115.彼の出した結論
その言葉を聞いた瞬間、周りの時間が止まってしまったような感覚に陥った。
今、彼は何て言った……?
「な、なにを言っているの……アルフリード? そんなこと言わないで」
私は戸惑いながら、恐る恐るもう一度、後ろを向いたままの彼に近づいて、その腕を掴もうとした。
けれど今度はさっきよりもハッキリと、触れかけた私の手を払いのけて、3歩ほど前に彼は進み出た。
「もう、君のそばにはいられない……」
その声は低くて、やっと絞り出しているかのようだった。
どうして、そんな事を急に言うの?
いや、これは急な事なんかじゃない……
彼が目覚めてから、ずっとこういう態度だったんだから……
それも全て、
「わ、私が婚約破棄をしたから、そんなことを言うんだよね……? 私、あれは間違ってたって気づいたの……あなたが許してくれるまで、ずっと待ってる。ううん……許してくれなくたっていい! それでも、私は絶対にあなたから離れたくない!!」
そう言って、私を拒んでいるその背中に抱きつこうとした時、
「君の近くにいるのがもう、ツラいんだよ!!!」
これまで聞いたことのない怒気のこもった声が響き渡った。
その声の波動の様なものを感じた瞬間に、全身にビリビリと痺れが走り、その背中に抱きつく直前で私の体は一歩も動けなくなってしまった。
「君には分からないよ……前のように振る舞おうとしても、それができない……さっきみたいな態度しか取れないんだ……」
後ろを向いたアルフリードは、両脇に下ろしている手を拳に握って、それを震わしていた。
「さっきみたいな態度って……私が泣いてた時のこと? あ、あれくらいのことだったら平気だよ。だって、私はあなたにもっとひどい事したんだもん。あなたが私のそばにいてくれるなら、どんな事だって耐えられるよ? だから、離れるなんて言わないで……」
泣いている私を見て“もっと泣けばいい”なんて、前の彼だったら言わない。
確かにそう思った……だけど、そう思っていたのは私だけじゃなくって、彼自身もだったんだ……
再び私の目に涙が滲み始めた。
「君が……傷つく度、そんな事をした自分自身にも傷ついていく。だけど……僕はもう君を傷つけることしか出来ないんだよ……」
彼は少しこちらを振り向くように、左横に顔を向けたけど、長い前髪によってその表情は見えなかった。
「だ、だから、私はいくら傷ついてもいいよ!」
彼はやっぱり私のことをまだ大切に思ってくれている……?
それだったら、彼を引き止めておかなくちゃ……
その背中に向かって私は必死になって叫んだ。
「あなたがいなくなったら私はこの世界に生きている意味がなくなっちゃうの。だから、それだけは絶対にダメなの!」
そんな私を遮るように、彼は横を向いたまま小さく口を開いた。
「エミリア……僕にはもう、君を愛せる自信がない」
そのツラそうに発せられた言葉に、私は目を見開いた。
「もう、僕の前に現れないでくれ……」
白や紫色の小さな野花が咲いている青々とした草を踏みながら、アルフリードはガンブレッドの方へと歩き出した。
私の両目からは滲んでいた涙がとめどなく流れ出して、頬を伝って行った。
「ま……待って、アルフリード……行かないで」
離れて行ってしまうその大好きな、広い背中に手を伸ばした。
「待って……置いていかないで……私のことを、捨てないで……!」
よろけるように足を前に出すと、ガンブレッドのすぐ目の前まで移動していた彼が片手を挙げた。
すると、どこからともなく私の両脇が抱えられて、身動きが全くつかなくなった。
「エミリア様、こちらへ。ご自宅邸までお送り致します」
聞いたことのある人の声がすぐの所から聞こえて、見上げると、腕を掴んでいる人物、それはヘイゼル騎士団長だった。
そして、反対側は別のヘイゼル騎士の人に掴まれている。
「な、何するんですか? 離してください!」
彼らに捕まえられているうちに、アルフリードはガンブレッドに飛び乗って、みるみるうちに遠くの方へ駆けて行ってしまう。
「アルフリード……待って、イヤ……イヤアァァ!!」
まだ、まだ話したいことがたくさんあるのに……!
まだ観光ツアーだって途中までしか再現できてないのに……!!
私は激しく泣き叫んで、手足をジタバタさせ暴れようとしたけれど、騎士団長さん達は全く動じることもなく、近くに待機させてあった馬車まで私を運び入れた。
「どうして……どうしてですか、団長!?」
これまで、アルフリードのお酒の禁断症状を止めるために監視してくれていたヘイゼル騎士団長。
私とも気さくにお話させてもらったり、私がアルフリードに尽くしている姿もたくさんご存知のはずなのに……
「これは、坊っちゃまからのご命令なのです。合図を出したら、こうするようにとの……」
今度は私が馬車から出ないように監視するため、一緒に同乗している彼は口数少なく、そう答えた。
じゃあ、アルフリードは今日ヘイゼル邸を出る時から、騎士団を尾行させて、私に話を切り出す機会をうかがっていたって事……?
