94.覚醒への期待
あまり眠れなかったけれど、次の日も騎士服を着て、皇女様の執務室で女騎士としてのお勤めをして、自宅へ戻る日々が続いた。
アルフリードは時々、皇女様のところへもやってくるけど、仕事中は用のない私のことは素知らぬフリをしているみたいなので、特に問題が起こることはなかった。
アルフリードとの話し合いの期日まで残り1日となったところで、エスニョーラ家に皇城から帰宅した時だった。
「エミリア、お前に頼みたいことがある。3階のマニュアル部屋へ来るんだ」
最近は、側近の仕事で家にいることが少なくなっていたお兄様が、珍しく私よりも先に帰宅していた。
一旦、服を着替えて、言われた通りに指定された部屋へ行くと……
「皇城での仕事が忙しくて、四半期に一度の貴族家マニュアルの更新をする暇がない。ここに資料があるから、エミリア、やっておいてくれ」
そう言ってお兄様は、私が前に厚さ10cm×25冊の本を必死に覚えようと、地獄の時間を過ごした勉強机の上に置かれた大量の書類を指差した。
う、うわぁ。なんだこれ?
「うちの騎士団の諜報部員が集めてきた、各貴族家に関する最新情報だ」
なるほど……いつもお兄様は、これと照らし合わせながら、マニュアル本の更新作業をしていたんだ。
気の遠くなるような作業だけど、まだ暗記するよりは救いのある仕事かもしれない。
明日のアルフリードに婚約破棄を説得するという決戦に向けて、本当はそれどころではなかったけど、作業を始めるような動作に入ろうとした。
その時……
「お前、ヘイゼルの子息に婚約破棄すると言ったらしいな」
まさか、それを知るはずのない人から突然それを言われて、私はお兄様の方をバッと振り返った。
どうして……? ま、まさか、噂がもう出回ってしまってるんじゃ……
「お兄様、それは誰から聞いたのですか……?」
「ヘイゼルの子息からだ」
え……ええ!
どういうこと? だって、お兄様はアルフリードのことを毛嫌いしていたはずなのに……
だけど、アルフリードは“兄上、兄上”と、彼のことをなぜか前から慕っていた。
まさか、私のことを相談したとか……? 嘘でしょ……
「お前がなぜ、そんな事を言い出したか、全く見当もつかないそうだ」
お兄様は、投げやりな調子で腕を組みながら話し始めた。
そ、そんな話をしていたなんて……あのディナーの時は、すっごい余裕な感じで、私のことなんか何もかもお見通しって感じだったのに……
「だから、言ってやったんだよ。あいつの皇女に対する態度を」
まさか、ここで、こんな事が起こるとは思わなかった。
確かにお兄様は私と一緒に、アルフリードが皇女様に過保護すぎるほど、お世話を焼いている所を見て、辟易としている様子だった。
だからといって、それを本人に直接言ってしまうなんて……
「そこにも書いてあるが、あの男は昔から皇女は特別扱いの対象だからな」
お兄様は壁の本棚に置いてある一冊のマニュアル本を指差した。
私は慌てて、その指差されている本の正式名称である『帝国貴族史 第1巻』を本棚から取り出して、前にも読んだことがある一文が載ってるページを開いた。
それは、アルフリードに関する項目で、
『通常の人付き合いは表面的だが、皇女とは誕生日が1ヶ月しか違わないこと、皇帝と公爵の仲がいいため生まれた時から姉弟のように育てられたこともあり、唯一関係性が深い人物』
と書いてある。
“唯一関係性が深い人物”
そう、これだ。原作でも語られていた設定。
私がアルフリードが皇女様を想い始めると頑なに信じている動機でもある。
「お、お兄様はこの事をアルフリードに言ったというのですか……?」
私は恐る恐る、目線をお兄様の方に向けながら聞いた。
「それと似たようなことは言ってやったよ。お前との間に何があったかは知らないが……少なくとも、婚約破棄なんて事を言われた要因の一つとして、ヤツの頭には留まっているだろうな」
それを聞いて、第3者からの指摘を受けて、アルフリードが皇女様への想いに覚醒する光景が目に浮かんできた。
だ、だとすれば、私にとっては好都合だ。
どうせ、いつかそうなるんだったら、早い方がいい。
いつまでも、私と結婚する、なんて事に執着されて、皇女様の馬車事故の時になるまで、諦めてもらうのを説得し続ける、なんて事になったら困ってしまうし……
「だけどな、エミリア」
私がそんな事を冷や汗を流しながら考えていると、私に語りかける声のトーンがさっきより少し低くなった。
「あんまり世の中を甘く見ない方がいいぞ。ヘイゼル家との縁談を取り消せば、厄介なことが起こるかもしれない」
お兄様は意外にも、私のやろうとしている事を止めるセリフを吐いてきた。
もしかして、皇女様も心配していた事を、彼も言っているんだろうか……?
