オルフェウスの最後の声
★静かな通信室
夜勤の通信室は、いつもよりも静かだった。
壁一面のモニターが淡い青光を放ち、機器の低い唸りが空気を震わせる。
カナは、受信ログを確認しながら、定時の通信パケットが届くのを待っていた。
外宇宙探査船〈オルフェウス〉は、光速に近い速度で航行する実験船だった。オルフェウスからの信号は、すでに光速の限界で片道十年遅れ。
今届くのは、十年前のマモルからの声だ。
受信ランプが点滅し、スピーカーから微かなノイズが流れる。
カナはヘッドセットを耳に当てた。
『……こちら、〈オルフェウス〉船長、藤堂マモル。観測データ、送信完了。そっちは元気か?』
短い挨拶のあと、彼は淡々と任務報告を続ける。
だが、カナにはその声の奥に、わずかな笑みの気配が感じ取れた。
十年前、出発前夜に交わした最後の会話が、ふと胸をよぎる。
あのときの彼は、何かを言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。
「……元気よ、こっちは」
返事をしても、もちろん彼には届かない。
それでも、カナは小さく呟く癖をやめられなかった。
ドアが開き、足音が近づく。
振り返ると、見慣れない若い男が立っていた。
黒髪を無造作に束ね、制服の上着は前を開けたまま。
名札には「MINATO」とある。
「夜勤は初めて?」
カナが尋ねると、彼は軽く肩をすくめた。
「ええ。今日から配属です。ミナトって呼んでください」
「カナです。よろしく」
「……で、その声、藤堂船長ですよね?」
カナは一瞬、眉をひそめた。
新人がなぜマモルの声を知っているのか。
ミナトはモニターを覗き込み、にやりと笑った。
「父さんが昔、この通信システムの主任技術者だったんです。子どもの頃から、ここの音声ログを聞かされて育ちました」
「そう……」
「それに、父さんは藤堂船長に命を救われたことがあるんです。俺にとっては、ちょっとしたヒーローなんですよ。あと、父さんは藤堂船長がオルフェウスに乗り込む直前、最後のテスト通信を交わした相手でもあるんです。父さんは、あの人との通信の中に、何か特別なメッセージが隠されているとずっと言っていました」
唐突に差し込まれた言葉に、カナは返す言葉を失った。
ミナトはそれ以上語らず、端末の前に座ると、手際よくキーを叩き始める。
その指の動きは、明らかに新人のそれではなかった。
「……あまり勝手な操作はしないでね」
「了解。でも、ここ、面白い仕掛けが多いですね」
ミナトは壁際の重い扉に視線を向けた。
赤い警告ランプと、立入禁止のプレート。
カナは無意識に視線を逸らす。
「そこは立入禁止区域よ。司令官クラスしか入れない」
「へえ……じゃあ、あれが噂の“跳躍室”ですか」
「……何のこと?」
「冗談ですよ」
軽口を叩きながらも、ミナトの目は好奇心に光っていた。
カナは胸の奥に、微かな不安を覚える。
この新人は、ただの配属人員ではないかもしれない。
通信が終わり、ログ保存の作業に入る。
モニターの片隅で、政府の検閲プログラムが自動的に作動し、受信データの一部が黒く塗りつぶされていく。
カナはそれを見ないふりをした。
だが、ミナトは画面を覗き込み、低く呟く。
「……やっぱり、消されてる」
その声には、確信めいた響きがあった。
カナは問い返そうとしたが、ミナトはもう椅子を回し、笑顔を作っていた。
「じゃ、今日はこれで。おやすみなさい、カナさん」
「……おやすみ」
ドアが閉まると、通信室は再び静寂に包まれた。
カナは保存されたマモルの声をもう一度再生し、目を閉じる。
十年の距離を越えて届くその声が、今夜はなぜか、少しだけ遠く感じられた。
★滅亡予測
翌日の通信室は、昼間だというのに薄暗かった。
外は厚い雲に覆われ、窓から差し込む光は灰色に濁っている。
カナが席に着くと、すでにミナトが端末に向かっていた。
彼の指は迷いなくキーを叩き、画面には見慣れない解析ツールが並んでいる。
「……何をしてるの」
カナの声に、ミナトは振り返らず答えた。
「昨日の受信データ、検閲で消された部分を復元してます」
「勝手にそんなこと——」
「見たほうがいいですよ」
ミナトがキーを叩くと、黒塗りだった部分に文字列が浮かび上がった。
それは、マモルの声で読み上げられる。
『……地球は十年以内に臨界を迎える。原因は——』
「藤堂船長は、このデータを通常の通信パケットに紛れ込ませるため、敢えて検閲にかかるような方法をとったんだ。政府は、この方法で送られたメッセージが、単なる技術的な異常ではなく、意図されたものだと察知したのかもしれない。」
音声はそこで途切れ、ノイズに飲まれた。
カナは息を呑む。
「これ……本物なの?」
「間違いないです。暗号化の癖が、俺の父さんのコードそのままですよ」
ミナトは一息つき、椅子を回してカナのほうを向いた。
その表情は、いつもの軽口とは違い、真剣だった。
「俺の父さん、昔、軌道ステーションで事故に巻き込まれたことがあったんです。冷却系が暴走して、あと数分で全員凍死って状況だった」
カナは黙って耳を傾ける。
「避難命令が出ても父さんは制御室に残ったんです。システムを止められるのは父さんしかいなかったから。でも、間に合わなかった…」
ミナトは一瞬、視線を落とした。
「そのとき、避難艇を引き返して父さんを引っ張り出したのが、藤堂船長だったんです。あの人がいなきゃ、俺は今ここにいない」
カナは言葉を失った。
ミナトは続ける。
「だから、あの人が残したものは絶対に無駄にしたくない。政府が隠そうとしても、俺は暴くつもりです」
