9)終わってからの、その先
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本日は第7話~第9話(最終話)を投稿しています。
こちらは第9話(最終話)です。
よろしくお願いします。
邸に帰り、帰宅したことを兄に伝えようと執務室を訪れると、そこにはセオドアが一人、机の片付けをしていた。
「兄は……?というか、片付けをなさっているの?」
「アポティ卿は王宮に呼ばれて行ったよ。苦薬を一部卸せないか聞かれるんだと思うって言っていたよ。そして、僕はご覧の通り、机を片付けている。ここでの仕事も終わったからね。下町にある、僕の事務所に戻るよ」
私は言い様のない寂しさに胸が痛くなった。
「もう、こちらにはいらっしゃらないの?」
思いの外、弱々しい声が出てしまった。
私はそれに気づいて、カッと頬が赤くなるのを感じ、慌てて俯いた。
セオドアは、私の様子に気づいたのか、どうなのか、それはわからないけれど、机から回って、私の方へと歩いてきた。
「アポティ卿が顧問契約を結んでくれましたからね、法律が絡むような相談事があればいつでも馳せ参じますよ」
セオドアの靴の先が、私の視界に映る。
少し近いな、と、思い視線をあげれば、その顔は、随分と近くにあり、私の心臓は、いつかのようにドクンと大きく音をたてた。
セオドアはいつもよく見せていた皮肉げな笑顔ではない笑顔で、私をみつめていた。
その表情を、なんと表現したらいいのか。
穏やかで、それなのに逃げ出したくなるような。
「パトリシア、僕がいないと寂しい?」
セオドアは私の目を見つめながら、尋ねてくる。
彼が少しだけ頭を傾けたせいで、茶色の髪がさらさらっと揺れる。恐らくこの国で一番多いであろう、茶色の髪が揺れるのを、私はドキドキしながら見ていた。
「ねぇ、答えて。僕は君に会えなくなるの、寂しいよ」
セオドアの指が、そっと私の方へと伸びてくる。
私はその指を避けることも、素直に受け止めることもできず、ぎゅっと目を瞑った。
心臓が、ドドドドドドと、今にも爆発しそうな早さで鳴っていて、怖いくらいだ。
「…………。ごめんね、いじわるしすぎたみたいだ」
セオドアの体温は私に触れることなく、そっと言葉だけが頭の上に降ってきた。
「ちがうの、ちがいます!」
なにかを考えるよりも先に、私は目を開き、私から離れようとする彼の右腕を、すがりつくように両手で掴んでいた。
彼は驚いたように大きく目を見開くと、私の顔を見て、ぼっ!と音がするかのように顔を真っ赤にした。
「え?」
思ってもいなかったセオドアの反応に、私は少し驚いた。
年上のセオドアは、いつだって余裕があり、いつもどこか私をからかうような雰囲気があったから。
「まって、ちょっと見ないで」
私に右腕を捕まれたまま、空いている左の腕で顔を隠そうとする。
「え?なに?どうして?」
「まって……」
セオドアは私から顔を逸らしながら、必死に腕で隠そうとする。
「とうして隠しますの?どうしてそんなに赤く……」
「パトリシア、それ以上、言わないで」
私がいつまでたっても腕を離さないからなのか、観念したのか、諦めたのか。
セオドアは、私に腕を掴まれたままの変なエスコートで、執務室に置かれた長椅子へと私を連れていった。
微妙な距離を空けての、隣同士に座ったものの、セオドアは「あーー」「うーー」と、小さな唸り声を溢すばかりだ。
唸り声を伴う微妙な時間が過ぎていく中、焦れた私の気持ちを代弁するかのように、アリサがお茶を運んできた。
長椅子の前に設えられたローテーブルにカップを二つ並べると、アリサは「僭越ながら」と、言葉を続けた。
「お嬢様の婚約が無くなって、一週間。そろそろ当家も賑やかになる頃かと存じます」
まるで謎かけのような言葉を残し、執務室の扉はきっちり全開放して辞した。
私に掴まれたままの右腕をそのままに、左手でぐっとお茶を飲み、あちっと呟いたセオドアは、はぁーっと大きく息を吐き出した。
いつものセオドアからは想像もつかない、落ち着かない様子だ。
「パトリシア、パトリシア嬢、あー、まずはちょっと、腕を離して」
「逃げませんか?」
先程、私から離れていくセオドアをどうにかして止めたいと思った。
その気持ちのせいで、私の心臓はずっとザワザワと落ち着かない。
「逃げません。頼むから、少しは格好つけさせて」
そう言って、セオドアは左手で自分の前髪をくしゃくしゃっと混ぜるように動かすと、ささっと手櫛で整えた。
私は彼の言うように、そっと腕を解放する。
心臓が、きゅっと痛い。
「パトリシア嬢。君みたいな若くてキラキラした子から真っ直ぐに見つめられると、さすがに僕も、こう、誤解してしまってね」
セオドアは私を見ずに、テーブルに置かれたカップを見つめながら話す。
「誤解?」
こちらを見ないのは、誤解してしまうから?