「ヘイゼル家がエスニョーラ家の後ろ盾で無くなるというのは、もう別の解決策を取ってますから! 皇女様にその役を引き受けてもらうようにお願いしているので……安心してください」
そういう私の事を”分かってないな”という感じの目で、お兄様はチラッと見たけれど、そのまま何も言わずに部屋を出て行った。
「……あと、こいつの面倒も一緒に頼む」
と思ったら、彼はまたすぐに戻ってきた。
「うあっ、うあっ」
その片腕には、生後10ヶ月ほどになった私の甥っ子リカルドが抱えられていた。
エスニョーラ家の子どもは代々、この貴族家マニュアルを絵本代わりにして育つという。
それは、お父様もお兄様もそうだったし、この小さなリカルド坊やも例外ではない。
今度こそ、お兄様が部屋を出て行った後、床に広げたマニュアル本の一冊を、リカルドは楽しそうに眺めていた。
「エミ、エミ!」
私の名前をまだちゃんと言えない彼は、そうして私のことを呼びつけて、ページをめくれと指示していた。
マニュアル本の更新作業と、甥っ子の世話をしながら、明日のアルフリードとの決戦に向けて、私は最終調整を行なっていた。
だけど、もしいざとなったらの最後の手は、あれしかない……
そして、翌日。
夕暮れのヘイゼル邸。
彼が決戦の場に選んだのは、奇しくも彼が私に初めて口づけした場所だった。
クロウディア様の中庭が見えるテラスだ。
私は皇城の帰りに寄ったから、エスニョーラの騎士服姿で、彼を待っている間、テラスからヘイゼル家の敷地を見渡していた。
一面に広がる敷地には、所々に別館が建っているけれど、その外観はちゃんとリフォームがなされていた。
だけど、その中は今では全然使われていないので、リフォームは後回しにされていた。
それでも見た目は綺麗だし、前は草でボーボーだった周りの空間も、皇帝陛下の配慮により、定期的に皇城の庭師さんが整えてくれているので、テラスからの眺めは最高だった。
今まで頑張ってきたヘイゼル邸のリフォーム計画は、アルフリードと公爵様が主に使用している本館部分は、この間、全部完了することができた。
……ただし、彼らのボロボロのお部屋は、そのままでいいという事で手を入れることはできなかったけれど。
本館以外はまだ終わっていない箇所もたくさんあるけど、もうここまでなんだな……と思うと寂しくもあった。
なんてことを感じていると、コツコツ、と少し離れた所から音がしてきた。
大舞踏室のある方から、クロウディア様の中庭に沿って並べられている石畳を歩いている、アルフリードの靴の音だった。
彼は早くもゆっくりでもない速さで、こちらまで近づいてきて、私のことを少しだけ見ると、テラスの手すりに腕を組んで寄りかかった。
「エミリア、まだ僕との結婚について、考えは変わらないかい?」
彼はこの間と変わらず、落ち着いた声だった。
「はい……あなたとの縁組を取りやめさせて下さい」
私はうつむいて、そう答えた。
少しの間、沈黙があった。
「兄上から言われたんだよ……君とソフィアナと、どちらが大事なのかって」
アルフリードの言葉に、私は固まりそうになった。
2人は……そんな話をしていたの?
「君がもし、僕のソフィアナに対する態度を気にかけて、僕のものになることを拒んでいるのなら、今からする話を聞いて欲しい」
彼のその言葉に、私は顔を上げた。
すると風が吹いて、手すりに寄りかかる彼の後ろを、数枚の葉っぱがヒラヒラと舞っていった。
前の世界の私がいた国の夏とは違って、この世界は夕暮れくらいになると、若干涼しい風が吹いてくる。
そんな中にいる彼は、あの、控えめな微笑みを静かにたたえていた。
そうして彼は話を始めた。
エルラルゴ王子様、リリーナ姫、そしてジョナスン皇太子様が人質という犠牲を強いられた、三国同盟が締結された当時のことを。
そして、皇女様とのお話を。