その言葉に、カナの胸の奥で何かが揺れた。
十年の距離を越えて届くマモルの声。
それを守ろうとする、この若い通信士の決意。
——そして、政府が隠す理由。
「……このこと、誰かに話した?」
「いいえ。話したら消されちゃいますよ」
ミナトは淡々と言ったが、その目は鋭く光っていた。
カナは深く息を吸い、端末の画面を見つめた。
そこには、まだ解読されていない暗号データが残っている。
その中に、マモルの本当のメッセージが眠っているはずだった。
★封鎖
その日、通信局の空気は異様に重かった。
廊下を行き交う職員たちは口数が少なく、視線を合わせようとしない。
カナが通信室に入ると、ミナトが端末の前で腕を組んでいた。
「……来たみたいですよ」
「誰が?」
「政府の監査チームです。もうすぐここも封鎖されますよ」
言葉の意味を理解するより早く、廊下の向こうから重い足音が近づいてきた。
黒い制服の男たちが数人、無言で機材をチェックし始める。
その後ろに、佐伯ユウトがいた。
彼は一瞬だけカナと目を合わせ、わずかに首を振った。
「時間がない」
ユウトは低い声で言い、ポケットから小さなデータキーを取り出した。
「これが最後の暗号鍵だ。マモルの残したデータを完全に開くにはこれが必要だ」
「どうして……あなたが?」
ユウトは苦笑した。
「俺には『アーク計画』の乗船資格が無い。年齢も、健康も、コネも足りない。俺はまだいい。だけど、俺の妹は病気でアーク計画の選考から外された。健康な人間だけが生き残るなんて、おかしいだろ? マモルは、そんな選別が行われていることを知っていた。だから、最後のメッセージに別の計画を託したんだ」
「……」
「だからこそ、せめて一矢報いたいんだよ。この腐った選別に。お前なら、あの人の声を未来に届けられる」
その言葉に、カナの胸が熱くなる。
ユウトはデータキーを握らせると、監査員たちのほうへ歩いていった。
振り返ることはなかった。
「……カナさん」
ミナトが小声で呼びかける。
「例の“跳躍室”、使いましょう」
カナは息を呑む。
「QJLは司令官クラスしか——」
「起動コードは俺が持ってます。父さんから託されたんです」
ミナトの目は真剣だった。
「父さんは、藤堂船長が何かを隠していると気づいていました。だから、もしもの時のためにこのコードを俺に託したんです。政府がこのシステムを悪用したり、重要なメッセージを隠蔽したりした場合、俺たちがこの秘密を守るために動かなければならないと」
「一度きりしか使えない。今しかないですよ!」
廊下の向こうで、監査員たちがこちらへ向かってくる。
カナはデータキーを握りしめ、決断した。
「……行くわ」
二人は視線を交わし、立入禁止の重い扉へと向かった。
赤い警告ランプが点滅し、低い警告音が響く。
その先にあるのは、量子もつれを利用した『跳躍通信』だ。光速の限界を超え、情報を瞬時に届ける。ただし、その代償として基地全体のエネルギーを一度で使い切る、ただ一度きりの通信装置だった。
★★最後の会話
重い扉が閉まり、跳躍室の中は低い振動音に包まれた。
中央に鎮座する量子跳躍通信機(QJL)は、黒い金属の塊のようで、表面を走る光のラインが脈打つたび、空気がわずかに震える。
ミナトが端末にコードを入力し、ユウトから託された暗号鍵を差し込む。
「……これで準備完了です!」
「本当に…一度きりなのね…」
「はい。基地全体のエネルギーを使い切ります。次はありません」
カナは深く息を吸い、起動スイッチに手をかけた。
赤い警告灯が回転し、床下から低い唸りが響く。
光が一気に強まり、視界が白く染まった。
——そして、声が届いた。
「……カナ? 本当に、今の声は……」
十年の遅れも、無音の空白もない。
マモルの声が、すぐ隣にいるかのように鮮明だった。
カナは喉が詰まり、言葉が出ない。
「……マモル……」
「どうやって……いや、そんなことはいい。時間がない。カナ、いいか、俺を救おうとするな!」
「え、どういうこと!? でも——」
「いいから聞け。とにかく地球を救うんだ! 俺はもう戻れない。だが、このデータがあれば……」
端末に大量の情報が流れ込み、QJLの光が脈打つ。
マモルの声が少しだけ柔らかくなる。
「……あの夜、言えなかったことがある。俺はカナを——」
ノイズが混じり、言葉が途切れる。
「——愛している」
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
耳の奥で血の音が轟き、視界の端が滲む。
光が爆ぜるように強まり、世界が白に塗り潰される。
時間が引き延ばされたように、マモルの声の余韻だけが、いつまでも耳の奥に残っていた。
——暗転。
跳躍室は沈黙し、機器の脈動も消えている。
ミナトが小さく息を吐き、低く告げた。
「……成功です。データは全て、届きました」
カナは端末を見つめたまま、指先がわずかに震えていた。
マモルの声はもう聞こえない。
けれど、その最後の言葉と託された使命は、熱を帯びたまま胸の奥で脈打ち続けていた。
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数日後、カナは地球救済計画の会議室にいた。
マモルと自分だけが解読できる暗号データを前に、各国の代表たちが息を呑む。
彼女はもう、ただの通信士ではなかった。
未来を選び取るための、最前線に立つ人間になっていた。
カナは静かに立ち上がり、視線を遠くへ向けた。
そこには、まだ見ぬ未来が広がっていた。