にいてほしいと思える人がいるなら、自分の意思でその人の手を取ればいい。その選択まで他人に決めてもらう必要はないのだ。


(選ばれなかった。だけど、それは終わりじゃない)


 むしろ始まりだ。 涙より先に笑いを選んだ、あの日から続く道の。


 大舞踏会の夜。

 煌めくシャンデリアの下で、私の周囲には絶え間ない笑い声と祝福の言葉が集まっていた。誰もが「断罪されても笑った令嬢」を語り、私の名を誇らしげに口にする。


 ――そして、その反対側。

 だが、先ほどまで私を持ち上げていた人々の中にも、複雑な顔をする者はいた。王太子を失脚させることが目的ではない者たちにとって、この状況は決して喜ばしいものではない。王家の威信が揺らげば、国全体の政情にも影響する。


 つまり、私が支持されたからといって、すべての貴族が私の味方になったわけではない。私はそのことを忘れないようにした。人心は風のように変わる。


 今日私を称賛する者が、明日には別の誰かを称賛するかもしれない。だからこそ、私はもう評価そのものを人生の軸にはしない。


 王太子妃として評価されることも、悪役令嬢として笑われることも、どちらも私の本質ではない。リオネル殿下とリリア嬢は、広間の隅に追いやられていた。


 声をかける者はおらず、近づこうとした侍女までもが途中で踵を返す。


「……どうしてだ、これは夢か……? 私は王太子だぞ!」

 殿下は必死に周囲を見回すが、誰一人目を合わせない。


 リリア嬢が縋るように声を上げる。

「殿下……やっぱり、セシリア様が……」


 その名を口にした途端、周囲の視線がさらに冷たく突き刺さる。王太子とその妃の座が「笑われる存在」となった瞬間だった。


「リオネル、リリア」

 国王が二人の前に立った。


「ここで処分を決める。だが、私情で刑を下すつもりはない」

 宰相が一歩進み出る。


「王太子殿下には、王命に反して婚約者の名誉を公の場で毀損したこと。さらに、十分な調査を経ずに王家の威信を利用して断罪を行ったことがございます」


 リオネルが顔を上げた。

「だが、私は王太子だ!」


「だからこそ重いのです」

 宰相の声は低かった。


「王太子の発言は、個人の喧嘩では済みません」


 リリアも震える声を上げる。

「わ、わたしは殿下に言われて……」


「証言を偽らせた侍女の名は、すでに確認されております」


「……っ」

 リリアの顔から血の気が引いた。私は思わず目を伏せた。

 やはり、あの夜の話は最初から用意されていたのだ。


 国王は玉座へ戻り、ゆっくりと息を吐いた。

「リオネル。お前から王太子の位を剥奪する」


「父上!」


「聞け。これは私がお前を嫌っているからではない。王家の判断を、王太子自身が軽々しく扱った。その責任を取らせるのだ」


 広間が静まり返る。

「リリア嬢については、偽証に関与した者たちの証言と記録をもとに、爵位と社交上の資格を停止する。処分は同時に行う」


 リリアはその場に崩れそうになった。


「そして二人とも、二年間北部鉱山の王領管理区へ送る」

 今度は誰も声を上げなかった。


「王家の名を利用して他者を踏みにじった者が、王家の庇護の下で何不自由なく暮らすことは許さん。刑期の間、鉱山管理局の監督下で労務に服せ。王太子であった者にも例外はない」


 リオネルは唇を噛んだ。

「……セシリアのためですか」


 国王の目が鋭くなる。「違う。国のためだ」


 その言葉を聞いたとき、私は初めて王の顔をまともに見た。私への仕返しではない。王家が自分たちの失敗を、王家自身の問題として処理している。それでも鉱山という結末は重かった。


 私は一歩前へ出た。


 国王がこちらを見る。

「何だ」


「わたくしから、お願いがございます」


 アルノーがわずかに私を見る。だが、口は挟まない。


「彼らへの処分を軽くしてほしい、というお願いではありません。ただ……わたくしの名を理由にしないでくださいませ」


 国王はしばらく黙った。

「分かった。これはセシリア・エルディアの復讐ではない。王家が王家として下す処分だ」


 私は静かに頭を下げた。


 衛兵が二人のもとへ進む。リオネルは最後までこちらを見ていた。

「セシリア……」


 その声に、私は振り向かなかった。


「鉱山――そこがお前たちの新たな“未来”だ」


 リオネルとリリアの顔が蒼白になる。


 そして、王の命令を受けた衛兵たちに連れられ、彼らは重々しい足取りで王宮の門を後にした。


 ◆


 アルノーがそっと手を差し伸べてきた。


「行きましょう、セシリア。あなたはもう、ここにとどまる必要はない」


 私はその手を取って、広間を後にした。


 外に出ると、夜空に白い月が輝いていた。ひんやりとした風が頬を撫で、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。


「……やっと、自由になれましたわね」

 そう呟いた私の笑みは、かつての“悪役令嬢”という烙印を遠くに置き去りにしていた。


 月明かりが花々を照らす中、セシリアの頬に一(・)粒(・)の(・)雫(・)伝った。

 自分でも驚くほど、あまりにも自然に。


 その涙を、アルノーがそっと指先で受け止める。

 彼はただ、優しく微笑んでいた。

 セシリアは小さく息をつき、握られた手に力を込める。


 言葉はいらなかった。夜の静けさの中で、二人の影だけが寄り添い重なっていく。


 未来はまだ見えない。公爵家との関係がどうなるのかも、社交界での私の立場がどう変わるのかも分からない。アルノーとの関係だって、今日この瞬間に何かの答えが出るわけではない。


 でも、それでいいと思った。


 以前の私は、未来が決められていることを「安心」と呼んでいた。


 王太子妃になる。  王妃になる。  その先で国を支える。

 そこに迷う余地などなかった。でも今は違う。


 分からないからこそ、選べる。間違えたなら、選び直せばいい。


 誰かの期待から外れたとしても、自分で納得できる道なら歩いていける。


 私は空を見上げた。月は何も言わない。


「明日、図書館へ行きますわ」


「では、お供しましょうか?」

 アルノーが尋ねる。


「いいえ。明日は一人で行きたいの」

 彼は一瞬だけ驚き、それから笑った。


「分かりました」


 私は籠の中の青い花を思い出した。明日はどの本を読むか。どこへ行くか。何を食べるか。そんな小さなことからでいい。誰かに決めてもらうのではなく、自分で決める。


 ただ静かに、これから歩く道を照らしている。隣にはアルノーがいる。けれど、その足で歩くのは私自身だ。  それだけは、もう誰にも譲らない。


 私はアルノーの手を取った。


「……アルノー」


 私は少しだけ背伸びをして、彼の唇にそっと触れた。ほんの一瞬の、儚い口付け。


 離れると、彼が驚いたように私を見る。

「……今のは?」


「私からの、選択よ」

 そう言って笑うと、彼も静かに笑った。


 握った手が、少しだけ強くなる。もう、誰かに決められた未来はいらない。私はこの手を、自分の意思で選んだ。涙より先に笑いを選んだあの日の私なら――きっと、この先も笑って歩けるだろう。 【完】


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。


今回は前に出した作品のリメイク版としてこの作品を出してみたのですがいかがだったでしょうか。


少し不器用で、でも芯の強いセシリアと、彼女をそっと支えてくれるアルノー。二人のこれからにも、きっとたくさんの「選択」が待っているのだと思います。


ここまで物語にお付き合いいただき、ありがとうございました。


またどこかで、お会いできましたら嬉しいです。  一ノ瀬和葉

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