127.役者は揃った
醒めるような物凄い衝撃音に目を見開くと、本当に寸前に迫っていたローランディスさんの顔が右後ろの方を向いた。
その表情からはさっきまでの私の大好きな笑顔は失われて、とても冷たい種類のものに変わっていた。
向こうの方から小さな破片が飛んできて、彼の頬を掠めると、細い血筋がそこから滴り落ちた。
向こう側では、天井から床まで届く窓ガラスの細かい破片が部屋の中に向かって宙を舞っており、確かにその中にはピカピカに磨かれた栗毛色をした大きな馬が、後ろ脚で着地し前脚をバタつかせている姿があった。
そして、その背中から黒いマントを翻した人が飛び降りて、こちらへ向かって走ってくると、ローランディスさんを腕で勢いよく薙ぎ払った。
壁に押し当てられて掴まれていた手首が自由になってローランディスさんが床に倒れ込んだ瞬間、私の体はキツく、キツく抱きしめられた。
「エミリア!! エミリア……」
服越しにも感じる温かくて、厚い胸板。
力強い、腕の感触。
それに、とても懐かしい安心感のある爽やかな香り。
そして、久々に聞く耳に心地いい私の名前を呼ぶ声。
何が起こったのかよく分からないけど、これもローランディスさんの一連の魔法みたいな所業の1つなんだろうか?
もう、どうでもいいや。
この私を抱きしめる目の前の人が、本物である訳がないし。
それならいっその事、クロウディア様みたいに現実じゃない世界が現実だと思い込んで、この異世界みたいな邸宅で一生を過ごすことになったって構わない。
「アルフリード、ずっと私のそばにいて……もう、どこにも行かないで」
その幻みたいな胸板に顔を埋めて涙を流しながら、私は自分の1番の願い事を口にしていた。
「ああ、ずっと、ずっと君のそばにいる。僕は君なしじゃ生きていけないって事が分かったから」
その幻はそう言って、私の体から身を少し離すと、切なげなクロウディア様にそっくりな綺麗な瞳を閉じた。
その髪の毛は短くて黒くて、本当に本物の彼に見間違ってしまいそうだったけれど、そのままその幻は顔を私の方に下ろしてきて、深く口づけをしたのだ。
私も目をつむって、ただただ求められるままに身を委ねていた。
そして、やっと解放されたと思うと、急に腰とヒザの下に手が差し込まれて、私の体は軽々と持ち上げられてしまったのだ。
なんだか懐かしい体勢をさせられた私の目の前には、ずっと会いたくて仕方がなかった、愛しい人の顔があってこちらを見つめている。
「一体、どうしてこんな所にいるんだ? まさか、僕の知らない間にローランディスと縁談話が進んでる訳じゃないだろうな」
こんな事を言ってくる幻なんて……
つまりローランディスさんと私の事に、嫉妬しているってことだろうか……?
何だかヤケに設定がシッカリしている感じもするけど、私の顔の周りにかかる髪に手を当てて見つめているその人を見ていると、もう全てがどうでもいいような気がしてきてしまう。
そうして彼と見つめ合っていると、なんと彼の首すじに鋭い先端を持つ刃物が添えられてきたのだ。
「まさか、君がここに現れるのは想定外だったけど……彼女は大事な切り札なんで、返してもらえるかな?」
そう言うのは穏やかな口調ではあるけど、何かとても冷酷な表情を浮かべているローランディスさんだ。
彼は、この幻と思われるアルフリードを脅しているというの……?
まさか……まさか……
私は思わず、すぐ目の前にいる男性のほっぺたをつまんで、ムギュッと引っ張っていた。
「イテッ……ちょ……エミリア痛いんだけど!」
そう言うと幻だと思ってたその人は、痛そうに顔をひそめて、そっと私の手を掴んで頬から離した。
!!!
まさかの事実に、私は目と口を大きく開いて、全身がワナワナと震え出すのを止めることが出来なかった。
じゃ、じゃあ、ここにいるのは、ほ、ほ、本物の……
「アルフリード……? アルフリード!!?」
目の前にいる彼は笑いはしないものの、そんな私を上目づかいで見つめた。
「ど、どうして、ここにいるの? それに……皇女様との結婚の日取りも決まったって聞いたのに、さっきみたいな事しちゃって大丈夫なの!?」
先程の情熱的な口づけを思い出してパニック寸前の私に、アルフリードはふぅ、と大きく息をついた。
「確かに婚約は周りが早まって発表してしまったけど、エルラルゴが生きていると思っているソフィアナが同意を拒んでいるんだよ。それに、結婚の日取りなんて話は僕自身、聞いたこともない」
そ、そうなの……?
でも確かにローランディスさんはさっきそう言ったよね?
訳が分からなくなってる私を抱えながら、アルフリードは剣を向けているローランディスさんの方に体を変えて向き合った。
「ローランディス……これは一体どういうことなんだ? 屋敷の窓を割ったのは悪かったけど、僕たちは親類同士なんだ。そんなものを突きつけるなんて、物騒じゃないか」
低い声でそう言う彼とともに、私もローランディスさんの方を睨みつけてしまっていた。
本当に、この人は一体何が目的なの?
