95.アルフリードの回想 前編
僕とソフィアナは、ほとんど同じ頃に生まれた。
そして、僕は彼女とジョナスン皇太子殿下とともに、幼い頃のほとんどを皇城で過ごしたんだ。
このヘイゼル邸には、食事と睡眠を取るくらいに戻ることが多くて、あんまり遊んだ記憶というのはなかった。
ジョナスン殿下は皇太子として、ゆくゆくは皇帝になるための帝王学や武芸を学び、僕は彼の側近としての教育を受けていた。
ソフィアナは、そんな僕たちの真似をして活発ながらも、皇女としての立ち居振る舞いも学んで、何もかもが平和で、定められた道に従って僕たちは進み続けていた。
だけど、僕とソフィアナが4歳になった頃、あれが始まったんだ。
ーー約17年前
「なぜ、お兄様が行かなくてはならないの!?」
その日、皇城にはソフィアナの泣き叫ぶ声が響き渡っていた。
城内の者たちは、7歳になったばかりのジョナスン殿下がキャルン国へ人質に取られてしまうことを、もう随分前から知らされていた。
僕も父上から教えてもらっていたけれど、ソフィアナには決して話してはならないと言われていた。
皇帝陛下は、いつかは話さなければならないと考えられていたものの、結局それを彼女に打ち明けたのは、ジョナスン殿下がここを発つ3日前だった。
「ソフィアナ、これは国のために決まったことなのだ。どうか、分かってくれ」
「なぜ、お兄様が犠牲にならなくてはならないの!? 急にお母様が部屋から出てこなくなったり、私だって何かおかしいってことくらい気づいてたんだから!!」
ソフィアナは顔をぐちゃぐちゃにしながら、さらに泣き喚いた。
朝は整えられていた肩下まで伸びた髪も、昼を過ぎた頃にはいつもこんがらがって、乱れてしまっている有様だった。
そして皇后様は、殿下が人質に出されることが決まった途端にショックを受けて、部屋にこもってしまって、食事にも顔を出さなくなってしまったんだ。
陛下の隣りに立っていたジョナスン殿下は、何も言わずにそんなソフィアナのことを抱いて、よしよしと背中を叩いていた。
そして、人質交換のためにバランティア帝国とナディクス国、キャルン国の国境が交わる地点で、執り行われる同盟の儀に向かうジョナスン殿下のお見送りに向かうことになった。
それぞれの国には、重装備をした騎士団が厳重に警備をしていて、物々しい雰囲気だったのを僕も覚えている。
そんな状態のところへ、ソフィアナや僕まで連れて行くのを陛下も父上も悩まれていたけれど、これからの帝国を担うものに、この歴史的な瞬間を立ち合わせたいといって、そう決めたそうだった。
ちょうど3国が交わる位置には、この日のために明るい土色をした高い塔が建設されていて、その塔の周りのそれぞれの領土内に3人の子どもが立っていた。
1番背の高い、ダークブロンドの髪色をした、ジョナスン・バランティア皇太子殿下。
今と変わらない、腰まで伸びた長い真っ直ぐな黒髪のリリーナ・キャルン王女。
そして、白い民族衣装をまとったエルラルゴ・ナディクス王子だ。
彼らは、その中央にそびえ立つ塔のてっぺんに3国の国旗が上がると、塔の周りを時計回りに歩き出した。
そうすることで、3人はそれぞれ、隣りあう国の領域へと入って行ったんだ。
塔の立っている位置から、放射状に少し離れた位置にはそれぞれの国の最高権力者が立っていて、国土に入ってきた子どもの前まで歩いて行くと、その手を取って高く掲げた。
その様子を僕は、ヘイゼル家の騎士団に囲まれた父上の腕に抱えられて、じっと眺めていた。
その時に父上が僕に言った言葉を、今でも覚えている。
「ジョナスン殿下がお戻りになるまでは、ソフィアナ殿下がこの帝国における唯一の後継者だ。お側についてしっかりお支えするんだぞ」
ものものしい雰囲気の中、帝国人とは見た目も雰囲気も異なるナディクス族の王子は、近寄り難いオーラを放ちながら、お付きの者と共に帝国の馬車に乗り込んだ。
陛下と父上はそれとは別の馬車に乗り、僕とソフィアナはそれぞれの乳母と一緒にまた違った馬車に同乗した。
その馬車の中で、ソフィアナは思い詰めたように同じことを繰り返していた。
「お兄様は……あいつと交換されたんだ。何があっても、私はあいつとは仲良くしない」
僕が黙ってそれを聞いていると、
「アルフあんたも、あいつと喋ったりするんじゃないわよ」
睨みつけながら、ソフィアナは言った。
皇城に到着して初めてエルラルゴと対面した時、ソフィアナは白目に血管が走るほど、彼のことを睨みつけていた。
エルラルゴは、そんなソフィアナのことなど全く気にしていないみたいに、微笑みすら口元に浮かべて、ここが初めて来た場所とは思えないくらい、堂々とした佇まいだった。
その時、彼はまだ6歳だった。
「ソフィアナ、エルラルゴ王子のことを兄と思って、接するのだぞ」
かがみ込んでそう言う皇帝陛下に今度は睨みつける矛先を変えると、ソフィアナは陛下から顔を一気に背けて、自分の部屋へと駆け込んで行った。
そして、これまではジョナスン殿下と過ごしていた皇城に、エルラルゴが代わりにやって来て、新しい日々が始まった。