ここまでして私を遠ざけようとする姿勢に、体全体が鉛を積まれたみたいに重くなってきた。
なんとか団長の目を逸らせて、ここから脱出してアルフリードを追おうと考えていた私だったけれど、そんな気力も無くなってしまっていた。
彼がそこまで私を避けている……いや、本気で私との訣別を考えていたなんて……
私は何も考えることができなくなり、エスニョーラ邸へ到着するまでの間、ただただ馬車の中でうなだれ続けた。
自宅に到着すると、家族の目を避けるように足早に自室へ入り、ベッドに倒れ込んだ。
“もう、僕の前に現れないでくれ”
この世界にやってきてから、ずっと、ずっとその人のために生き続けてきた。
その人から掛けられた言葉が、耳の奥でコダマしている。
決して、私の方を見て話してはくれなかった……
次の日の朝。
「おはよう、エミリア。あら、その格好。今日からまた女騎士に戻るの?」
皇城への出勤前、最近はアルフリードの付き添いでドレス姿だったけど、自宅邸での朝食に向かう騎士服姿の私を見てお母様はそう声を掛けた。
一晩中、どうするべきなのか考え続けた。
アルフリードは私がそばにいるとツラいと言っていた……
アル中で倒れ、その治療が終わった後も、彼が一体何を考えているのか分からなかった。
以前と違う言動の彼に、違う人になってしまったのかと思っていたけど、彼はちゃんと正気でいたのだ。
そんな彼が伝えようとしてきた胸の内。
私を前にすると、以前と同じように振る舞えないんだと……
私を……愛せないんだと……
私としては、そんな事を言われただけで引き下がる事はできないけど、少しの間、彼とは距離を置くべきじゃないかと考えた。
そして、私がこの世界で生きるもう1つの理由。
皇女様を馬車事故からお護りするための、女騎士業に専念しようと思うのだ。
皇城へ行けば、アルフリードの様子も分かるし……
騎士服の時にいつも一緒に通っていたフローリアは、ヘイゼル邸にいる。
うちに連れて帰りたいけど……妊娠中の彼女は、旦那さんのガンブレッドのそばにいた方がいいだろうから、置いておいてあげようと思う。
そして、エスニョーラ騎士団から借りたお馬さんで皇城に到着した私は皇女様のところへ抜け道を使って直行しようと、裏門にやってきた。
中に入ると、門を開けてくれた騎士の人が急に姿勢をシャキーンと整えて、敬礼をした。
何だろうと思って見てみると、そこには皇太子様がお一人で歩いていらっしゃる……!
初めてここでお会いした時、裏門の鍵が植木鉢の下に置いてあることをご存知だったように、皇太子様はこの辺りを昔からよく散歩しているのだそうだ。
ピアノでの会話がよく分からない私は、今まで全く皇太子様とはコミュニケーションを取った事がなかったけど、会釈をしてご挨拶した。
皇太子様は歩きながらしばらく、こちらをジッと見ていたけど、何も言わずにそのまま向こうの方へ行ってしまった。
「うーむ、ヤツも随分、悩んでいるようだな……」
皇女様の自室にて。
アルフリードを元に戻すための”過去の私”復刻作戦にも皇女様には協力をしてもらっていたので、それをもう中止したこと、そして昨日アルフリードと何があったのかを洗いざらいお話した。
「それで、アルフリードとはしばらく距離を置いて、女騎士の方に完全復帰したいと考えているんです」
「そうか、私はそれで構わないが、アルフの事は心配ないと思うぞ。あれほど、そなたにゾッコンだったのだ。またすぐに恋しいなどと言い出すに違いない」
ソファに向かい合って座っている皇女様は私を勇気づけるように、形のいい口元に笑みを浮かべた。
うん……彼からあんな事を言われて、昨日はこの世の底辺に落ちたみたいな絶望しか感じられなかったけど、皇女様とお話して気持ちが少し軽くなった。
私も柔らかく笑みを返していると、扉がノックされた。
「皇太子殿下がおいででいらっしゃいます!」
皇女様が返事をすると、扉を開けた家来の人が申し出た。
皇女様はけぶるまつ毛で縁取られた瞳を少し見開いた。
そうした反応をするのも分かる気がする。
皇女様から皇太子様の元へ出向く事は多いけど、皇太子様が自ら皇女様の所にいらっしゃるなんて珍しい事だ。
私が知る限り……初めてかもしれない。
皇太子様がお部屋に入られると、私は騎士業に入ろうと立ち上がって皇女様の後ろに回ろうとした。
すると、背中に掛けているキーボードを取り出した皇太子様はポロロンとメロディを奏でた。
それを聞いた皇女様は、いささか驚きの表情を浮かべた。
「お兄様、なぜ? エミリアに話があると……?」
皇女様の言葉に私も驚きを隠せなかった。
わ、私に皇太子様からお話が…!?
なんなのか見当も付かず、お2人が座っているソファに私も同席させて頂いた。
すると突然、キーボードからなんとも暗くて重い感じのメロディが鳴り響いたのだ。
「まず結論から言う。君は即刻、この皇城から立ち去らなければ……ならない? なぜなら君の存在は、異質だから……だ?」
所々、疑問系になってしまう皇女様の通訳。
私がここから立ち去らないといけない……?
それに、異質な存在……?
思慮深く整っているけど、今日はなんだか影が差しているお顔立ちの皇太子様。
さっき裏門のところでお会いしたようにジッと見つめているその瞳は、私のすべてを見透かしているような空恐ろしさを感じさせるものだった。