本日、殿下はご欠席ですわ
「ジャクリーヌ!今日この場をもって、そなたとの婚約を⸺」
王立学院の卒業式典を明日に控えたその前夜に開かれた、卒業記念パーティーの席上でのこと。学院ではもはや知らぬ者もないほど噂になっている男爵家の庶子の腰を抱いて王族専用の壇上に突然現れ、自分の婚約者である侯爵家令嬢ジャクリーヌに向かって人差し指を突きつけ声高に何事か宣言しようとした第三王子は…………
シュタッ、バシッ。
「うっ!?」
ガクッ。
突如として背後に降り立った黒衣の大男に手刀で後頭部をひと打ちされ、声を上げる間もなく昏倒した。
同時に男爵家の庶子のほうも、やはり背後に降り立った黒衣の華奢な女に手刀で後頭部をひと打ちされ昏倒した。
王子と男爵家庶子は倒れ伏すまでもなく黒衣ふたりに抱き止められ、そして黒衣の者たちは現れた時と同じく瞬時に姿を消してしまった。王子と庶子もろともに。
あまりに一瞬のことで、わずかでも余所見をしていたり思わず瞬きした者の中には、黒衣の者たちが現れた事すら気付かなかった者さえいる始末。だが見ていた者たちは一瞬にして姿が消えた王子たちに困惑し、動揺が広がってゆく。
だがそうした者たちのなかで唯一、侯爵家令嬢ジャクリーヌだけは落ち着き払っていた。
「本日、殿下はご欠席ですわ」
姿勢正しく、凛とした表情を崩すことなく、ジャクリーヌははっきりと宣言した。
「え……」
「殿下さっき居たわよね?」
「本日、殿下はご欠席ですわ」
「だって今そこの壇上で」
「例の男爵家の庶子の腰抱いて」
「本日、殿下はご欠席ですわ」
「でも、そういえばジャクリーヌ様は本日どなたにもエスコートされてませんでしたわ」
「で、では、本当に……?」
「ええ。殿下は本日はご欠席ですの」
あくまでも淑女の微笑を崩さず堂々と言い切るジャクリーヌに、会場の誰もが頷きはじめ、次第にそういう雰囲気になってゆく。
そうして和やかな雰囲気のまま、卒業前夜祭の記念パーティーは恙無く終了したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「は〜〜〜〜〜、危なかった……!」
記念パーティー会場となった王城の小ホールから遠く離れた王城第七応接室。普段は使われることのないその小さな応接室で、人目もはばからず盛大に嘆息したのは国王その人である。
「もう少しで我が国の歴史に消しようのない黒歴史を刻むところであったわ。“影”たちよ、本当によくやってくれた」
王のその感謝の言葉に、応える者はそこにはいない。黒衣の者たちは王家の“影”であり、影は表立って人前に姿を現す事のない者たちであるからだ。
そして王の前に姿があるのは唯ひとり。
「そなたにも申し訳ない仕儀になった」
「いいえ、陛下。何事もなくようございました」
そう、侯爵家令嬢ジャクリーヌである。
「そなたの機転にも救われた。本当に助かったわい」
「わたくしはただ、“影”の者たちに指示された役目を果たしただけですわ」
そう。ジャクリーヌはあの時、黒衣の大男が自分に目線を向けて小さく頷いたのを見逃さなかったのだ。それは即ち、辻褄を合わせろというサインに他ならなかった。そして彼女は正確にそれを読み切り、アドリブで場を収めたのだ。
「殿下が壇上にお出になられてすぐにあのような愚こ……行いに走られたから、まだ何とかなったのです。もしも最初からいらっしゃったなら、きっと手の打ちようもなかったことでしょう」
「ああ……第三王子めは人の注目を集めるのが殊の外好きだったからのう……」
人の注目を集めるのが好き、というより人に注目されないことが大嫌いな第三王子は、いつだって衆目を引きつけ噂になる行動ばかり繰り返していた。まあ残念なことに、悪い噂でばかり目立っていたわけだが。
おそらく今回も、急に現れて唐突に婚約者の入れ替えを宣言することで話題の中心になりたかったのだろうと思われた。それに加えて学院の成績、剣術体術魔術を含めた全てにおいて自分を上回る優秀な婚約者を排除することで、自分よりジャクリーヌのほうが目立っている現状をどうにかしたかったのだろう。それによってジャクリーヌの将来が、彼女の人生がどれほど狂うかなど考えもしなかったに違いない。
「……陛下、その、殿下はどうなりますの?」
「あやつは卒業式典を病欠したのだ。今後は長期療養に入り、それとともにそなたとの婚約も解消されることになろう」
「……では、男爵家のあの娘は?」
「そんな娘はおらんよ」
「…………左様ですか」
それ以上ジャクリーヌは聞かなかった。
そして王も語ろうとはしなかった。
その後、王の言葉通りに第三王子が急病により療養生活に入ったことが発表され、それに伴う学院の退学とジャクリーヌとの婚約解消も正式に決定された。男爵家の庶子は入学及び在籍の記録さえ抹消され、男爵家の提出した戸籍情報すら存在しないものとされているそうである。
卒業記念パーティーでは何事も無かったとされ、会場にいた者たちは卒業生も在校生も講師陣も、給仕役の使用人たちまで含めて厳重に箝口令が敷かれた。もちろん、箝口令は学生たちを通じてその各家庭にまで周知済みである。
ジャクリーヌは学院を首席で卒業したあと、王妃付きの女官として王宮に出仕した。王妃の秘書役として仕えたあと、数年経ってお役目を辞して侯爵家の領都に下がったと伝わっている。だが、その後彼女を見たものはないという。
第三王子はその後、二度と表舞台に戻ることが無かった。病死の発表はなく、さりとて平癒して復帰したわけでもない。療養中のまま、いつしか彼は人々の話題に上ることもなくなり、そうして誰からも忘れ去られていった。
男爵家の庶子は存在自体を抹消されたため、それで終わるはずだった。だが何故か実家の男爵家があの記念パーティーから程なくして破産し、爵位と領地を返納したことで、それが少しだけ話題になった。
領地経営に大きな失敗も特になく、資金繰りに苦しんでいるという噂もなかった男爵家の唐突な破産は一瞬だけ噂になりはしたものの、だが社交界には日々多くの噂が流れ、そして消えていくものだから、男爵家とその庶子の噂もすぐに流れて消えてしまった。
「宰相。どうかね、“影”の者たちは?」
「期待の大型新人は言うことなしですな。もうひとりもハニトラ要員としてなら役立ちそうとのこと。ただ、今ひとりはどうにも……目立ちたがりなのが始末に負えませぬ」
「ああ、よい。捨て駒くらいにはなるだろうよ」
「御意」
王国は、今日も平和である。