ただ、私を自分の欲求のために閉じ込めようとしていたのかと思っていたけど……
さっき私の事を“切り札”と言っていたのは、ハッキリと聞こえたのだ。
それに……
「ア、アルフリード……ここにいるのは私だけじゃないんだよ。ルランシア様もいるし、それに……」
そう言った途端、アルフリードはバッと私の方を見て驚きの表情を浮かべた。
そして、クロウディア様がいる事も告げようとすると、
「それ以上言うんじゃない! アルフリードが夢中になるような娘で面白そうだから少し構ってやってみたが、もう出番がくるまで静かにしていてくれないか?」
人が変わったようにピリピリとした表情をしたローランディスさんは、一際大きな声を放った。
そしてアルフリードに突きつけていた刃物の先端を今度は、私の眼前に向けたのだ。
私が恐怖に体を強ばらせると、アルフリードは守ってくれるみたいに私を抱える腕に力をこめた。
“出番がくるまで”……?
一体、この人は何を言っているの?
「ここに叔母上がいるのか? この前、君の邸宅に行った時にはいないって言ってたじゃないか、あれは嘘だったのか……?」
アルフリードは失望したように声を発したけれど、ローランディスさんはヒュッと剣を上に振り上げると、自分の肩にトンッとそれを乗せて、不敵に笑った。
「そこのエスニョーラの娘は叔母上みたいに仮死状態にさせるとして、君のことはどうしようかな、アルフリード。別に僕にとったら、君が生きていようが死んでいようが、どっちだって構わないんだ」
そう言って、彼はアルフリードに視線を向けた。
い、今、彼はとんでもない事を言ったと思ったんだけど。
この世に存在するはずがなかったクロウディア様は、人を死んだように見せかける秘薬を使って生き返らせたって言ってた。
それじゃあ、さっきベッドで眠っているのを見たルランシア様も同じものを使って仮死状態にさせている……そういうこと?
すると、私のことを強く抱き上げていたはずのアルフリードの腕の力が徐々に弱くなってきている感じがした。
彼の顔を見上げると、開いているまぶたが薄く閉じかかってしまっている。
ダメだ……! このままじゃ彼の意識が無くなって、私は床の上に叩きつけられてしまう。
そう思っていたところ、
「ブフーー」
さっきから栗毛の大きな馬であるガンブレッドが実はずっとローランディスさんの後ろにいるのだが、彼は神経質な様子で前足を突っ張らせながら、唸り声をあげていた。
唸り続けているガンブレッドをローランディスさんは見やると、彼の方をジッと見つめた。
途端に力が弱まっていたアルフリードの腕は再び元に戻ったのだが、ローランディスさんはガンブレッドを見つめながら、顔を割れた窓の方にサッと向けた。
すると……唸っていたガンブレッドは静かになって、その窓から外へカッポカッポとひずめの音を鳴らしながら、出て行ってしまったのだ。
そんな……主人を置いて彼が行ってしまうなんて!
言いようの知れない恐怖を感じていると、ローランディスさんは私たちの方に向きを変えて、再びアルフリードの事をジッと見た。
また、アルフリードの腕の力が弱まり出して、体がフラフラと揺れ出した。
「ア、アルフリード、しっかりして……もう、やめてください! お願いだから……」
私は一生懸命、アルフリードの両肩に手を置いて揺すりながら、なんの術だか分からないけど、彼に何かをしようとしているローランディスさんに向かって叫んでいた。
それでもピクリとも顔の表情を動かさずにアルフリードを見続けてる彼に、もう一度呼びかけようとした時、
「ローランディス、もうやめなさい」
男性の声が部屋の中に響いたのだった。
その声のしたガンブレッドがさっき出て行った窓の方に、ローランディスさんは視線を向けた。
その先には、馬に乗った男性の姿。
あの方は……
「グレイリー叔父上……」
私の頭上から声がした。
見上げると、意識の薄まっていたアルフリードが再び焦茶色の瞳をしっかりと開けて、窓の外を見ていた。
「今しがた到着したら見慣れない馬がこちらから出てきたから、来てみたものの……もう彼までここに来てしまった以上、こんな事を続けていてはいけない」
馬に乗ったままうなだれてそう言うグレイリーさんの言葉を聞くと、ローランディスさんはカッと目を見開いた。
「父上……今更、この幸せな生活を手放してしまうおつもりですか? 彼のことなら心配いりませんよ、僕が適切に処理して見せますから」
うっすらと笑みを浮かべながら、そんなセリフを吐く彼に私は心の底から寒気がしてきたのだ。
リリーナ姫のパートナー選考会で親しげに話しかけていたアルフリードに対して、しょ、“処理”なんて言葉を平気で口にするなんて……
「彼……と言うのはアルフリード君のことではない。途中から後を付けていた事は気づいていましたよ。いらっしゃるのでしょう、公爵様?」
グレイリーさんは、少し後ろの方に体を向けながらそう言った。
すると、ガサゴソと音がして、窓の外の庭に植わっている茂みから大きな男性が姿を現したのだ。
それは半年前にお見かけして以来の、この国の貴族家で最大の権力を誇っているあの方。
今は姿を見せないけれど、彼の愛するただ1人の女性がいらっしゃるこの地に、こうして役者は揃ったのだ。
ここで私はヘイゼル家最大の謎の解明と、世の中を揺るがす衝撃の事実を知ることとなってしまう。