エルラルゴには、ナディクスから専属の教師もついて来ていて、いつか王位を継承するための自国の教育も学んだりしていた。
それとは別に、彼と僕らに仲良くしてもらいたい陛下の計らいで、僕たちが受けていた帝国教育も一緒に受けることになった。
けれど、ソフィアナは彼のことを無視していたし、彼女の言うことに逆らうと、うるさく騒がれるから、僕もそれにおとなしく従っていた。
ところがある日、ほぼ毎日ある武術の稽古に、いつもは参加していなかったエルラルゴも護身のためにと参加した日があった。
皇族騎士団長の指導に従って、3人で型を組んだり、武器で打ち合ったりしている間、ソフィアナは相変わらず彼のことをすごい目つきで睨みつけていたけれど、特に抵抗したり、問題を起こすこともなく、その日の稽古は終わりを迎えた。
ところが、皇族騎士団長がいなくなったのを見計らって、ソフィアナは突然、エルラルゴに掴みかかったんだ。
道具を片付けに彼らより少し離れた所にいた僕は、それを目にして、慌てて駆け出した。
エルラルゴはソフィアナに投げ飛ばされて、皇城のプライベート庭園の芝の上に仰向けに倒れた。そしてソフィアナがその上に馬乗りになって、王子の胸元を掴んでいた。
「どうして……どうして、お兄様じゃなくて、あんたがいるのよ! あんたみたいに弱そうな奴はここには必要ない! お兄様を返せ!!」
ソフィアナはボロボロと泣いていた。
「そんなこと王子に言ったって仕方ないだろ? 大人たちが決めた事なんだから」
彼らのそばまで来た僕がそう説得しようとすると、
「そんなことは分かってる! 分かってるけど……」
着ている白いシャツの袖でソフィアナは涙を拭き始めた。
ソフィアナの下で、胸元を掴まれたままになっているエルラルゴは、真顔で微動だにもしない。
すると、これまで僕らと言葉を交わしたことがなかったエルラルゴが突然声を発したんだ。
「ソフィアナ皇女、私のことを殺したいなら、殺せばいいよ」
ハッとしてソフィアナは袖で目をこするのをやめた。
「私にも弟がいる。君と同じように、泣いていたよ。もし私が死んだら、彼はきっともっと悲しむだろうね。そして、もし君の兄上が同じ目にあったら、君だって、今以上に悲しむだろ?」
凛とした表情と言葉で、エルラルゴは真っ直ぐにソフィアナを見上げていた。
ソフィアナは、泣いているのも忘れたように涙を手で拭く動作を止めた。
「悲しみの後には、憎しみって感情が湧き上がる人もいるらしいよ。そうして、相手を殺したり傷つけたりして、また悲しみが生まれて、私たちの国は何百年もの間、争いを続けていたんだ。君の兄上は、それを止める使命を持って生まれたんだ。そして、それは私も同じなんだよ」
陛下をはじめ、皇城にいる人々は、そんなふうにしてソフィアナに今起こっている事態を説明しようとはしなかった。
まだ幼いから、分からない、と思ったのかもしれない。
だけど、僕たちと2つしか歳が変わらなかったエルラルゴはこの時、自分の置かれている状況を完全に理解していたんだ。
ソフィアナは彼の胸元を掴んでいた手を離して、ギュッと握りこぶしを作った。
そして目を瞑ると、震えながら、グスン、グスンと、今度は静かに泣き出した。
すると、エルラルゴは片手を上げて、下を向いているソフィアナの顔に垂れかかっているクセの強い黒髪に手を掛けた。
「ああ〜あ、せっかく綺麗な髪の毛もこれじゃあ台無しだなぁ。それに顔だってヒドい有様じゃないか。さあ、こっちに来て」
エルラルゴは上半身を起こすと、ソフィアナの手を取って一緒に起き上がった。
その日から、ソフィアナの髪を整える役目は、彼女のお付きのメイドではなく、エルラルゴに代わった。
彼は、弟の髪の毛の手入れを毎日していたとかで、半日もするといつもグチャグチャになっていたソフィアナの髪を、キレイな状態で1日キープさせることができる唯一の存在となった。
そして2年後、エルラルゴとソフィアナが婚約することになった。
ソフィアナは初めて彼と出会った時の態度が嘘のように、何も知らされていなかった2人が大勢の人がいる前で婚約を告げられた途端、彼にキスして喜んでいた。
僕は……よく人前でそんな事ができるな、と信じられずに見ていたよ。
人前に現れず、部屋にこもりきりだった皇后様にも変化があった。
皇后様へのご挨拶という口実でエルラルゴは部屋へ入ると、ジョナスン殿下がよくソフィアナと僕と遊んでくれていた粘土で皇后様がずっと何かを作っているのを発見した。
それからというもの、一緒にアクセサリーや手芸などの創作活動をするようになったり、帝国のおしゃれに関する文化を教わったりしたそうだ。
そのおかげで皇后様は、精神的ショックがだいぶ和らいだのか、外へも徐々に出れるようになり、家族で取る食事にも毎回出れるまでに回復された。
そして、エルラルゴがやって来てから10年の月日が経った。
あの土色の塔が建っている3国の国境へ、僕たちはまた赴いた。
3人の人質を祖国へ返還する儀式を行うためだ。
そして、その塔の中にある会場で行われた送歓迎パーティー。
それが僕の社交デビューだった。