111.彼のトラウマ
「だいぶ症状も改善しています。依存していた期間は一時的だったので比較的早めに回復しそうですね」
定期的にヘイゼル邸にいらっしゃるお医者様は、アルフリードを前にしてこうおっしゃった。
10分に1回のあのハードな治療法や、手を繋いだり抱きついたりとスキンシップを欠かさず、足丸出しで見た目でも彼の注意を惹きつけたり、ルランシア様にお酒を撤去してもらったり……
色んな事をした甲斐があってか、アルコール中毒は順調にアルフリードから姿を消しつつあった。
「そうか、それは何よりだ。山にいた間も報告は受けていたが陛下から離れられず心配していたのだ。エミリア嬢も……乙女心は複雑というが、よくぞ息子の元へ戻って来てくれたな」
そうおっしゃったのは、久々のご登場。アルフリードの父上、ヘイゼル公爵様だ。
エルラルゴ王子様がいなくなった事で、世界情勢的にも色々かげりが見えてきた事もあり、そろそろ皇帝陛下と公爵様にも戻ってきてもらおうと先日、私のお父様が彼らを療養先の山から連れ帰ってきたのだ。
しかし……公爵様もまたルランシア様と同じように、私がアルフリードをこんなふうにしてしまった事に対して、咎めるようなことも言わず、自然に受け入れて下さっている姿に、思わず頭が下がってしまう。
「それより、侯爵が心配しているようであったから、婚姻が済むまでは夜はもう自宅に帰るようにしなさい。いいね?」
そう公爵様から言われた途端、まるであの夜の事を見透かされているような気がして、ギトリと脂汗が背中を伝った。
この診察はあの夜から2日くらい経っているけれど、あの後も私はヘイゼル邸に滞在して、アルフリードのお世話を続けていた。
そして夜についても……実は頑張って今までそうしていたように、自ら彼のベッドに入って一緒に寝ようとしていた。
だけど気づくと彼は隣りから姿を消してしまって、なんと中扉を使って私の使っている隣部屋のベッドに移動してしまうのだ!
何度、私もまた隣りに行っても、彼は別の所に移動してしまう始末で、私を無視して同じ所で寝ていた以前よりも、報われない状況になっていた。
かといって、また見知らぬ人のような雰囲気のアルフリードと、フローリア達のような事態になるのもまた、私にとっては複雑な胸中だった。
だから公爵様から夜はお家に帰りなさい、とハッキリ決めてもらえたのは、私にとっては良かったように思う。
「10分に1回の治療も、30分に1度程度に減らしてみましょう。最終的には、好きな時にしても問題ない状態にしていければベストです」
最後にお医者様はそのように言われた。
ヘイゼル邸には公爵様が戻って来たのはもちろん、執事頭のゴリックさんに、他の手慣れた使用人さんも戻ってきていた。
ダウンしてしまったロージーちゃんの代わりに、ママのマグレッタさんは引き続きお屋敷に残るし、騎士団長さんも彼の警護を続けるけど、以前の体制に戻ったヘイゼル邸にアルフリードを託して、私は久々にエスニョーラ邸で夜を過ごすことにした。
「いいか、エミリア。私のサインをしておいたから、ここに彼のサインをして陛下にお渡しするんだぞ」
その日の夜、お父様の書斎にて。
手渡されたのは……真新しい婚約証だった。
婚約を破棄したと言った時はものすごく激怒していたけど、お父様はちゃんと手配をしてくれていたんだ。
「あ、ありがとうございます! ですが……以前は、婚約時にはお父様と公爵様のサインしか無かったのに、今回はアルフリードのものが必要なのですか?」
私がヘイゼル邸のテラスで2つに引き裂いてしまった最初の婚約証……あれが、どうなってしまったのかその後は分からないけど、そこには当主のサインしかしてなかった。
「20歳前の者が婚約する場合は、保護者がサインする決まりになっているのだよ。2年前はまだ彼はその年齢に達していなかったからな」
へぇー。お酒が飲める年齢と一緒で、20歳を過ぎたら保護者の同意がなくても婚約や結婚ができるという事なんだ。
私はまだ16歳だから、今回もお父様が保護者としてサインしている、という訳なんだ。
「前回はお前が婚姻できる年齢に達していない、ということで彼は2年待つ事になった訳だが……今回はすぐに婚姻証を発行してもらえるぞ」
そう言って、お父様は書類の一点を指差した。
そこには“婚姻証の発行を希望する”というチェックボックスがついた項目がある。
前回は、ここにチェックを入れなかったから、私とアルフリードは婚約止まりだったけど、今回は年齢的にもうチェックを入れても構わないということだ。
私はその書類を受け取って、自室に戻った。
まだアルフリードは以前と同じではないけど……今度こそ、私はあなたと婚姻をするつもりで、婚約するからね。
だから……あの時のことは、どうか許して……
私の脳裏には、2枚に破れて地面に落ちた婚約証を前に、ひざを突いて、うなだれているアルフリードの姿が映し出されていた。
次の日の朝。
前に、初めて帝都の観光ツアーにアルフリードが連れて行ってくれた時に買ってもらった、伝統織の布を使ったカバンに大事に婚約証をしまって、私は馬車に乗りヘイゼル邸へ向かった。
皇女様やリリーナ姫の女騎士になる前は、毎日アルフリードが私の所に迎えに来てくれて、一緒に皇城へ向かっていたけど、今日からはそれが逆転するのだ!
