34.あれは幻だった
アルフリードのお屋敷へ行く約束をした日になるまでの間、皇女様が作成してくれた騎士の鍛錬用の自主練メニューをやったり、お父様とお母様からも外出に誘われて一緒に買い物に行ったりして過ごした。
皇女様いわく、自主練ではまず基礎体力をつけるようにとのこと。
つまり筋トレだ。
一応、邸宅の敷地内にあるエスニョーラ騎士団にはジムがあるらしいのだが、アルフリードはもちろん、お父様、お兄様にも男の人がわんさかいる騎士団の施設へは近づいてはダメと固く言われていた。
そのため、アルフリードが以前大量にプレゼントしたドレス類を保管してる客間の、そのまた隣の客間にイリスとウーリス騎士団長が筋トレグッズを運び込んでトレーニングルームを作ってくれた。
私が一生懸命、腹筋をしている間、イリスはお兄様との突然の婚約で相当ストレスがたまっているらしく、サンドバッグに向かってパンチとキックをこれでもかという位、打ちまくっていた。
お父様とお母様とのお買い物では、最初お兄様も馬車に同乗していて、家族水入らずの4人で外出! とウキウキしたのだけど、なぜかお兄様は途中で降ろされて、アルフリードとは行かなかった帝都のお店に連れて行ってもらったりした。
やっぱり愛娘との初の外での買い物は父母にとっても相当嬉しい事のようだった。
たまたま香水屋さんの前を通ったとき。お母様が、
『そうそう、エル様に申し込んだワークショップは香水作りだったのよ〜』
と言っていた。
へー、香水かぁ、おしゃれー と最初は思っただけだったけど、実はずっと気がかりにしていたある事を思い出してきた。
アルフリードの家に行く前夜、私は自分の部屋のタンスにしまっていた、薄ピンク色の部屋着を取り出した。
そこに鼻を近づけてみる……やっぱり取れちゃってる。
王子様の歓迎会の日、初めてアルフリードのお屋敷に連れて行かれた時に、騎士服から着替えるのに貸してくれたあの部屋着だ。
ちょっと私には大きかったけど、着ていた時は確かに花の香水のいい香りがこの服からしていた。
だけど、返そうと思ってうちで洗濯をしてもらったら、匂いが取れてしまったのだ。
返すなら、同じ香りで返したいな……そう思っていた。
前を通りかかった香水屋さんに入っていくつか見させてもらったけど、同じ香りのものは見つからなかった。
借りたものは早く返した方がいいとは思うんだけど、もう少しその香りを探してからにしようと思って、その部屋着を持っていくのはやめた。
そうして次の日、約束通り迎えに来てくれたアルフリードの馬車に乗って、ヘイゼル公爵家の外観をみた私は、その目を疑った。
あれほど婚約披露会の時は幻想的で素敵な雰囲気を放っていたのに、目の前に現れたのは、薄暗ーい建物の色に、壁の半分くらいが茶色っぽいツタに覆われた堅牢な要塞。
昼間でもすぐにそこが心霊スポットと名乗り出てるみたいな、変わり果てたお屋敷の姿だった。
どうして?? まだ3日か4日くらいしか経ってないのに!
信じられない……
いや、ま、まあ、あの時はもう夜だったし、外観についてはライトアップのおかげで目が錯覚を起こしてただけなのかも。
そう自分に言い聞かせて、巨大なお屋敷の前に馬車が止まってそこから降り立つと、玄関前には暗い顔をした無表情の使用人がズラリと並んでお辞儀をして出迎えていた。
白と黒しか使われていない使用人の服装に、建物全体が色褪せてしまっているのも相まって、そこには白黒以外、一切の色が排除されてしまってるようだった。
何だかもう現実離れしすぎていて、この中に入ったら2度と元の世界には戻ってこれないような気さえしてくる。
やっぱり、引き返そうかな……
足を一歩も踏み出すことができずに、その場に固まっていると、
「ただいま帰りましたー」
この場の雰囲気を打ち砕くみたいな爽やかで明るい声で、アルフリードがこれまた爽やかに使用人たちの間を颯爽と歩いて玄関の方へ向かっていった。
そこでは私は再び目を疑った。
彼の周りだけちゃんと色が存在してるように見える!!
彼の周りだけ空気が浄化されてるみたいに、そこだけが不気味な気配が無くなったように感じられる!!
これはもしかして……ファンタジーな小説でよく出てくる神聖力ってやつですか?
「エミリア? もしかして、この間出かけてから手を繋がないと動けなくなっちゃった?」
私の挙動をすごくいいように解釈して、彼は遠慮もせずにお気に入りの恋人繋ぎをし始めると、その手を引いて邸宅の中へ導いていった。
うわぁ 手を繋いだら、そこから力が漲ってくるみたいに、このお屋敷のことが怖くなくなってきたよ!
このお化け屋敷でのみ発動してるらしい彼の神聖パワーを利用して、私は勇気を振り絞り中へと踏み出した。
やっぱり……披露会で見た王子様が演出を手がけたアンティーク感漂うオシャレ空間の面影は一切消えてしまっていた。
お掃除は行き届いているみたいだけど、床や壁、所々にある置き物なんかは一体いつから替えていないのかと思うほど古臭くて、ボロボロになってしまっている。
「うーん、なかなか回るのに時間がかかるからなぁ。どこから案内しようか」
アルフリードは自分の首の後ろに手を当てて、困ったように考えこんでいた。
今日ここに来た1番の目的は、どこをどういう風に変えていけばいいのか下見すること。
王子様の話では、倹約をしすぎてお金があまり余ってしまっているというから……
アルフリードと彼のお父様が快適に過ごすため、ご本人たちのためにリフォーム費用として、そのお金を有効活用してもらうように仕向けようと思ってる。
今日は1日をかけて色々案内をしてもらって、皇女様が事故にあう予定の3年の間に、手がつけられそうな所から徐々に綺麗にしていく、長期的な計画だ。
案内をしてもらう前に、あの中庭の昼間の姿を見てみたいけど……
あの場所に行きたいとストレートに言うと絶対、あの時のキスを想起させてしまうから、
「あの披露会をやった舞踏室をもう一度見てみたいな〜」
そう濁しておいた。そこから庭に出ることができるし。
「ああ、もちろんさ。これからずっと僕たちの思い出になる場所だからね」
彼はとても幸せそうに私を見つめながら言った。
なんだか胸がズキンとした。
もしその時が来て、私が婚約を破棄したいと言ったとしたら、彼は傷つくだろうか?
いや……彼は皇女様に惹かれる運命だから。私はかすめていった不安を無視した。
そして、あの豪華で厳かな雰囲気だった舞踏室に案内してもらった、はずだったのに……
どうして、どうして、どうしてなの……!
暖かみのある明かりで、燦々と輝いていたはずの天井から吊るされていた数台のシャンデリアには、白い布が被せられていて、まるでシーツのお化けが浮いているようだった。
中は昼間だと言うのに薄暗く、石造りでできているからか、冷気が漂っていてとても肌寒い。
やっぱり、たくさんの人が招待されて優雅な音楽と笑い声で満ちていたあの時間は夢幻だったのかも。
あまりの現実に涙が出そうになりながら、あの中庭も夜だったから見えなかったけど、きっと荒れ放題なんだろうと思った。
そう思ってもう期待するのは諦めて、アルフリードと手を繋ぎながら、格子状の大きなガラス扉に向かっていった。
彼が扉を開いて、その背中の先に見えたのは、
本当に夢の中に入ったみたいな、手入れのよく行き届いた秘密の花園だった。