何をどう誤解してしまうの?
「その、君にしたら、気の迷いというか、そんなもんなんだと思うんだけれど。それでも多少はどうにかなるかと、姑息にも僕はあれこれと策を労して」
セオドアは一体、何をいっているのだろう。
「暗くて人気のない旧校舎は、怖かっただろう?その、恐怖でドキドキするのを、敢えて僕にドキドキしているかのように錯覚させてみたり」
「確かに、あの時はずっとドキドキしていましたわ」
そう、ドキドキしていた。
確かにあの時、セオドアに振り回されるようにドキドキしていた。
セオドアは、カップから視線を外し、私を見ると、少し困ったように笑った。
「パトリシア。君は落ち着いているのに真っ直ぐで。家と家族を愛し、戦うことを躊躇わない。こんなに綺麗でこんなに芯が強くて。僕には眩しすぎる。近くにいれば、触れたくなる」
セオドアが、目を細めて私を見つめる。
その顔を見ていると、心臓が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛くなる。
その目の奥を。私が逃げ出したくなるような熱を、みせて。
「触れてください」
心臓が、口から飛び出しそうな程に、猛烈に暴れている。
暴れる心臓のせいなのか、私の声は震えていた。
私は自分の手を、彼の膝に置かれた右手に重ねた。
震えているのは、私なのか、彼なのか。
「わたくしも、触れたい。今も、心臓が、痛いくらいにドキドキしてるの」
私の震える声での精一杯の訴えを聞き、セオドアは、そっと、左手で私の肩に落ちる髪を一房、掬い上げた。
彼の指先が肩に触れ、ピクンと跳ねたのは、私の肩だ。
「パトリシア、好きだ」
セオドアは、私の髪を左手の指に絡め、そこからするりと滑らせると、私の右の頬にその手を添えた。
彼の熱が、私の頬を熱くする。
「好きだ」
その声に、私の視界が滲む。
目を閉じるべきなのか、彼の目を見つめるべきなのか。
彼の瞳には、逃げ出したくなるような熱が揺れている。
「わたくし、どうしたらいいの?」
揺れる視界には、少し困ったようなセオドアが映るだけだ。
「パトリシア……」
彼の声が、聞いたことのないような、焦れる甘さを含んで小さく響く。
こんな声で誰かに名前を呼ばれるのは初めてだ。
大暴れする心臓なんか、口から飛び出してしまえばいい。
「はい、二人ともそろそろ僕の事も思い出してくれるかな?先輩、パトリシアは貴族です。ご存じでしょう?相応に手順は守ってくださいね?当主の僕は、まだ、何も聞いていませんよ?」
一気に現実に引き戻す、兄の声だ。
声のする方を見れば、開かれた入り口の向こうに、兄が立っていた。
にこにこの笑顔がなんだか少し怖い。
兄の奥には、喜色満面、といった雰囲気のアリスと、いつもより少しだけ眉が下がったようなセバスチャンの姿も見える。
私とセオドアは、どちらかが何かを言うでもなく、お互いに少しずつ距離を離す。
ああ、それにしても。
こんなに気まずい雰囲気、生まれて初めてだわ!
私がそっとセオドアの方に手を伸ばすと、彼はその指先を優しく握ってくれた。
私の冷えた指先にセオドアの体温が移るのが、なんとも心地よい。
まずはここから、よね。
こちらで完結になります。
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作中に出てきます『アリシア法』の逸話は、拙作短編【「はいはい、私、婚約破棄代行サービスの者です」】
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になります。
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