「アルフリード、おはよう! よく寝れた? 今日はエスニョーラの馬車で皇城に行こうね。でも、その前に……」
朝食を終えた所だったらしいアルフリードは、お着替え中だったので、私は昨日まで使っていた隣の自室で待機しつつ、準備が整ったところで中扉から彼の部屋に顔を出した。
そして、カバンから昨日お父様より預かった、婚約証とペンをババンッ! と取り出した。
善は急げで、すぐに彼からサインをもらって、今日にも皇城に提出してしまおうかと思っているのだ。
本当なら、彼がしていたみたいにプロポーズを甘いシチュエーションで行なって、ここにサインする……というのが最高の流れなんだけど、彼がこの状態ではこうするより他ない。
使用人さんから皇城に行く時にいつも持って行っているカバンを無言の無表情で受け取っていた彼だったけど、私が差し出した婚約証に目を向けると、その動きが止まった。
「これね、お父様が新しいのを取り寄せてくれたの。私、今度はあなたと絶対に結婚するから。だから、ここにサインを……」
私がそう心を弾ませながら言った時だった。
婚約証が乱暴に私の手から奪われた。
そして、それを手にしているアルフリードは……片手でグシャッとその紙を握りつぶすと、部屋の端っこに向かって勢いよく、投げ飛ばした。
その短時間に目の前で起こった出来事が何なのか、私は一瞬、理解することができずに目を見張った。
アルフリードは、口も半開きで硬直している私にも、投げ飛ばした丸い紙の塊にも目をくれず、素晴らしく清潔で完璧な仕事着姿で部屋を出て行こうとした。
私は慌てて部屋の隅に転がっている紙を拾い上げて、アルフリードの後を追った。
「アルフリード、待って!! そ、そうだよね……私があんな事したんだもん、こんなもの見たくも無いよね……!」
私は彼の心情を図る、思いつく限りの言葉を必死に掛けながら、長い足でどんどん玄関の方へ行ってしまう彼を追いかけた。
やっと馬車止めの所で立ち止まってる彼に追いついたので、その手を引っ張りながら、私は乗ってきたエスニョーラの馬車に彼と一緒に乗り込んだ。
アルフリードは、私の隣に座りながら、一回憂鬱そうにため息を吐くと、窓枠にひじを突いて外の方に目線を向けていた。
「ごめんね、アルフリード……わ、私、待ってるよ。あなたの方から婚約証にサインしてくれるのを……! だから、さっきの事はもう忘れて……」
そう言いながら、ずっと手の中で持ち歩いていた丸まった紙を、私は自分のカバンの中に押し込んだ。
彼が何も感じずに、すんなりとこの紙にサインをしてくれると思っていたなんて……自分の考えがあまりにも浅はか過ぎて、悲しくなってくる。
泣きそうになるのを抑えるように、こちらに見向きもしてくれないアルフリードの体にしがみついていた。
馬車の窓に反射して写っている彼の表情は、心ここにあらず、といった感じの哀愁に満ちたものだった。
「ほら、エミリア! 10分経ちましたわよ!」
皇城の皇女様の執務室には、以前、エルラルゴ王子様がよくワークショップのスケジュール確認とかをする時に使っていたソファの所に、今では彼の弟のユラリスさんが陣取っていて、自国に関する情報収集などに励んでいた。
そして、彼のすぐそばにはリリーナ姫がいて、彼女のルーティンに組み込まれたアル中の治療行為を、至って健全なユラリスさんに実践しまくっていた。
「姫、もう10分に1度じゃなくていいんですよ。30分に1度に変更になったんです」
姫からの命令調の声を受けると、ドギマギするクセがついてしまった私が、引きつった顔でそう返事をすると、ユラリスさんは明らかにホッした表情を浮かべた。
「あ、そう。じゃあエミリアは、そうすればいいわ。わたくしは今まで通りで行きますから」
そんなユラリスさんの安堵感は、自分軸のしっかりした姫の前に、あえなく崩れ去った。
「ほう、アルフの具合もだいぶ良くなってきたようだな」
そんな私たちの様子を頼もしげにご覧になりながら、皇女様が話しかけてきた。
「はい……アルコールの方は何とか治まりそうなのですが、以前の彼と何だか違う気がするんです」
そんな、正直に不安を吐露してしまった私に皇女様は、こんなことを言った。
「ふーむ。頭を使った仕事は問題ないようだが、私も人当たりが以前に比べてあまりにも悪くなったのが気になっている所ではあった。これは、戻せるものなのか?」
良かった……以前の人当たりのいい彼に戻った方がいいんじゃないかと思ってる人が、他にもいて。
そうして、さらに日数が過ぎていく中、アル中治療の方はどんどん成果を見せてきて、ついに、
「もう、時間を決めずに、好きな時にしていいですよ。禁断症状の方も、心配であれば護衛の騎士様を付けられてもいいと思いますが、今の状態なら他の事例では完治されている方ばかりです」
や、やったー! 一時はどうなる事かと思ったけど……やっぱり、キスの力ってすごいのかな?
これで、人前で強制的にそんな真似をしなくて済むし、あの露出の激しい格好もしなくて済む。
そこで私は、前々から考えていたある計画を実行することにした。
名付けて“過去の私”復刻作戦である。